歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その2≫

2020-10-10 18:26:17 | 私のブック・レポート
ブログ原稿≪西岡文彦『二時間のモナ・リザ』を読んで 【読後の感想とコメント】その2≫
(2020年10月10日投稿)

【西岡文彦『二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む』はこちらから】

二時間のモナ・リザ―謎の名画に全絵画史を読む



【はじめに】


今回は、西岡文彦氏の『二時間のモナ・リザ』(河出書房新社、1994年)以外の著作である次の2冊の本を参照しながら、西岡文彦氏の『モナ・リザ』理解を紹介していこうと思う。
〇西岡文彦『モナ・リザの罠』(講談社現代新書、2006年)
〇西岡文彦『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)
『モナ・リザの罠』に拠りつつ、美術批評家のウォルター・ペイターにまつわる誤解の原因などを解説する。そして、『謎解きモナ・リザ』を基に、『モナ・リザ』という絵画の基本的特徴と、新発見資料の意外な筆者について、説明しておく。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・美術批評が仕掛ける罠 ウォルター・ペイター
・≪補足≫上田敏と夏目漱石
・吸血鬼呼ばわりされたモナ・リザ
・怪物メドゥーサを描くダ・ヴィンチ
・夏目漱石とモナ・リザの「不惑」
・西岡文彦『謎解きモナ・リザ』という著作
・『モナ・リザ』の特徴について
・モデルたちの肖像
・新発見資料の意外な筆者






美術批評が仕掛ける罠 ウォルター・ペイター


『モナ・リザ』に関する本を開くと必ずといっていいほど、お目にかかる名前がウォルター・ペイターである。オックスフォード大学の先生で、『モナ・リザ』についての世界で最も有名な文章を、19世紀に書いた。
その文章は、英語美文のきわみとして日本にまで知られた。明治翻訳詩の金字塔『海潮音』を編んだ上田敏(うえだびん)を心酔させた。
そして、東大英文科で教えていた夏目漱石もペイターを授業のテキストに使っていたそうだ。

このペイターの『モナ・リザ』論のなかでも、有名なくだりが、次の一節である。
「彼女は、自分を取り囲む岩よりも年老いている。吸血鬼のように何度も死んで墓の秘密を知った。真珠採りの海女となって深海に潜り、(中略)東洋の商人と珍奇な織物の交易もした。レダとしてトロイのヘレンの母であり、聖アンナとしてマリアの母であった。」
(富士川義之訳『ルネサンス/美術と詩の研究』白水社、62頁)

【かつて、ブログでこのテーマで記事を書いたことがあるので、参照していただきたい】
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫

西岡氏は、この一節について、ほとんど意味不明なまでに「文学的」であると評している。そのために、絵を客観的に解説するという批評本来の機能を失っていると批判している。むしろ『モナ・リザ』を題材にした「詩」と思ったほうがわかりやすいと付言している。
ただ、困ったことにはペイター以降の批評家の多くは、この「名文」を意識せずに、『モナ・リザ』の批評を書くことができなくなってしまった。

例えば、現代英国の美術史家であるケネス・クラークなども、この絵について書こうとすると、「ペイターの不滅の言葉が耳から離れず」、自分がなにを書いたところで浅薄で無価値なものにしかならないように思える、とペイター・コンプレックスを告白しているそうだ。

こうしたペイター崇拝もあって、『モナ・リザ』評といえば、なにやら「文学的」なことを書くのが通例のようになる。つまり、エッセイなのか詩なのか、わからないような「批評」が続々と登場することになる。読者も、この絵を見るには、「文学的」な思いにふけらなくてはいけないような錯覚を背負わされてしまう。いわば、ペイター的な批評の被害者となっている。

しかし、西岡氏は、主張する。ダ・ヴィンチ自身が『モナ・リザ』を絵画によって視覚的に表現している以上、それを見た感想が言葉にならないのは当然のことである。むしろ、そうした言葉にならない思いをかみしめることの方が、作者の意図にかなっているとさえいえる。「批評」が「罠」になることもあると西岡氏は注意を促している。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、5頁~7頁)

≪補注≫
なお、神秘的な作風でノーベル賞を受賞した詩人W.B.イエィツが編んだ『オックスフォード近代詩選』(1936年)は、その巻頭にペイターを載せている。
(こちらは、通常の文章としてではなく、文字どおりの詩として、次のように分かち書きをしてある)

