
1.はじめに
数年前、アメリカのクレジットカード会社のテレビCMが話題を呼んだ。それを例に引くことから始めたい。
ニューヨークのホテルの一室で、母と娘がドレスを試着している。二人は旅行でこの街に訪れたらしい。ベッドのまわりには、街で買ってきたドレスやアクセサリーが並べられている。娘が選んだドレスを恥ずかしそうに試着する母に、娘は「似合ってるよ」と語りかける。窓辺のテーブルには父へのおみやげの包みが置かれている。やがて、母と娘はドレスを着て、ジャズクラブへと出掛ける。音楽とカクテルを楽しみながら、2人は娘のボーイフレンドの話をする。ドレスやおみやげの包みが映されるたび、その商品の値段がナレーションと字幕で紹介される。そのなかでたった1つだけ、まったく異質な紹介が挿入される。それは、母と娘が語らう姿に被せられるナレーションと字幕である。曰く、大人同士の夜、Priceless。
Pricelessとは「値を付けられないほどの価値がある」という意味の英単語である。「お金では手に入れられない、かけがえのないもの」と言い換えることも出来るだろう。ここで、私はPricelessの意味と、Identityという英単語の意味との類縁性を指摘したい。Identityは「自己同一性」と訳されることが多いが、平たく言えば「かけがえのなさ」という意味である。ただし、Identityは内的要因によって主観的に構成されるが、Pricelessは外的評価によって客観性を内包している。
いま、全国の自治体が、自然や伝統文化、景観や特産品などの地域資源をIdentityと位置づけ、さまざまな方法で地域活性化に取り組んでいる。私は寡聞にして、これらを無視してまちの活性化をはかり、成功した事例を知らない。まちづくりとは、「この地域は、かけがえのない宝物である」という共通認識のもと、産学官民などの多様な主体が、それぞれの立場から地域の未来像を討議し、時に協働し、時に反駁し合いながら、ハード整備とソフト事業の実施によって地域課題を解決していくプロセスのことである。裏を返せば、地域が「かけがえのない存在」として住民に広く認められていなければ、まちづくりは成功しない、ということである。
2.小布施町のまちづくりから考える
長野県小布施町の景観まちづくりといえば、一般には中町の修景地区が注目される。しかし、それが北斎館周辺の賑わいだけを見た上での判断ならば、それは早計であろう。観光客数だけを指標に、まちづくりの成否を判断するのは適切ではない。事実、小布施町の町内総生産に占める観光関連産業の割合は、1割にも満たないという。いま、小布施の郊外部では、東京理科大学と住民との協働により、里道ネットワークの利活用や、伝統的な蚕室建築の再生、道祖神などの遺物や地域資源の発掘・データ化が進められている。これに加え、オープンガーデン(個人の庭を一般に開放する事業)などのソフト事業を通して、小布施のIdentityとしての農業・農村景観にまなざしを向ける取組みが盛んになっていることに、注目しなければならない。小布施町は千曲川の支流・松川の扇状地に位置しており、砂礫質かつ酸性の土壌であったことから、栗やリンゴなどの果樹農業が発展した。いまも、小布施の基幹産業は農業であり、小布施のIdentityは、農業にある。
小布施において、これらの農作物の生産に不可欠な農業用水網の管理は、江戸時代以降、一貫して住民同士の共同体制によって行われてきた。これを小布施では「よろずぶしん」と言い、いまなお、この「よろずぶしん」の精神のもと、住民が自ら進んで神社境内や沿道の美化を行っている。こうした住民の気風には、江戸後期に小布施で盛んとなった陽明学の影響が指摘されており、また、小布施の美観が保たれている大きな要因にもなっている。小布施の新緑の栗林をわたる薫風は実に心地が良いものであるが、条例によってこうした田畑に看板広告をつくらせず、美しい農村景観を今も維持しているところに、小布施のまちを「かけがえのないもの」として守ろうとする、住民の強い意志が感じられる。小布施の人口は1万人余りに過ぎないが、そのような小さなまちに200以上のまちづくり団体が存在するという事実が、それを強く裏付ける。
有名な中町の修景事業では、地権者と有能な建築家との協働によって、住まうひとの「心地よさ」、来訪者への「もてなしのこころ」という、貨幣に換算し得ない価値が追求された。これをきっかけとして、小布施の住民は、地域のIdentityをしっかりと見定め、まちづくりの活動(ワークショップ、セミナー、イベントの実施など)への自発的かつ積極的な参画を通して、無自覚のうちに(あるいは自然に)自らの住むまちをPricelessなものにしようと試みてきたのである。それゆえ、中町の修景事業と、郊外部の農村景観の利活用の試みは、実は同じ心性から発しているといえよう。
