Number68 rev. / パーク VRアトラクションの 品格
【( 8½ )総目次 】
【( 8½ )総目次 】
《 本Blogの 今回の頁は引用できます。本頁は近く鋳型化されます。2023.05.xx 鋳型化ここから 》
〇 上宮法皇の国際感覚 維摩経義疏の続き 日本の国宝とその時代 ⑩
618年に 大宰府ニュータウン(条坊)が 公式にオープンしました。
当時の(移築される前の)観世音寺(現在の「法隆寺」)は 大宰府政庁の はす向かいにあって「身分、階級に関わりなく万民に公開された 仏教教育・研究実践施設」として機能しました。観世音寺の役割は、西欧 中世の教会と ほぼ同じです。教育と信仰の中心でした。Exective Producer(総責任者)は「大君 おおきみ」の上宮法皇です。そして、上宮法皇が 622年にお亡くなりになると、広く一般民衆からも 大君を惜しむ声が上がりました。(『日本書紀』「光背銘」などが証拠です。)
もしかすると「お困りごと 駆け込み窓口」(行政サービス代行 NPO)も、観世音寺と 初代(博多湾岸の)四天王寺が分担して担っていたのでしょう。例えば 田畑の「ため池」造成などの土木工事(隋から伝えられた 最新土木技術)も 帰国僧が直接、指揮をとっていたかも知れません。四天王寺には 戦傷者のための病院があり、防衛のための土塁の築造技術、そして外交シンクタンクも兼ねていた、と私は推測しています。
博多(倭国の中心地)は、当時、最高の品格を備えた 国際級の都市でした。
治水土木工事、国家仏教などは、隋の文帝の影響です。(後述します。)
607年 観世音寺 上棟 (@大宰府。四天王寺は それ以前に博多湾岸に。)
618年 大宰府 条坊の完成、街びらき
622年 上宮法皇 逝去
663年 白村江 敗戦 九州の豪族 中臣(藤原)鎌足と 大和朝廷が新羅に内通?
665年? 不比等の兄の留学僧 定恵が、鎌足の遺骨を京都 談山神社に改葬して、
その改葬が、以降の藤原家の隆盛を招いた(御堂龍児氏説)
672年 壬申の乱(大宰府にて)。天武天皇は 一時劣勢で日田市 玖珠川に敗走
701年 後の聖武天皇が誕生したので、不比等が 談山神社を(風水で)整備
710年 不比等の提言で 選地の法・四神相応の風水の理から 平城京に遷都
風水の教科書は 中臣家の伝承資料と、定恵?が招来した中国の玄学
713年 不比等の「九州王朝なかったことにしよう大作戦@博多」(56)
720年 日本書紀が 架空の 聖徳太子像を公開。(712年 古事記、713年 風土記)
そして『十七条憲法』は、倭国の大君と官僚のための 指針でした。
中村元著『聖徳太子』1990年に その見事な口語訳と英語訳が載っており、
英文を併せて読むと良く分かります。憲法=厳しい法(のり)は 前半を
上宮法皇が制定され、後半は施行後の改善点を息子さんが増補されて
17条になったという説があります。(中村氏説ではありませんが。)
ちなみに「君が代」の 君は、歴代の 倭国の「大君」です。
( 君が代 長野五輪開会式 芝祐靖 宮田まゆみ )
そして『十七条憲法』の思想を支えたのが「三経義疏」でした。
亡くなるまで、上宮法皇は 政庁に通って 政務をおとりになりました。政庁は 徴税と軍隊を取り仕切ります。(上宮法皇のお生まれが 574年だったとすると、観世音寺の上棟 607年は 33歳頃、ご逝去は 48歳頃になります。572年説もあります。)
※ なお、中村元氏が「日本の名著2」と『聖徳太子』1990年 に書かれた聖徳太子の伝記は『日本書紀』を元にされており 実際の 倭国の上宮法皇と異なりますが、聖徳太子の思想の解釈は他の類書を引き離しています。特に『十七条憲法』の翻訳 は 見事としか言いようがなく、聖武天皇に招かれ大仏開眼をとり行なったインドの高僧のお墓を中村元氏は探してお参りしておられますが、そのインドの高僧も上宮法皇のご業績を知り 仏教布教のため 来日を決められた、のかも知れません。)