彼女は自分の座を取り囲む岩よりも年老いている。
吸血鬼のように、何度も死んで、墓の秘密を知った。
真珠採りの海女となって深海に潜り、その没落の日の雰囲気をいつも漂わせている。
東洋の商人と珍奇な織物の交易もした。
レダとして、トロイのヘレンの母であり、
また、聖アンナとして、マリアの母であった。
そしてこれらすべては、彼女にとって琴と笛の音にすぎなかった。
これらすべてはただ生きるのだ。
(A.R.ターナー『レオナルド神話を創る』白揚社より)
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、64頁~65頁)

ドナルド・サスーン氏も、その著作の第6章の冒頭に、このイエィツの詩を次のように引用している。
In 1936, in his idiosyncratic introduction to his Oxford Book of
Modern Verse 1892-1935, W.B. Yeats reprinted part of Walter
Pater’s famous prose passage on the Mona Lisa as free verse
to underline its ‘revolutionary importance’ :
She is older than the rocks among which she sits;
Like the vampire,
She has been dead many times,
And learned the secrets of the grave;
And has been a diver in the deep seas,
And keeps their fallen day about her,
And trafficked for strange webs with Eastern
merchants:
And, as Leda,
Was the mother of Helen of Troy,
And, as Saint Anne,
The mother of Mary;
And all this has been to her but as the sound of lyres
and flutes,
And lives…
(Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishers, 2002, p.136.)

【Donald Sassoon, Mona Lisa : The History of the World’s Most Famous Painting,
Haper Collins Publishersはこちらから】

Mona Lisa: The History of the World's Most Famous Painting (Story of the Best-Known Painting in the World)


≪補足≫上田敏と夏目漱石


ペイターに心酔する上田敏は、雑誌『明星』にペイター論を掲載した。雑誌『明星』といえば、与謝野晶子の『みだれ髪』を世に送り、明治30年代の詩歌壇を恋と夢幻の浪漫精神で風靡したことで知られる。この雑誌に掲載された上田のペイター論は、全国の文学青年の胸をときめかせ、念願の東大入学がかなうや、上田教室へ向かった学生も多かったようだ。
上田敏といえば、訳詩集『海潮音』によって日本近代詩そのものの道を開いた人物である。東大大学院時代に『怪談』で有名な小泉八雲の指導を受け、「万人中の一人」と絶賛された語学の天才である。

また、当時の東大で一番人気の講座は夏目漱石の英文学講義で、他学科の学生までが押し掛けるほど盛況であった。やはりペイターを教材にしたが、漱石は「ペイターは判らん」あるいは「気六かし屋(きむずかしや)」や「八釜屋(やかましや)」といった言葉で評しており、上田よりはかなり冷めた目で見ている。
漱石は、真の英文学理解を目指したロンドン留学での猛勉強がたたって神経衰弱を病んだ後、小泉八雲の後任として東大で英文学の教鞭をとった。学生時代より秀才の誉れ高く、英語で著述して英国人と競うことの空しさを痛感し、英文学者から作家に転進することになる。
上田にしろ、漱石にしろ、明治日本を代表する二つの巨大な知性がいずれもペイターの英文を読んでいた。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、5頁~7頁、60頁~63頁)

吸血鬼呼ばわりされたモナ・リザ


なぜペイターは『モナ・リザ』を見て、よりにもよって「吸血鬼」を思い浮かべたのか。
この疑問について、西岡氏は解説している。
この点で、はっきりしていることがひとつあるという。ペイターが、ウフィッツィのメドゥーサをダ・ヴィンチ作品と信じて疑わなかったことである。つまり、誤解の発端は、ウフィッツィ美術館にある、次の絵にあるとする。
〇フランドル派『メドゥーサ』17世紀 油絵 ウフィッツィ美術館
この神話の怪物メドゥーサの生首の絵は、ダ・ヴィンチの伝記の記述に当てはまったせいで、ダ・ヴィンチの絵と誤解されてしまった。19世紀までの人々は、ダ・ヴィンチをグロテスク絵画の巨匠とみなしていた。
この絵は、19世紀半ばまでは抜群の人気を誇っており、多くの作家や知識人の『モナ・リザ』を見る目に「罠」をかけることになったと西岡氏は理解している。
ペイターの批評も、この絵と『モナ・リザ』を、同じテーマを描いた作品と誤解してしまったらしい。
つまり、ペイターの『モナ・リザ』観は、それがこのグロテスクな絵の作者によって描かれているという前提に立っている。加えて、この微笑する婦人像がルーヴルの洗礼者聖ヨハネの生首の原作者の絵だという、当時の常識の上に立っているという。

