白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

inside out

2006-12-02 | 哲学・評論的に、思うこと

母の体調がようやく戻ったので安心していたところ、
今度は父が体調を崩したため病院へ運んだ。
感染性胃腸炎というもので、最近猛威を振るっている
ノロウィルスによるものだという。




いくつになっても親は親、子は子、というけれども、
一過性のものとはいえ、親が弱った姿を見るというのは
子としては忍びない。
それが一週間に立て続けに起こり、加えて祖母が
ヘルペスの症状を呈しているとなれば、こちらの気も
休まらない。




親は強がるもの、決して子を心配させないために
嘘をつくこともある。
世の中には嘘をついてもらったほうが楽なことがある。
真実は人を傷つけもする。
泰然自若、起こりうる何事をも受け止めて、
それをしっかりと受け容れつつも、
決して揺るがされずに、あくまで自らの文脈に則って
自分を律し、振舞わせることができること。
それは決して容易ではない。しかし、必要なことだ。




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深夜、パトリシアと電話。
とりとめもなく、悩み、笑う。
落ち着く。
そのなかで、建築についての話が出たので、覚書。




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建築は、生活の容器であるとは、ル=コルビュジェの
言葉だったであろうか。
確かに自分の家ひとつとってみても、書籍、家具、装飾、
電気製品といった収容物に、そこに住まう人の意思が
反映されていないものなど、ひとつもない。
家は、言葉によってもたらされるひととの関係と同様に
そこに住まう人の頭脳の延長でもある。
言い換えれば、われわれは住まいのなかにあるときには
絶えず、自己の延長との対話を繰り返しているのである。




試しに、衣服を例にとってみるといい。
ファッションは、ひとに見られることによって完成する
性質があると同時に、自らの身体表現や心的表現を
外界へと延長する性質を持っている。
他者の視線を衣服へと集中させて、外界との交渉を
遮断する役割を果たしもするし、
逆に、そのひとの梱包された身体性を強調することで
異他的なものを導き入れ、恣意的に、心身を侵犯させる
役割を果たしもする。
また、露出された素肌へと視線を導くための衣服もある。
衣服はまさに、その日、その時の自己との対話の可視化と
言うことも出来るだろう。




衣服を着るひとが、視線を自らのどの部分に集中させるか
想定をするように、
建築においては、住まうひとが自らの生活の様式、
生き方をどのようにして住まいへと象徴するか、といった
想定がなされる。




しかし、建築はその収容力においてファッションをはるかに
凌駕する。
不特定多数のひとびとが、同じ時刻、同じ空間に居合わせて
めいめいが、ひととひととの個的な対話に興じつつ、
そこに集うひとびととの共時性の限りにおいて彼らとも
皮膚的印象によって感じあいつつ、
関係性のベクトルを視聴覚的に反射させて自らへ折り返す
ことのできる、建築の内部空間の持つ子宮的性格のなかで
思いを致しあいつつ、
建築の内部と外部の壁面による遮断性、窓面における透過性、
境界性のありかたを、自己と他者との関係へと折り返して
考えること。




その装置としての装飾性、機能性、デザイン性、あるいは
公益性において、
建築にはすべてが備わっているとする考え方がある。
フォルム・色彩における造形性、そこに住まう人間の身体の
運び方に象徴されるある種の舞踏性、対話という音楽性、
そして、その集合としての祝祭性。
これを容器としてどっぷりと飲み込めるのは、芸術としての
概念を超えたところにある建築のみである、とする考え方は、
ルネサンス以降の伝統的な考え方でもあった。




しかしそれを実現するのは、それを使用する人間であり、
建築家ではないという見方が、現在では優勢である。
建築家は、その初期条件を与える基本ソフトの開発者にすぎず、
その動作環境を構築していくのは、そこに集うひとびとである、
とする考え方だ。
その初期条件の設定が、いかにして豊穣な結実をもたらすかが
建築家の評価を決めることになるのである。




ゆえに、そうした初期条件としての建築の集合たる都市が
どのように機能するか、という問題は、
それが一つの特殊解の無数の合成であるという状況において
極めて難しい。
古色蒼然たるモニュメントの隣に、高層のビルディングを
建設する巨大なクレーンが伸び上がり、
その下にはびっしりと苔のように、トタンで屋根を拵えた
木造の小さな家屋が密集している、といったように、
都市は無数の時空間軸のうえに成立していて、
ひとびとの行動するステージも無数に錯綜しているのだから。
かといって、ブラジリアのような都市計画をみれば、
絶対の解というものが存在しないのも、また確かである。




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もっとも、建築における機能主義の権勢がゆらぎ、
住まうひとに対し、建築がその使途を強制するのではなく、
建築の使い方を、そこに住まうひとが決めるという方向に
シフトしたのは、それほど古い時代ではない。
コルセットのように、ひとびとの暮らしのフォルムを
無理やりに捻じ曲げて何の臆面も無く強制するという
住まい方は、集合住宅の形態として数千年間、現在も
確固として存在するスタイルであるし、
多くの建売住宅とて、そのスタイルから決して外れていない。