そして、上宮法皇は 隋の文帝が大好きでした。文帝は 首都圏の人口増を支えるために、江南地方と長安を結ぶ「大運河」を 建設して経済を活性させました。そして、仏教で善政を敷きました。上宮法皇と弘法大師が、それを真似ています。長安で 恵果和尚が、留学後 間もない学僧 空海さんに帰国を強く促したのは、この 上宮法皇の(国政における)国際感覚を空海さんに「早く戻って勉強しなさい」と勧めたからでした。(恵果和尚には、相手が将来 成し遂げる業績を予見する「能力」がありました。学僧 空海は 皇帝も厚く尊崇する恵果和尚の予見を頼りに、 仏典、仏像、曼荼羅図、楽器などを急ぎ大量に買い込んで、叱責を恐れながらも 次の便で博多に戻りました。)
改めて考えてみると、帰国後の弘法大師が、ため池の造成工事や 治水を 全国で 帰国僧に指導させたことや、更に「十住心論」の論じているような「仏教各宗派の伝える仏典が バラモン教の最高経典ウパニシャッドに照らしてどの部分の内容を究めたものか」について考察したこと、の どちらもが「既に 上宮法皇が 7世紀に着手されていた実践と研究」でした。(そもそも 大宰府条坊 の造成土木工事が、若い上宮法皇の ご指示で始まったことを思い出して下さい。)
弘法大師は、上宮法皇の思想を深く理解したので 日本を仏教立国へと導き、
仏教(僧侶)は(文官として)国家鎮護を担いました。
こうして(博多を真似た)奈良、京都の お寺と僧侶は、
国家の 善政のための、そして 外交のシンクタンクになりました。
ただし、そのためには、
九州王朝から徴税や 仏法研究の拠点が、大和朝廷に移されたと思われます。
ちなみに 7世紀までの 倭国の 迎賓館、外国人用ホテルは、博多のコウロ館(鴻臚館)です。3世紀の卑弥呼は コウロ館(筑紫館?)で 魏からの使者に接見しました。使者は 直ちに 手紙を魏(洛陽)に送り、援軍を九州に送らせる準備として、帯方郡から「水行十日・陸行一月」で 博多に軍団が到着します と 途中の国名を添えて 知らせました。607年には上宮法皇も、コウロ館で 隋の使者である裴世清を接見されました。ただし、607年の中国皇帝宛ての倭国の国書が「亡くなった文帝宛て」で知らずに読まれたという珍事から、来日した裴世清は中国の高僧ではなく外交官でした。余談ですが、隋から輸入された最新のテクノロジーの「箸」も、このコウロ館から全国に普及しました。
これは 私の推測ですが、倭国の遣隋使が 600年に派遣され 隋の都に着いたとき 文帝が「公式晩餐会」を催して、そのとき用意されたのが「箸」だったのではないでしょうか。朝貢使節の小野妹子?が持ち帰り、上宮法皇に披露しました。大君からは、
なるほど便利なものだね。皆にも教えて上げなさい、
と指示されました。
箸は コウロ館での外国人向けの接待で用いられ始めた、と 私は推測しています。
裴世清も、外国人の賓客として、日本製の箸を使いました。
以上の内容は、法隆寺が「大宰府の 観世音寺」から移築された(米田良三氏説。下の図-21も。)と考えて 「国宝VRデジタル復元」の手法で 立体復元するための準備を進めて、関連して分かった 7世紀の 倭国 博多の歴史です。(上宮法皇は その首都が博多の倭国の大君でした。)これをベースに考えると、法隆寺五重塔に 500年単位の仏法社会の公案が、そして 四天王寺に聖徳太子の預言が伝わった理由も納得ができます。上宮法皇は最先端・最高の仏教思想を 輸入・学習・布教したのです。
ということは、
私たちが SGDsで「国際的に歓迎される 未来のVR技術」を開発する際にも
「上宮法皇の国際感覚」を、弘法大師と同様に理解して臨めば、
国際的にも高評価な 高い品格のVR製品が開発できると確信できます。
本Blogで「三経義疏」を読解しているのは、そのためです。
今は まだ、日本史の教科書に 違ったことが書いてありますけれど、VR奥儀皆伝の Blog から、海外のセガ・エンタープライゼスのファンの方々が「Syun-itsu Nakakouji 中小路駿逸 しゅんいつ」「Takehiko Furuta 古田武彦」という お名前を知り始めました。中小路氏の「解説」Web頁を自動翻訳で読めば、何が問題で真実が知られなかったのかが分かります。おそらく、不比等の「九州王朝なかったことにしよう大作戦」が 最近まで 効力を持続していたのです。詳しくは、次号以降に。