この聖ヨハネは当時のキーパーソンともいうべき存在であった。王に頼んで彼の首を斬らせた舞姫サロメこそは、この時代が生んだ最大なヒロインだった。
(そうした激しい気性のヒロインは、男の人生を狂わせ、生命までを危険におとしいれるから、「ファム・ファタル」つまり「宿命の女」と呼ばれた)

怪物メドゥーサを描くダ・ヴィンチ


〇フランドル派『メドゥーサ』17世紀 油絵 ウフィッツィ美術館
ウフィッツィ美術館にある不気味なメデゥーサの絵は、ヴァザーリの言葉の「罠」にかかり、18世紀にダ・ヴィンチ筆と認定されたようだ。19世紀の多くの知識人の『モナ・リザ』をみる目に「罠」をかけることになった。この絵と『モナ・リザ』を、同じテーマを描いた作品と誤解してしまった。
この事情を西岡氏は、「怪物メドゥーサを描くダ・ヴィンチ」と題して解説している。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、68頁~72頁)

メドゥーサは、その姿があまりにおそろしいため、見た者が石になってしまうという怪物である。これを退治に出かけた英雄のペルセウスは、楯を鏡にしてメドゥーサを映し、おかげで石にならずにメドゥーサの首をはねることができたといわれる。
ダ・ヴィンチは、この神話そのままに、楯に映ったメドゥーサの顔を描くことを思いついたようだ。
決め手となった文献は、ほかでもないヴァザーリであった。ヴァザーリが紹介したダ・ヴィンチのエピソードに、ダ・ヴィンチが不気味なメドゥーサを描いたことが述べられていたため、ウフィッツィ美術館のこの絵がダ・ヴィンチの作とみなされてしまった。
それは、古い楯になにか絵を描くよう、父に依頼されたダ・ヴィンチが、ギリシア神話の怪物メドゥーサを描くことを思いついたという話である。

ダ・ヴィンチは部屋に閉じこもり、トカゲ、こおろぎ、蛇、蝶、バッタ、コウモリといった動物をいろいろに組み合わせて、怪奇な動物をつくり出すが、作業に夢中で、死んだ動物が放つ悪臭も感じない様子であった、とヴァザーリは書いている。
それで、依頼した父も楯のことを忘れた頃に仕事は完成し、ダ・ヴィンチは父を呼び出して、部屋の採光を工夫して、中に入った瞬間、楯に実際にメドゥーサが映っているかのような錯覚を演出する。案の定、父セル・ピエロは仰天し、眼前にあるものが楯に描かれた姿に過ぎないことが信じられなかった、という。
(この話の真偽は別として、このエピソードは画家の本質をついたものとはいえると西岡氏は主張している。というのは、画家はその作品によって、神話の怪物さながらに見る者を凍り付かせてみたいという潜在的な欲望を持っているからとする)

さて、このヴァザーリの挿話に照らして、18世紀末にイタリア画家の伝記を編纂していたランツィという人物が、17世紀フランドル(現ベルギー)の無名画家のグロテスクなメドゥーサを、ダ・ヴィンチ作と「認定」してしまったそうだ。
ダ・ヴィンチの作とされるや、この恐ろしい絵の人気は急上昇し、19世紀半ばまでには、ダ・ヴィンチ作品の中でもトップクラスの知名度を誇るまでになっていた。
(なお、19世紀半ばには、ある貴族がルーヴル美術館にダ・ヴィンチ作の忠実なコピーであるとされる洗礼者聖ヨハネの首を寄贈して大評判になっているから、この頃になると、ダ・ヴィンチといえば、生首を思い出す人が少なくない状態になっていたようだ)