もっとも、世代間、地域間において、まちづくりのビジョンに違いはある。私自身、小布施を訪ねた折、その差異に正面から衝突した経験がある。しかし、驚くべきは、小布施で出会うひとびとのほとんどが、老若男女を問わず、まちづくりへの一家言を有していることである。そして、自分の世代で解決すべきこと、後の世代に任せるべきこと、というように、まちづくりにおける次世代へのバトンタッチに対する意識を強く持っている。小布施には、そうした違いを「多様性」ととらえる懐の深さがある。こうした価値観が誰にも共有されるようなまちが実現されているからこそ、小布施の魅力は尽きることなく、訪れる者を魅了し続けるのではないだろうか。
3.香取市佐原のまちづくりから考える
千葉県香取市佐原の小野川付近には、歴史的建造物や、修景事業によって改修を受けた建物が並び建ち、商家町の繁栄の面影を残した美しい景観が形成されている。佐原は江戸時代から昭和初期にかけて、小野川を中心とする利根川舟運の拠点として繁栄した。また、江戸文化の流入と町民自治の伝統から、「江戸優り」と呼ばれる独自の文化を生み出した。昭和30年代、舟運の衰退と道路網の発達によって、佐原は物流拠点・商業集積地としての地位を失ったが、小野川付近には依然、数多くの歴史的建築物が残されていた。このため、住民の間から、町並みを重要伝統的建造物群保存地区に指定しようとする動きが起こり、平成8年、関東では初めての保存地区に選定された。
こうした取組みを主導したのは、「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会(以下「考える会」という)」である。「考える会」は、町並み保存に対する住民の合意を得るにあたり、①住環境と文化を守る ②まちづくりに活かす ③子どもや孫に資源を残す という3点を主張した。これは、奇しくも先述した小布施のまちづくりの思想に酷似している。
一般に、保存地区内の家主が建築物の改修・修景を実施する場合、香取市は家主と、どのような改修・修景を行うべきかを協議する。そこで問題や要望がある場合、「考える会」が調整に参加する。「考える会」は中立的な立場から、佐原の町並みに最も大切なものは何か、最も必要なものは何かを家主に問いかけ、課題の解決と調整を行う。例えば、「大きな看板があるよりも、八寸角の大黒柱があるほうが、店をホンモノにしてくれるのではないか」と、確かな素材と工法を用いた、本物志向の修景を行うように家主に推奨するのである。私はその言葉に、「価値を有するホンモノの建物は次代に着実に受け継がれる」という「考える会」の確信と、保存地区の景観を乱さないための周到な配慮を見る。
平成22年、小野川の水生植物に損傷が発見された際、「考える会」は水生植物保護のため、遊覧船業者に対し、手漕ぎ操船の徹底を申し入れた。これは、小野川が佐原のIdentityとして認識されているばかりでなく、一般的には無価値と思われても仕方のないような水生植物にさえも、景観を構成する要素としての「かけがえのなさ」や「値を付けられない価値」が見出されていることの証左である。「考える会」の活動なくして、「佐原おかみさん会」の組織化や、「佐原まちぐるみ博物館」「さわら夕涼み」などのソフト事業の展開が実現することは無かっただろう。30年前、水質悪化を理由に暗渠化さえも唱えられた小野川は、いま、佐原の町の「命脈」として住民に認識されている。小野川の底に群生する水生植物によって緑に揺らぐ河床を臨みつつ、手漕ぎの船が穏やかな流れの上を往来する様子は、佐原の代名詞とも言うべき美しい景観である。その風景は、古からのひとびとの生活文化の残照であるがゆえに、多くのひとびとを惹きつけて止まない。
4.おわりに
本稿の冒頭において、私は、まちづくりとは「この地域は、かけがえのない宝物である」という共通認識のもと、産学官民などの多様な主体が、それぞれの立場から地域の未来像を討議し、時に協働し、時に反駁し合いながら、ハード整備とソフト事業の実施によって地域課題を解決していくプロセスのことであると述べた。その理想像は、地域のIdentityを基点として、Pricelessな価値観が共有されることにあると考える。
最近、千葉県船橋港の景観保全・活用の可能性を討議し、現地を踏査した。その結果、この地域は過去50年以上に亘る臨海部開発史から取り残され、切り離されてきた地域であることがわかった。現在の船橋港は、既に伝統的な漁村景観を失い、市民もあまり立ち入ることのない、閉鎖的で孤立した港となってしまっている。
船橋港は、中世以来の歴史を持つ、船橋市のIdentityであり、市民にとってPricelessなものになり得る資源である。私は、まず船橋港への住民の関心を惹起することが肝要と考える。住民が港に関心を持ち、その将来像を積極的に討議し、再整備や活性化が促されるに至って初めて、船橋港は内的なIdentityから外的なPricelessへと「開港」され、かけがえのない港へと再生していくのではないだろうか。