※ 新泉社刊の合本「市民の古代」第2巻冒頭の 中小路駿逸氏による「 解説」。
そして 中小路氏論文のほか、新庄智恵子氏の『謡曲の中の九州王朝』も大変に
参考になりました。また、奴国 = 糸島平野は 中村通敏氏の卓見です。(57)
2022年に中村通敏氏が「魏志倭人伝」を証拠に、邪馬壹國の「敵国」が 狗奴国
だったこと を見破りました。これは 小学生でも タブレットで Wikisourceを
読めば 検証できます。それで(中小路氏の 倭国B を思い出せば)、
九州王朝は 誰にも否定できなくなった のです。
そこから 何が言いたいのかというと、現在の 私たちも「国宝 VRデジタル復元」を実習し、自ら訓練して、その復元調査に基づいて、織田信長、貞奴さん、京マチ子さんたちの「四書五経と 歌物語の品格」を学び、更に 上宮法皇、弘法大師から「仏教を経由した 宇宙の根理 ウパニシャッドの哲学、そして 華やかな 仏教美術の品格」を学ぶことができさえすれば、私たちが開発する VR作品には 海外の人から観ても 高い化生論の「品格」が備わっているはずだと思うのです。
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予定を 少し変更して、ここでは VR新製品の 製作実習を、一つ載せておきます。「上宮法皇の品格」を真似て、例えば、家紋付き自動車、の要領で「AI自動運転車を発明する」には どうしたらいいでしょう。
言いたいことは、こうです。AI自動運転車を「殺人の機械」にせずに発明する方法のモデルは、既に BC5世紀頃のインド哲学に ありました。新プラトン主義科学とも共通する「化生論」の方法で ひとつ AI車を設計してみましょう。ここで 先ず 私は、海外からの 斬新な輸入技術が 必ず 20年位で「国風」にカイゼンされていますよね、という上山春平氏説(31)を再度 指摘しておこうと思うのですが、
例えば、上宮法皇が奨励された「お箸」は、国民の大多数が 食事に使用して馴染んできたことから「サンリオ ハローキティ 箸&ケース 商品コード:879088」のように国風化されています。このカイゼンも ユーザ・マーケティングによる「化生論」なので VRの新商品開発と同じ手法です。しかも、キティちゃんは日本の意匠ですから、キティちゃんの お箸をステルス特許で訴えることは 不可能です。
ここでは「アメ車」を 特に「悪者」にする意図は全くありませんが、1939年NY 万国博の『フューチュラマ』(18)で予告された「モータリゼーション社会」の1960年代には、交通事故死者を「運転手だけが悪い」「ガレージで 子供をひき殺したのも 運転手の不注意」と一方的に決めつける「機械論科学」が正当化されました。実は、自動車工学の未熟です。後述しますが、古代ウパニシャッド や『ヘルメス文書』が述べる化生論を活用すれば、毎年数千人から多い年は1万人以上が当たり前だとされた交通事故の死者数が「歩車分離」「運転手2人制」「発進停車時の外部からの監視」を徹底して、死亡事故の犠牲者が 新幹線並みに下げられる、ことを本Blogで指摘しました。
そして更に、海外の「ステルス特許」の訴訟と和解(机の下で支払われる 2億円)を避けるために、日本の AI自動運転車のモデルに、
平安社会の「輿」を起源にした設計デザイン
を VR奥儀皆伝では 提唱しています。強いて 科学教育の言葉で説明すると フィードフォワード・モデルです。
また改めて説明しますが、ゲーテが潮出版社版「ゲーテ全集14」(自然科学論)で展開した「色彩論」や 生物形態モーフィングなどの発想は 主に「化生論」で、ゲーテは「新プラトン主義者」のプロティノス から これを学びました。
ショーペンハウエルは『意志と表象としての世界』を書く時に『ウプネカット』を「熟読した」そうです(世界の名著 続10、p.63、西尾幹二氏による解説)。キットカットじゃないです。ペルシャ語を経由したラテン語(重訳)の『ウパニシャッド』(BC 5世紀頃)です。(詳しくは、次号以降に。)ショーペンハウエルが ゲーテ「色彩論」の肩を持ったので 二ュートンの光学(光をピンポン玉のように考える)ではなく ゲーテの補色(光は波)の応用から 皆さんがゲームに使っている液晶テレビが 開発できました。