ペイターの『モナ・リザ』論も、こうした前提に立っており、はっきりとそのことを書いている。
「これらすべての群れをなす幻想が一つに結合してウフィツィの≪メドゥーサ≫となる。(中略)この主題は従来さまざまに扱われてきたが、レオナルドひとりがその核心に切り込んでいる。彼だけが、死のあらゆる状況を通じてその力を行使する死体の頭として、メドゥーサを理解している。」
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス――美術と詩の研究』白水社、2004年、108頁~109頁)

【ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス』白水社はこちらから】

ルネサンス―美術と詩の研究 (白水uブックス)

ペイターは、大変な持ち上げようである。
問題は、ここまで素直にメドゥーサをダ・ヴィンチ作品と信じてしまった以上は、もう1枚の傑作『モナ・リザ』にこの絵と共通したイメージを見出さないことの方がむずかしくなってしまうことにあると、西岡氏は指摘している。
そのため、モデルのモナ・リザは、吸血鬼呼ばわりまでされることになる。書いたペイターとすれば、このグロテスクなメドゥーサの画家の描いた、なにやら謎めいた薄笑いをする女性に、なんのいわくもないはずはない、というそれなりの「根拠」はあったわけである。

19世紀の人々のダ・ヴィンチに対するイメージは、多かれ少なかれ、こうしたグロテスクなイメージをともなうものであり、ダ・ヴィンチといえば、ホラー絵画の巨匠のような画家と思われていた。
ペイターのエクプラシス(作品記述)的な名文への人々の崇拝がこれに輪をかけることになり、『モナ・リザ』評といえば、「文学的」なのが通例になった。その上に、モナ・リザ自身のイメージもまた、神秘的で少なからずグロテスクなイメージをともなうことになり、一筋縄ではいかない女性としてのキャラクターが定着してしまうことになったと西岡氏は説明している。

また、サロメは、「恐ろしくも美しい」女性像として、当時の人々を魅了していた。19世紀末は、「魔性の女」の時代ともいえ、聖ヨハネの首をヘロデ王に頼んで斬らせた舞姫サロメが、この時代が生んだ最大のヒロインだった。
退廃的な作風で知られるオスカー・ワイルドはペイターを賞賛した。その戯曲『サロメ』や世紀末の画家達の妖しい美しさに彩られた画面に、サロメは登場した。サロメは、詩人シェリーによるメドゥーサ賛辞そのままに、恐ろしくも美しかった。
(そのブームは少し遅れて日本に上陸し、近代演劇最初の大スターといわれる松井須磨子も大正時代とも思えぬ過激な薄物コスチュームでサロメを演じた)

念の入ったことに当時は、洗礼者聖ヨハネの首を持ったサロメの絵でダ・ヴィンチ筆とみなされていたものまであったそうだ。だから、生首といえば、ダ・ヴィンチが思い浮かべられ、舞姫サロメであれ妖女メドゥーサであれ、「恐ろしくも美しい」女性像を描かせて、ダ・ヴィンチの右に出る画家はいないという世評が確立されていた。
こうした時代であったから、ペイターがモナ・リザを吸血鬼呼ばわりしているのも、当然といえば当然のことであると西岡氏は説明している。
つまり、「恐ろしくも美しい」ヒロインに恋した時代の仕掛けた「罠」を通してしか、この『モナ・リザ』という絵を眺められなくなってしまっていたという。
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、7頁~9頁、68頁~74頁)

夏目漱石とモナ・リザの「不惑」


夏目漱石は、ペイターの本国の英国文学専攻の学者であった。漱石作品には、早くから『モナ・リザ』やダ・ヴィンチが登場する。例えば、次のような作品があるので、紹介しておこう。
〇『吾輩は猫である』
金縁眼鏡の美学者が、水彩を描く「主人」に「レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のシミを写せと教えたことがあるそうだ」と言う場面がある。

〇『三四郎』
上京する汽車の中で広田先生が三四郎に「レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石を注射してね、その実へも毒が廻るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある」と話していた。

〇『草枕』
画工が「物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言葉に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある」と言ったりする。