数年前、アメリカのクレジットカード会社のテレビCMが話題を呼んだ。それを例に引くことから始めたい。
ニューヨークのホテルの一室で、母と娘がドレスを試着している。二人は旅行でこの街に訪れたらしい。ベッドのまわりには、街で買ってきたドレスやアクセサリーが並べられている。娘が選んだドレスを恥ずかしそうに試着する母に、娘は「似合ってるよ」と語りかける。窓辺のテーブルには父へのおみやげの包みが置かれている。やがて、母と娘はドレスを着て、ジャズクラブへと出掛ける。音楽とカクテルを楽しみながら、2人は娘のボーイフレンドの話をする。ドレスやおみやげの包みが映されるたび、その商品の値段がナレーションと字幕で紹介される。そのなかでたった1つだけ、まったく異質な紹介が挿入される。それは、母と娘が語らう姿に被せられるナレーションと字幕である。曰く、大人同士の夜、Priceless。
Pricelessとは「値を付けられないほどの価値がある」という意味の英単語である。「お金では手に入れられない、かけがえのないもの」と言い換えることも出来るだろう。ここで、私はPricelessの意味と、Identityという英単語の意味との類縁性を指摘したい。Identityは「自己同一性」と訳されることが多いが、平たく言えば「かけがえのなさ」という意味である。ただし、Identityは内的要因によって主観的に構成されるが、Pricelessは外的評価によって客観性を内包している。
いま、全国の自治体が、自然や伝統文化、景観や特産品などの地域資源をIdentityと位置づけ、さまざまな方法で地域活性化に取り組んでいる。私は寡聞にして、これらを無視してまちの活性化をはかり、成功した事例を知らない。まちづくりとは、「この地域は、かけがえのない宝物である」という共通認識のもと、産学官民などの多様な主体が、それぞれの立場から地域の未来像を討議し、時に協働し、時に反駁し合いながら、ハード整備とソフト事業の実施によって地域課題を解決していくプロセスのことである。裏を返せば、地域が「かけがえのない存在」として住民に広く認められていなければ、まちづくりは成功しない、ということである。
2.小布施町のまちづくりから考える
長野県小布施町の景観まちづくりといえば、一般には中町の修景地区が注目される。しかし、それが北斎館周辺の賑わいだけを見た上での判断ならば、それは早計であろう。観光客数だけを指標に、まちづくりの成否を判断するのは適切ではない。事実、小布施町の町内総生産に占める観光関連産業の割合は、1割にも満たないという。いま、小布施の郊外部では、東京理科大学と住民との協働により、里道ネットワークの利活用や、伝統的な蚕室建築の再生、道祖神などの遺物や地域資源の発掘・データ化が進められている。これに加え、オープンガーデン(個人の庭を一般に開放する事業)などのソフト事業を通して、小布施のIdentityとしての農業・農村景観にまなざしを向ける取組みが盛んになっていることに、注目しなければならない。小布施町は千曲川の支流・松川の扇状地に位置しており、砂礫質かつ酸性の土壌であったことから、栗やリンゴなどの果樹農業が発展した。いまも、小布施の基幹産業は農業であり、小布施のIdentityは、農業にある。
小布施において、これらの農作物の生産に不可欠な農業用水網の管理は、江戸時代以降、一貫して住民同士の共同体制によって行われてきた。これを小布施では「よろずぶしん」と言い、いまなお、この「よろずぶしん」の精神のもと、住民が自ら進んで神社境内や沿道の美化を行っている。こうした住民の気風には、江戸後期に小布施で盛んとなった陽明学の影響が指摘されており、また、小布施の美観が保たれている大きな要因にもなっている。小布施の新緑の栗林をわたる薫風は実に心地が良いものであるが、条例によってこうした田畑に看板広告をつくらせず、美しい農村景観を今も維持しているところに、小布施のまちを「かけがえのないもの」として守ろうとする、住民の強い意志が感じられる。小布施の人口は1万人余りに過ぎないが、そのような小さなまちに200以上のまちづくり団体が存在するという事実が、それを強く裏付ける。
有名な中町の修景事業では、地権者と有能な建築家との協働によって、住まうひとの「心地よさ」、来訪者への「もてなしのこころ」という、貨幣に換算し得ない価値が追求された。これをきっかけとして、小布施の住民は、地域のIdentityをしっかりと見定め、まちづくりの活動(ワークショップ、セミナー、イベントの実施など)への自発的かつ積極的な参画を通して、無自覚のうちに(あるいは自然に)自らの住むまちをPricelessなものにしようと試みてきたのである。それゆえ、中町の修景事業と、郊外部の農村景観の利活用の試みは、実は同じ心性から発しているといえよう。