しかし、『意志と表象としての世界』は ゲーテが「読むのに1年かかる」と言っていますから、それよりも「三経義疏」のほうが早くに VRの奥儀が得度できるだろう、というのが、本稿を苦心して書いている目的です。ということで、「輿」をモデルにした AI 自動運転車の話に戻ります。何度も繰り返しますが、GAFAMの後追い研究 は(子会社の行なう)機械論科学です。ノーベル賞から最も遠く、多くが「ステルス特許」の標的にされるのです。(ここの節は「家紋つき自動車」⑧ )
葱花輦(そうかれん、天皇行幸用の 輿)
さて、日本古来の貴人の乗り物は「輿」(こし)でした。
万葉集の時代には 貴人が「輿」で街を進むと、国際戦の選手の凱旋のように街が活気に湧きました。尊崇の表われです。結論から述べると、貴人を乗せた「輿」には、お神輿と同様に地域社会を活性化する力があり、すれ違う住民や 田畑を浄めました。
輿は、田畑の あぜ道や 農道を巡ります。
神様をお載せした「お神輿」と同じです。 すれ違う神輿の一例: 野田神輿
クリントン大統領が日米貿易摩擦で「アメ車」をもっと買え、と来日したときに、通産省は大統領に自転車を用意して 元は農道である町の裏通りで「アメ車」とすれ違って貰ったら「参入障壁」云々の議論は消えたはずです。日本の乗用車は裏通りで 3人乗りのママチャリとすれ違えますが「アメ車」には できません。運転手のクレームを販売代理店が米国に忖度して伝えなかったことが「貿易摩擦」という大問題になりました。日本人のお抱え運転手が アメ車の運転を嫌がった、ということが輸入不振最大の原因です。
そして、現仕様の Google社の AI自動運転車には、誰も乗りたくありません。
現仕様の Google社 AI自動運転車は 1960年代の「アメ車」の再来だからです。
一旦 ドアを閉めたら、あなたは「共同体」から隔離されます。
それは、救急車とか 霊柩車に閉じ込められたのと同じ気持ちです。途中で乗客が家に忘れ物を思い出しても、AI車は必死に目的地に着くことしか考えていません。乗客が老人だと AIの運転手を気遣って、病院まで乗り続けているでしょう。
それなら、タクシーのほうが、ずっと良かった。
化生論なら 安定解が、いくつもあります。多函数の フィードフォワードの数理モデルで記述される場合が多いからです。VRで自動車のフロントパネルをデザインすると 良いデザインが生まれるのは、そのためです。しかし、Google社の AI 自動運転車は、目標をセットされたら、そこから外れると訴訟されることのほうを恐れます。乗客の気持ちをおもんばかる、余裕が全くありません。だから日本の AI 自動運転車 開発は、歌物語の品格を目指したほうが良いと 本Blogでは書いています。
桜の季節には、遅刻しても、AI 歌物語自動車なら回り道して 桜並木を走ります。遅れても、到着先では 桜の話題が歓迎されることでしょう。化生論には安定解が、いくつもあるのですから、例えば、AI 自動運転車が「徘徊老人」の機能を持っていても良いかも知れません。その街では、水曜日にこのおじいさんが病院に行くことを、街中が知っています。徘徊 AI 自動運転車は、とにかく事故を起こしたくないので、慎重な運転で街を行きます。
時々 慎重すぎて、運転手Aと Bの合意が取れずに ・・・、
自分がどこに向かうのかを 失念した ようにも見えるでしょう。
AI車が(徘徊老人と同じ理由で)また途中で迷っている と気がついた周囲の人
は、運転している AI の相談に乗ってあげましょう。目の前に、工事中進入禁止
の看板を見つけたら 普通の運転手は 自分だけで問題を抱えず、周囲の人に声を
掛けます。徘徊 AI車は、共同体の互助機能を高めます。逆に 出所の分からない
クラウドデータが AI車の行程を決めたり、電子カルテの欠落をクラウドで埋める
といった AIは、システム設計者の現場経験不足を 隠すことしか意味しません。
それで事故や 医療ミスが起きたら、AI開発会社が PL法の賠償責任社です。
Google車と 日本の 徘徊AI自動車、あなたは どちらに乗りたいですか?