漱石の蔵書目録に、メレジコフスキーの『神々の復活』の英語簡約版である『先駆者』が含まれているから、これをせっせと読んで取り入れたとも推測されている。

〇『行人』
主人公の下宿に突然兄嫁が泊まり覚悟で上がり込んで来る場面がある。その時「ジョコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦(すく)まざるを得なかった」という表現を使っている。
漱石作品によく見られる大胆な女性と優柔不断な男性が向き合う場面である。ファム・ファタルにおそれをなす小市民的な感受性を描くのに『モナ・リザ』の微笑が活用されている。

〇『永日小品』中の「モナ・リザ」
これは、モナ・リザの微笑にスポットをあてた短編である。
主人公は小道具屋で『モナ・リザ』と知らず、買ってきた複製を妻が気味悪がり、やがて壁から落ちて自然に割れたのを機に売り払ってしまうという幻想的な小品である。
メレジコフスキーを思わせる言葉が登場するのが、その複製画の額が割れる場面である。主人公は絵の裏にはさんだ紙に妙なことが書いてあるのに気づく。
「モナ・リザの唇には女性(にょしょう)の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダ・ヴィンチだけである。この謎を解き得たものはひとりもない」と、意味深長な文章で書いてある。モナ・リザもダ・ヴィンチも知らない主人公は気になってしかたがない。
翌日職場である役所の皆に聞くと、モナ・リザもダ・ヴィンチも誰も知らなかったので、結局この絵は細君のすすめに従って、5銭でくず屋に売ったという話である。

当時、一般の人々の『モナ・リザ』の認知度がどの程度であったかは、なかなかわかりにくいところではある。ルーヴル美術館からの『モナ・リザ』盗難がこの作品の2年後のことである。その折りの記事は、「ジョコンド」で報道しているし、絵についても先に紹介したような説明の仕方をしているから、この役所の皆の反応は、当時とすれば平均的なものであったのかもしれないと西岡氏はみている。
ちなみに、漱石はロンドン時代にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで開催された「昔日の巨匠展」(明治35年/1902)で『モナ・リザ』の複製を見ており、カタログに「不惑」の一語を書き込んでいるそうだ。
(この「不惑」についても、研究者の間で解釈が違い、神秘の微笑にも惑わされぬ心境のメモと見る人もいれば、「四十女の意味」と解釈する人もいて、謎が残るという)
(西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書、2006年、85頁~87頁)

【西岡文彦『モナ・リザの罠』講談社現代新書はこちらから】

モナ・リザの罠 (講談社現代新書)


【補足】
※夏目漱石の『永日小品』については、以前のブログで触れたことがあった。次の記事を参照にして頂きたい。
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫

西岡文彦『謎解きモナ・リザ』という著作


西岡文彦氏の『モナ・リザ』理解を深めるために、その著作『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)を紹介してみたい。
まず、その目次を記しておく。



【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』の目次】
はじめに 謎だらけの名画『モナ・リザ』
1 『モナ・リザ』 その画面の謎 /名画の見どころ 構図の魔術、秘密の署名
2 無感動の謎 /名画の証としての無感動 美的感動の不可逆反応
3 モデルの正体 /解明された美術史最大のミステリー
4 盗まれた世紀の名画 /フィレンツェで描かれた名画がパリにある理由
5 未完成の『モナ・リザ』 /画家の眼で見るために
6 美少年サライの謎 /少年愛のフィレンツェ 聖母マリアの面影
7 無学の天才 /万能の画家が不遇に終った理由
8 タッチを読み解く /宮廷美学としてのさりげなさ 天才の証としての筆づかい
9 風景画の誕生 /フィレンツェ・ルネッサンス散策のために
10 人物画の登場 /メダルから肖像画へ 顔の向きが意味するもの
11 ルネッサンスの薄暮(たそがれ) /バロックの闇 印象派の光
12 微笑の謎 /『モナ・リザ』は、なぜ微笑み続けているのか!?
おわりに ウフィッツィのカフェにて
文庫版あとがき






【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)

『モナ・リザ』の特徴について


『謎解きモナ・リザ』(河出書房新社、2016年)において、西岡文彦氏は、謎の名画『モナ・リザ』にヨーロッパの全絵画史を読むことができるという。つまり、謎の名画『モナ・リザ』の画面には、古代ギリシアから印象派までのヨーロッパ美術の足どりが凝縮されているという西岡氏は主張している。

