白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

影絵の世界 3

2006-07-09 | 哲学・評論的に、思うこと
非現実の存在を肯定的に捉えることにより、
空間や時間の因果律から逃れた「影画の世界」において
シュール・レアリスムが試みた奔放な空想、狂気、妄想の
表出による、科学的世界観への平手打ちと現実からの脱走も、
芸術が、芸術と信じられた時代であったからこそ有効であった。
作品に対する鑑賞者の能動的な観照のエネルギーが摩滅し、
ただ、作品が受容されるがままに過ぎ去られる現在では、
芸術作品から我々が受けるものは、快苦の価値基準へ
引き下げねばならなくなったことを意味する。





天才の苦悩、その狂気は省みられることも無くなり、
ただ、皮膚感覚的に心地よいものだけが「芸術」になりおおせた。
直接的な、ぱっと見、の印象が、その作品の質の優劣の大きな
要因であることは否定できないけれども、
その、影画の内側にある、作者の蠢きゆがむ姿を思うことの無い
鑑賞を、作者は果たして求めていなかったのだろうか。





科学的世界観に支えられた世界において、
疲弊した生活が、作者と鑑賞者を互いに2重に阻害していく。
聞こえのいい、耳にここちのよい音、
見栄えのする、目障りにならぬ形象、
文体の速度感、毒も苦味も無い味わい、
弛緩するためだけの香り・・・・
苦悩を知るものにとって、世界がそれだけでできてはいないことは
自明でありながら、
欺瞞にみちた製作と受容を強いられることの苦痛は如何ばかりか。





自分の代わりに、悩んでくれる芸術を、
自分の苦悩の解消のためだけに消費して平然とするのも
人間であるけれども、
その境涯に深く分け入ろうとする労力にこそ支えられたのが
そもそもの芸術だったのである。
けれどもはや、それをとやかく言うほどの労力を、
ぼくとてもう、持ち合わせてはいない。





これが、唐木の言う、感覚と思想の分裂の正体か?
生活の疲弊が、感覚と思想を引き剥がすのか?





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「『漸達的にして追々に光輝を発する』まで、
 もう僕は待てなくなりました。
 そのこころを柔らかく包み込み、語りかけること。
 自然のなか、現実のなか、そのもののなかに
 詩も美もある質実な感激。
 僕にとってそれは、既に実感の無い夢想として、
 耳にやさしく響く韻律としての、ただの響きに
 すぎません。




 物の存在を認めることによって、自分も初めて存在する。
 確かに、現象学の授業で、そんなことを聞きました。
 しかし、生活するぼくに、そんなことを考えている余裕は
 ないのです。
 眼を閉じて、瞼の裏に捉えられた残像は、
 今朝の太陽に照らされた幼い緑葉の露ではなく、
 長時間見つめ続けた、エクセルの数値表です。



 
 自分というものがあるうちは、それだけ認識の限度が狭くなり、
 真の事物を認識することはできない、ということ、
 それも、理屈ではわかるのですが、
 僕には名前と職業と肩書きと家と収入によって、なにかよく
 分らない規定がされてしまっています。
 固有とされた、代替可能な記号の群れによって
 辛うじて形を保ってはいますが、 
 とりあえず、これが自分だと思い込まされているだけのこと。
 誰のせいでもありませんが、その罠から逃れる術を知りません。





 先入主を棄て、自分を虚にしてものの実相に触れる謙虚さを
 持つことにより、はじめて真の自分が存在してくるというのも
 それも、憧れの世界、遠い夢の世界の色彩の蜃気楼に過ぎない。
 その言葉を知っているということで、他人への優越に浸れる
 ことぐらいが、僕にとってのあなたの言葉の価値なのです。





 虚の世界から出発した自分の上に、初めて充実した存在感を
 築くこと・・・これが、永遠の個性を生み出していくのでは
 ないかと思われた・・・
 そもそも僕には虚、という意味がわかりません。
 虚とは何のことです?
 蛸が足を食い、食い尽くしたときに既に自分はいない、という
 例のアレですか?
 埴谷は、それでも呟き、さざめきが残る、といいましたが、
 それを確かめるすべは無い。
 確実でないものなど、ぼくはもう嫌なのです。
 遠ざけたいのですよ。



 
 永遠の個性など欲しくもありません。
 極端に美しい女には欲情を抱かない、とサルトルは言いましたが、
 極端に美しい女とは何です?





 僕は、詩を失いました。
 それと同時に、音楽も失い、芸術も失ったんですけれど、
 けれど、それがどうしたというんです?
 ぼくひとりいなくなったところで、ベートーヴェンの音楽に
 傷などひとつもつきはしませんよ。





 癒しにしか、慰めにしかならないものは嫌いでした。
 けれどこのごろは、それらに価値を見ているのです。」





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生活の疲弊が芸術を殺した。
芸術の流す鮮血の、その鮮やかなる色彩が
われわれの眼を射抜いているうちは、
われわれは芸術の死に対して盲目でいられる。




感覚と思想の分裂を、自らのものとして苦悩しないなら、
それを埋め合わせる技術としての詩は一層透き通って、
生々しい芸術の惨たらしい腐乱した屍を、ある日、突然に
われわれの前に映像させることだろう。




透き通った詩、透き通った音、透き通った色、透き通った言葉。
何事をも隠せず、何事をも突き通してしまうものに
手を伸ばして、
思わずそれを割ってしまったとき、傷つくのは必ず、自らの
皮膚である。
それが自覚的でないからこそ、いっそう危険なのだ。





透き通ったものに、影絵の世界は映らない。

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