もっとも、世代間、地域間において、まちづくりのビジョンに違いはある。私自身、小布施を訪ねた折、その差異に正面から衝突した経験がある。しかし、驚くべきは、小布施で出会うひとびとのほとんどが、老若男女を問わず、まちづくりへの一家言を有していることである。そして、自分の世代で解決すべきこと、後の世代に任せるべきこと、というように、まちづくりにおける次世代へのバトンタッチに対する意識を強く持っている。小布施には、そうした違いを「多様性」ととらえる懐の深さがある。こうした価値観が誰にも共有されるようなまちが実現されているからこそ、小布施の魅力は尽きることなく、訪れる者を魅了し続けるのではないだろうか。
3.香取市佐原のまちづくりから考える
千葉県香取市佐原の小野川付近には、歴史的建造物や、修景事業によって改修を受けた建物が並び建ち、商家町の繁栄の面影を残した美しい景観が形成されている。佐原は江戸時代から昭和初期にかけて、小野川を中心とする利根川舟運の拠点として繁栄した。また、江戸文化の流入と町民自治の伝統から、「江戸優り」と呼ばれる独自の文化を生み出した。昭和30年代、舟運の衰退と道路網の発達によって、佐原は物流拠点・商業集積地としての地位を失ったが、小野川付近には依然、数多くの歴史的建築物が残されていた。このため、住民の間から、町並みを重要伝統的建造物群保存地区に指定しようとする動きが起こり、平成8年、関東では初めての保存地区に選定された。
こうした取組みを主導したのは、「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会(以下「考える会」という)」である。「考える会」は、町並み保存に対する住民の合意を得るにあたり、①住環境と文化を守る ②まちづくりに活かす ③子どもや孫に資源を残す という3点を主張した。これは、奇しくも先述した小布施のまちづくりの思想に酷似している。
一般に、保存地区内の家主が建築物の改修・修景を実施する場合、香取市は家主と、どのような改修・修景を行うべきかを協議する。そこで問題や要望がある場合、「考える会」が調整に参加する。「考える会」は中立的な立場から、佐原の町並みに最も大切なものは何か、最も必要なものは何かを家主に問いかけ、課題の解決と調整を行う。例えば、「大きな看板があるよりも、八寸角の大黒柱があるほうが、店をホンモノにしてくれるのではないか」と、確かな素材と工法を用いた、本物志向の修景を行うように家主に推奨するのである。私はその言葉に、「価値を有するホンモノの建物は次代に着実に受け継がれる」という「考える会」の確信と、保存地区の景観を乱さないための周到な配慮を見る。
平成22年、小野川の水生植物に損傷が発見された際、「考える会」は水生植物保護のため、遊覧船業者に対し、手漕ぎ操船の徹底を申し入れた。これは、小野川が佐原のIdentityとして認識されているばかりでなく、一般的には無価値と思われても仕方のないような水生植物にさえも、景観を構成する要素としての「かけがえのなさ」や「値を付けられない価値」が見出されていることの証左である。「考える会」の活動なくして、「佐原おかみさん会」の組織化や、「佐原まちぐるみ博物館」「さわら夕涼み」などのソフト事業の展開が実現することは無かっただろう。30年前、水質悪化を理由に暗渠化さえも唱えられた小野川は、いま、佐原の町の「命脈」として住民に認識されている。小野川の底に群生する水生植物によって緑に揺らぐ河床を臨みつつ、手漕ぎの船が穏やかな流れの上を往来する様子は、佐原の代名詞とも言うべき美しい景観である。その風景は、古からのひとびとの生活文化の残照であるがゆえに、多くのひとびとを惹きつけて止まない。
4.おわりに
本稿の冒頭において、私は、まちづくりとは「この地域は、かけがえのない宝物である」という共通認識のもと、産学官民などの多様な主体が、それぞれの立場から地域の未来像を討議し、時に協働し、時に反駁し合いながら、ハード整備とソフト事業の実施によって地域課題を解決していくプロセスのことであると述べた。その理想像は、地域のIdentityを基点として、Pricelessな価値観が共有されることにあると考える。
最近、千葉県船橋港の景観保全・活用の可能性を討議し、現地を踏査した。その結果、この地域は過去50年以上に亘る臨海部開発史から取り残され、切り離されてきた地域であることがわかった。現在の船橋港は、既に伝統的な漁村景観を失い、市民もあまり立ち入ることのない、閉鎖的で孤立した港となってしまっている。
船橋港は、中世以来の歴史を持つ、船橋市のIdentityであり、市民にとってPricelessなものになり得る資源である。私は、まず船橋港への住民の関心を惹起することが肝要と考える。住民が港に関心を持ち、その将来像を積極的に討議し、再整備や活性化が促されるに至って初めて、船橋港は内的なIdentityから外的なPricelessへと「開港」され、かけがえのない港へと再生していくのではないだろうか。
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