画面は当時の最新技術の油彩技法の集大成である。『モナ・リザ』は、77×53㎝であり、B2サイズ程度しかない。実際に見る『モナ・リザ』は驚くほど小さく感じられる。

『モナ・リザ』の特徴として、西岡氏は次の点を列挙している。
・絵のモデルは、絵画史上最大のミステリーである。
・神秘の微笑には、不機嫌と上機嫌の表情が斜めに交差している。つまり、温和な笑みと不機嫌な冷笑がみられる。
① 右目と左口元は柔和な微笑で、右目が笑っており、眉もおだやかな表情で、左口元は笑みを含んだ口の口角が上がっている
② 左目と右口元は不機嫌な冷笑で、左の眉根を寄せて、左目は笑っておらず、右の口角が上がっておらず、笑みを含んでいないとみる
・画面唯一の装飾である胸元のレースは隠れた署名といわれる。
・肩に羽織ったショールはギリシア彫刻以来のヨーロッパ美術の結晶である。
・ショールの内側に細見な肩の線が描かれている。
・衣の袖は描写が未完成である。
・人差し指がは陰影が未完成で板状に見える。
・背景のバルコニーの手すり部分は未完成である。
・背景の右と左では視点の高さにギャップがある。
・航空写真のように高所から見下ろした背景は現実にはあり得ない。
・遠景の山々には、印象派を予見する大胆なタッチがみられる。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、口絵Ⅰ「謎の名画に全絵画史を読む」、口絵Ⅱ、6頁~10頁)


モデルたちの肖像


『モナ・リザ』のモデル論争は、画面に人物の素性を物語る要素が描き込まれていないため、その結論を見出せずにいた。
これは当時の肖像画としいては異例の処置である。ダ・ヴィンチの他の肖像画と比較しても異例である。
20代前半で描いた『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』(1478年、ナショナル・ギャラリー)では、背景の木の名前「ジネヴラ(杜松[ねず])がモデルの名前の語呂合わせになっている。
30代終盤の作、ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの愛人の肖像『白テンを抱く婦人像』(1490年、チャルトルスキ美術館)には、スフォルツァ家の紋章である白テンが描かれている。

こうしたヒントが、『モナ・リザ』の画面には一切見当たらない。
第一の材料である顔を視覚的な論拠に、マントヴァ侯妃イザベラ・デステ説を主張する向きもある。提唱者は、日本の美術史学者の田中英道氏である。

マントヴァは、北をヴェネツィア共和国、西をミラノ公国に接する小国だった。しかし、侯妃イザベラ・デステの外交手腕で、フランスと不可侵条約を締結し、平和と繁栄を獲得した。マントヴァ宮廷は、最新の芸術とファッションの発信拠点となった。才媛イザベラは、政治と芸術の両面で、ルネッサンスを代表する女性である。
そのイザベラは、隣国ミラノ盟主ルドヴィコがダ・ヴィンチに描かせた愛人の肖像『白テンを抱く婦人像』に感嘆した。再々にわたってダ・ヴィンチに肖像画の制作を依頼している。

肖像に描かれたルドヴィコの愛人チェチリア・ガッレラーニも、作品の出来には満足していたらしい。イザベラへの手紙で、ダ・ヴィンチの筆になる絵姿に比べ、自分の容色がはるかに衰えてしまっていることを嘆いている。
(謙遜とも取れる文面は、所蔵するダ・ヴィンチ作品の自慢と読めなくもないと西岡氏は解釈している)

芸術とファッショの女王たらんとしたイザベラが、ダ・ヴィンチ筆の肖像の獲得に躍起となったようだ。
ダ・ヴィンチがマントヴァに立ち寄った際に、イザベラに所望されて描いた素描も残っている。
〇ダ・ヴィンチ『イザベラ・デステの肖像』1500年 素描 ルーヴル美術館
この素描の顔と『モナ・リザ』の目鼻立ちが一致することが、モデルをイザベラとする説の論拠となっている。
事実、横顔のイザベラの素描と斜め向きの『モナ・リザ』を並べると、顔の位置、手の位置、目鼻立ちのすべてが完全に一致する。顔も、そういわれれば、似ていなくもない。
しかし、こうした一致は、他のダ・ヴィンチ作品にも見られるもので、人物の顔や身体の理想の比率を探求した結果ともいえると西岡氏は捉えている。つまり、ダ・ヴィンチにとっては、すべての絵画作品はその理想の反映であり、描く絵の顔の比率や体のプロポーションが一致しているのも当然だとみている。したがって、こうした一致を根拠にして描かれた人物が同一人物だとする議論は、多分に説得力に欠けると批判している。