スケッチパッドの発明者、サザランド氏が 米国防研究予算を振り分けるまで
の米国の宇宙ロケットには窓もなく、宇宙飛行士はライカ犬のように宇宙に
行って戻ってくるだけ、という機械論でした。Google車と同じ設計です。
徘徊機能つきの AI 自動運転車は、化生論科学の日本車の 一目標になります。
それが開発できた技術者の愛読書は「三経義疏」になるかも知れません。
「家紋つき自動車」
さて、Number68 は「近く鋳型化されます」という予告を 2月に書き、今回、
rev. 書き直しをしました。(本日は 2023年4月21日です。)本 Blogの鋳型化
予告頁は、溜まって来たので 近くまとめて「鋳型化」をする予定ですが、
ほとんど書き直しは 考えておりません。
しかし、本Blog(68)については、この後に 世界の名著2「大乗仏典」の
責任編集者 長尾雅人氏と梅原猛氏の「付録22」の対談を掲載したために、
ここでの『維摩経義疏』の 不二の法門 の取り上げ方が、予告としても 中途
半端となりました。長尾氏と梅原氏が 維摩経から「中道」を焦点に非常に
重要な切り口を提示されたからでした。詳しくは、つづきをお読み下さい。
《 鋳型化ここまで 》
Fellow 武田 「日本の国宝と その時代 ⑩ 上宮法皇の国際感覚」(VR奥儀皆伝(8½)(68))
Blog TP-VR Attract.のトリビア 2023.05.xx
『維摩経』における「不二の法門」
私たちの身体は 空(虚)なので 我・我所 わがもの を離れることができます。
「空」の認識には 煩悩が無く、また同時に 煩悩から離れてもいけません。
「五蘊」(主に VRの構成図の表示装置)は 空に随順すれば「不生不滅」で、
我と無我における不二性(二項対立を超えた境地)が我執のないことです。
「法」は 肯定(加えること)からも 否定すること(除くこと)からも離れて、
捨てる拾うなどの生滅からも離れます。ゆえに、不二とは、
(ことばで意識すると)相反しているものだ と煩悩が認識する「自分と他者」
「身体と精神」「悟りと迷い」などが即一になる境地です。
だから、ということで、
文殊菩薩が 維摩さんに「結局、不二って何?」と質問したとき、維摩さん
は「言葉で答えること」を しませんでした。
とりあえず、上の「不二の法門」の説明は、いったん 忘れて頂きます。
VR奥儀皆伝 を あと数回読めば、
内容が自然に 理解できるからです。
【参考】 19世紀 欧州における 仏教思想の流行。
ゲーテ『ファウスト』1808年、後半 1833年。(化生論科学。インド戯曲の影響も)
ゲーテ『色彩論』1810年。(化生論科学です)
ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』1819年。コトバンク。
そして、
ワーグナー『パルジファル』1882年。仏教オペラです。中世の韻文叙事詩『パルチ
ヴァ―ル』を下敷きにしていますが『ラーマーヤナ』のアイテムを借用して、彼の
ワーグナー(1883年没)は『パルジファル』の次回作に、『勝利者たち』という題の、
インドを舞台にした「こてこて」の 仏教輪廻転生物語を準備していました。
亡くなる 3日前には、セイロンに移住したい、と義理の娘に話しています。次回以降に。
【おまけ】Berlioz『ファウストの劫罰』ラコッツィ行進曲(化生論でなく東欧の讃歌です。)
VR奥儀皆伝( 8½ )(67)→ こちら