例えば都市計画は、そこに住まうひとびとの占める
物理的スペースばかりでなく、ひとびとの心的空間の
広さを決定するものでもあるのだから、
伝統的に、権力・公的機関によって担われてきた。
公権力における建築の主眼は、ひとびとから個人という
概念を外して、市民、という多数へと集約することを
基盤とすることが多い。
集合を機軸としてすすめられる都市計画においては、
ひとびとの生活を、いかにして祝祭的に導くかという
側面ばかりが強調され、進められることが多い。




「ハコモノ行政」という言葉が指し示すように、
日本における都市計画は、再開発や文化都市創造という
旗印を立てて、巨大な建築を建造することそのものに
目的があるといってもよい状況を示している。
歴史をみれば、巨大建築、巨大な記念物というものは、
時として国家と結びついた宗教権力や、封建君主や独裁国家、
行政組織、巨大企業などによって築かれてきた。
これは世の東西、古今を問わぬ普遍のものである。




いわばそれは権勢の象徴であり、そこに集うひとびとから
個的性格を奪って集団に埋没させ、権勢に対して無名の信奉を
促そうとする性質を本来的に有している。
このとき、建築は数万の群集に埋め尽くされることによって
完成し、そこにこだまする賛美の声によって完成する。
巨大なスタジアムや劇場空間が、興業目的ではなく、権力者の
権勢を称揚するための祝祭空間として築かれてきた歴史を
見てみればよい。




そしてこの性質によって、例えばサッカーのワールドカップや
オリンピックにおいて、スタジアムにおける熱狂が愛国心に
にわかに変貌する仕組みも、説明が出来るだろう。
愛国心とはいかないまでも、特定のものに対する過剰な賛美や
怒号の響きが、球場やアリーナ、ホール、集会場において
一つの思潮・イデオロギー、巨大な共同幻想へと転化する様子は、
誰でも見たことがあるだろう。
建築はそうした意味において、生活の容器としての穏やかな
ものとは、到底言いがたい性質を有してもいる。




こうして例えばナチスにおいてシュペーアが果たした役割を、
権勢によって無名化され、群集化された側から見るならば、
マリネッティの武器賛美や坂口安吾の工場賛美など、
破壊的再生のなかに生まれようとする新たな構成美への
ある種の偏愛的傾向の表明によって、
その巨大で圧倒的な祝祭の狂熱に対する肯定(マリネッティ)も
怒号による逆説的否定(坂口安吾)も含んだ、複雑な関係を
そこに生み出さざるを得ない。
そこにこだまするひとびとの声の残響。
伸び上がる残響が、その建築の巨大さの証明にもなる。




しかし、グレゴリオ聖歌が、聖堂の中で地の底から
沸きあがるように響くとき、
キース・ジャレットの音が、透徹したクリスタルのような
余韻をもって消えていくとき、
ジョアン・ジルベルトの呟きが、かすかな空気の揺らぎに
微温をもって耳をまろやかに覆うとき、
集うひとびとの呼吸が同調するのを身体経験として
持ってしまうと、それに美しいと名付けざるを得ない
自らの判断力を容易には呪うことも出来ないのだ。
建築によって閉鎖された内部における、音楽の子宮。
例えばタージマハル旅行団は、そうした部分から
「出産されて」、砂浜に音楽を奏でた。




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翻って、ふたたび、家というもの、住まうという行為を
思うとき、
家は丁寧に整えられもし、散らかし放題にされもする。
行き届いた手入れは精神の清浄の心がまえを象徴し、
時には秩序への偏愛の表明もする。
放擲された廃屋、廃墟に対するわれわれの嗜好は、
死の名残を生きるという、生命の背理性への屈折した
心理状況に対する、自己肯定・自己愛に結ばれる。
自らの醜さが投影されていると判断したものに対して
美的価値を付与することに誇らしげですらある。




こうして、建築はひとびとのなかで生きられていく。
失敗作だとして、はやく自分の作品を壊してしまいたい、
とする建築家も多いと聴く。
丹下健三のように、自分の身長の視線で天井高を決めたため
その建築の天井が一般に見れば低すぎる作品を多く設計した
ひともいる。
なによりも、建築家は施主の依頼がなければ作品を実際に
実現できない。
施工の段階で、工法の問題や施工技術の問題、予算の問題で
自らの意図と反する行為が行われることもままあることだ。




芸術家が筆を止めたときに作品が完成するのではない。
建築はその本質において永遠に未完成なのである。
未完成のままに住まわれ、さまざまの変遷を経て朽ちる。
あるいは取り壊される。
とすれば、建築は、生活様式の象徴ではなく、
ひとびとのくらしの表現態そのものの発露であると
いえないだろうか。
フォルムや技法のみを取り上げて、これが建築であるとは
到底言うことができないものだ。




それでも、僕が国内でもっとも感銘を受けた建築は、
東京・上野にあるル=コルビュジェ設計による
国立西洋美術館本館である。
それは、ホワイエに入った瞬間の光の処理を見ればわかる。




いつか、マチスの教会を訪れたいと思っている。







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