また、『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの女性化した自画像だと解釈する説がある。
〇ダ・ヴィンチ『自画像』1515年頃 素描 ブダペスト国立美術館
やはり目鼻立ちが一致するため、『モナ・リザ』を自画像と見る研究者もいる。しかし、同様の理由で説得力を欠いていると西岡氏はみなす。

『モナ・リザ』=自画像説は以前から唱えられていた。加えて、1986年に米国のベル研究所のリリアン・シュワルツが、コンピュータを用いて解析し、話題となった。
画像処理コンピュータで反転した『モナ・リザ』をダ・ヴィンチの自画像と重ね、目鼻立ちから髪の生え際までが完全に一致することを「証明」して、国際的な反響を呼んだ。
(コンピュータに限らず新種の技術が開発された際に決まって登場する。『モナ・リザ』を素材にしたデモンストレーションの一例に過ぎないと西岡氏はシュワルツ説を一蹴している。ダ・ヴィンチの描いた人物の顔が、一定の比率に従っていることが確認されただけのことであるという。内実のある作業とはいえないとする)

ダ・ヴィンチは人体像の理想の比率を探究していた。だから、その画業からすれば、当然の結果が出たに過ぎないと西岡氏は受けとめている。ダ・ヴィンチ自身、画家の描く人物像は画家の分身だと書いている。画家の描写は自己の身体の反映であり、本人の長所も短所もすべて現れると明言している。
このレオナルドの言い分からすれば、すべてのダ・ヴィンチの人物像は潜在的に自画像である。そして完成度の高い分だけ、『モナ・リザ』の「自画像度」も高いということになると西岡氏は解釈している。
シュワルツの処理はこの自画像度の高さを立証し、ダ・ヴィンチが絵画論に書いていることが、実作に反映されていることを示してはいる。しかし、モデルの特定に関しては、なんら意義を持つものではないと強調している。

このように、数々の仮説も、ヴァザーリの「美術家列伝」の記述をくつがえすには至っていない。この絵はとりあえず『モナ・リザ』すなわち「リザ婦人」ないしは「ジョコンダ」つまりは「ジョコンド夫人」と呼ばれ続けてきた。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、51頁~57頁)

【西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社はこちらから】

謎解きモナ・リザ (河出文庫)


新発見資料の意外な筆者


『モナ・リザ』が「リザ婦人」「ジョコンド夫人」であるとの説の決定的な証拠となったのが、2005年(2008年でないことに注意)、ハイデルベルクで発見された古文書の注記である。その内容は、ヴァザーリの記述を完全に裏付けるものであった。

注記は、1477年にイタリアで出版された初期印刷本の欄外に手書きが書き込まれていた。こうした書き込みは、印刷技術の登場以前の慣習の名残りで、書物を手書きで複製していた時代に、写本担当者が本文欄外に注記を入れたことに由来する。ヨーロッパの古い書物が、頁の余白を大きくとっているのはそのためである。

発見された注記は、ルネッサンス当時のラテン語の模範文集として刊行されていた古代ローマの文人キケロの書簡集にある。1503年当時、この書簡集を所蔵していたのは、フィレンツェの高級官僚アゴスティーノ・ヴェスプッチだったことが確認されている。
(アメリカ大陸を発見したアメリゴ・ヴェスプッチの従兄弟である)

注記は、このヴェスプッチによるものと見られ、キケロが親族に送った書簡を掲載した頁の余白に書き込まれている。
この書簡でキケロは、医者がキケロの頭脳ばかりを心配して、体の他の部分を治療しないと嘆いており、ヴェスプッチは、この部分の欄外に注記を書き込めているという。
さらに、古代ギリシアの画家アペレスもヴィーナス像の頭部と胸だけを仕上げ、他の部分は未完成のまま放置していたと注記している。それに続けて、当代のアペレスであるダ・ヴィンチもリザ・デル・ジョコンドの頭部は描いたものの、例によって未完に終るであろうし、政庁舎広間の壁画も同様の結果に終るに違いないとの懸念を記しているという。

注記は、ダ・ヴィンチがリザ婦人像に着手したと明記している。その上に、すでにダ・ヴィンチが作品を完成させない巨匠として知られていたことを伝えている。
当時、ダ・ヴィンチはフィレンツェにあり、フィレンツェ共和国の依頼で政庁舎の五百人広間で壁画『アンギアリの戦い』の制作に取りかかっていた。
(『アンギアリの戦い』模写[1603年、ルーヴル美術館]は、バロックの画家リューベンスによる素描模写である。)
この壁画は、フィレンツェ共和国がミラノ公国に勝利した歴史的戦闘の場面を描くものである。同じ広間の別の壁には、ミケランジェロが、フィレンツェがピサ共和国に勝利した『カッシーナの戦い』を描くよう依頼されていた。

二巨匠が競作することになったこの壁画の契約書に、当局を代表して署名したのが、ルネッサンスの政治思想家ニッコロ・マキャヴェリであった。
目的のためには手段を選ばぬ権謀術数主義を意味するマキャベリズムという言葉の語源となった専政マニュアル『君主論』の著者として知られる。マキャヴェリは、当時、フィレンツェ共和国政府の要職にあり、ダ・ヴィンチの親しい友人でもあった。
この少し前に知り合っていた二人は、互いの知性に魅かれて意気投合した。政庁舎壁画の依頼の背景には、マキャヴェリの政治力があったともいわれる。

50歳を過ぎたばかりのダ・ヴィンチと30歳を目前にしたミケランジェロという二人の大芸術家の激突を見守っていたのは、このルネッサンスを代表する理性の人マキャベリだった。30代半ばにさしかかろうとしていた頃のことである。

まさに巨大な才能のるつぼと化していたのが、当時のフィレンツェである。リザ婦人こと『モナ・リザ』が描かれたのは、そのフィレンツェでのことだった。
ダ・ヴィンチはミケランジェロとの壁画対決に備え、ラテン語で書かれた『アンギアリの戦い』の戦史をイタリア語に翻訳する作業をマキャヴェリの秘書官に依頼している。壁画に戦闘場面を再現するためには、このラテン語の戦史をつぶさに研究する必要があったようだ。ダ・ヴィンチはラテン語を苦手としていたからである。
ミケランジェロに遅れをとらぬためにも、彼は必須であった。この戦史の翻訳を依頼したマキャヴェリの秘書官が、先の注記を書き込んだヴェスプッチであった。
(注記に、リザ婦人の肖像画と同様に、政庁舎広間の壁画も未完成に終るのではとの懸念が記されているのはそのためであるらしい。壁画の完成は、マキャヴェリの秘書官であったヴェスプッチにとっても、他人事ではなかった。ダ・ヴィンチのために、ラテン語の戦史を訳したのもそのためであったようだ)

ヴァザーリ「美術家列伝」の記述は、ヴェスプッチの懸念の通り、リザ婦人の肖像が未完に終ったことを語っている。
いまだに異説を唱える向きはあるものの、このヴェスプッチによる注記の発見は、『モナ・リザ』のモデル論争に決着をつけるには充分のものであったと西岡氏はみなしている。
この絵がリザ・デル・ジョコンドの肖像であることは、ほぼ疑う余地がないと判断している。
(西岡文彦『謎解きモナ・リザ』河出書房新社、2016年、57頁~61頁)



※後述するように、ダイアン・ヘイルズ氏も、ヴェスプッチによる欄外の注記について言及している。
〇Dianne Hales, Mona Lisa :A Life Discovered, Simon & Schuster, 2014, pp.163-167.
〇ダイアン・ヘイルズ(仙名紀訳)『モナ・リザ・コード』柏書房、2015年、234頁~238頁。「10 肖像画の制作が進行中」を参照のこと

なお、ヘイルズ氏は、この注記を書いた人物について、アゴスティーノ・ヴェスプッチ以外の見解も付記している。
【Dianne Hales, Mona Lisa : A Life Discoveredはこちらから】

Mona Lisa: A Life Discovered

【ダイアン・ヘイルズ『モナ・リザ・コード』はこちらから】

モナ・リザ・コード