白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

パルマコン

2007-05-13 | こころについて、思うこと
減薬を開始。
効果は、吉と出るか、凶と出るか。




パルマコン。
ギリシア語で、「薬」と「毒」の両義をもつ。
プラトンが用い、デリダが用いた。




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自己を意識すること。
人間としての実在性(自分が存在しているという実感)と
尊厳(自分の存在が尊いもので、誰にも犯されはしないこと)とを
意識していることによってのみ、
人間は人間であるといい得るのだと、コジェーヴはいう。
人間とは自己意識である、人間は、『私は・・・』というときに、
はじめて自己意識をもつ、・・・。




「彼が少年から青年へと成長するにつれて、
少年期の彼を襲ったその異常感覚は次第に
論理的な形を取ってきた。
彼にとって、あらゆる知識の吸収は彼自身の異常感覚に
適応する説明を索める過程に他ならなかった。
それは一般的に云って愚かしいことに違いなかったが、
<俺は―>と呟きはじめた彼は、<俺である>と呟き続けることが
どうしても出来なかったのである。」
(埴谷雄高『死霊』2章)




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人間の意識の沈黙が、「私は・・・」という発話によって
破裂し、花火のように四散する。
どこに向かうとも知れぬ、主語の志向性。
あるものは消え、あるものは墜落し、あるものは微光したまま
宙吊りにされているのを、他の意識が観測してくれるのを
期待して、志向することを止まない、ということか。
この、期待に導かれて継続される志向のことを、コジェーヴは
欲望とする。




人間の「私は・・・」という発話は、それを受け取る他者を
相対的に共存していくべき対象として、
尊厳に満ちて認識しておいてから、成されるのではない。
人間は、他者による存在の承認を欲している。
かけがえの無いものだとして誰かに承認されることを求める。
人間は、先述したような「自己意識」を有していて、
「俺は・・・」と発話しかけて中空に吊られたまま、
着地点、到達点としての「・・・である」という先を求める
不具者たちの群れで成立している社会に生きている。




主語と述語の確実な接続によって世界が出現するというのなら、
それは意味の共有という妄想によって掛け渡された橋である。
放擲されたままの主語は、未出現の世界に落ち込んだ
無数の主語の言霊の渦巻くワルプスギスの山裾に
深く切り込まれた峡谷の深淵に吊るされて、
存在することをたえず脅かされ、震え、慄き、嘆き、叫ぶ。
ちなみに、ここでの「主語」を、人間、と言い換えることは、
意識の自由である。
俺は俺である、と言い切れないものの居場所はそこにしかない。




数学的命題において、等号、不等号等で記述されるこの橋を
上手く掛け渡すことの出来ないものに数学は解けない。
幾何世界に住むことも難しい。
古代ギリシア、ゼノンの徹底的な懐疑、これを以って
鶴見俊輔が異常論理病と述べたもの、
埴谷の<俺は―>という絶句は、
カントの純粋理性批判やゲーデルの不完全性定理を
待つまでもなく、なにかしらの根源が本有する一種の超越性への
断念として、古代から気分として持たれていたものではないか。




自己意識は汎世界的に存在している。
自己意識はまた、一種の全能性を夢想する。
その実現の不可能を神として止揚したのが古代倫理であった。
人間は神の子ではない。神になり損ねたにすぎない。
神になることを諦めたものの、自らに課した凄絶な復讐こそ
宗教ではないか。
宗教戦争の歴史を見ればよい。
また、イデオロギーが宗教化していった20世紀独裁の様々を
見ればよい。



歴史においては必然の糸をほぐすことに主眼がおかれ、
偶然性、超越性は机上の科学にその解明が委ねられる。




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自分という人間を「人間」として認めてくれるような
他者の実在がなければ、
自分という人間は「人間」になることができない。
自分の演奏を「音楽」として認めてくれるような
他者の「耳(あるいは感受性、頭脳演算)」がなければ、
自分の演奏が「音楽」になることができない、という論法は
これに基づく。
このとき、「俺は」という言葉を発する者は、
自分の存在が他者の承認によってはじめて成立し、
この社会に在ってもよいことになるという事実を前にして、
おそらくはこう思う。




「俺は、初めから失われている。
 俺のありかはどこだ・・・あ、そうか。
 俺は、俺を承認するやつのなかに失われていたんだ。」
このとき、自己意識は他者の承認を求めて、
他者の尊厳を踏みにじるような、「生をかけた闘争」へと
踏み出していく。




自分の存在の承認を求めることが、いつしか、
他者へと「失われていた」自己の奪取に転倒される。
「自己意識」は、他者の中に投げ込まれていた「自己」の
確実な存在を取り戻そうとする。
それは相手からものを奪い、自分のものとするという「所有」、
あるいは相手との同化、「捕食」の欲望である。




例えばある女性を愛したとき、そのひとが他の誰かを
愛していたらどうするだろうか。
僕は奪いたいほうの人間である。
彼女を他の誰かから奪うということは、彼女が今もっている
他の誰かに対する愛情の否定にほかならない。
このとき、彼女に愛されている他の人間をAと呼ぶなら、
Aは僕によって、そもそも人間としての承認を得ていない。
そして彼女のAへの愛情が、彼女の感情の根源から
発しているかぎりで言えば、
彼女を奪おうとする僕の欲望、感情は、
彼女の根源を否定する、
もっといえば、彼女の現在の生そのものを否定するものだ。




それは、欲望の受け渡しのなかに、こう夢見られる。

「愛とは、相手に愛されたいという私の欲望である。
つまり、私に愛されたいと相手が欲望することを
私が欲望することである。
さらに言えば、相手に愛されたいと私が欲望することを
相手が欲望することを私が欲望することである。」





欲望はその質が自己意識の根源に近ければ近いほど、
その実現に向けて企てられる。
服飾よりも愛情のほうが、実現への労力が大きく、また、
企てられる可能性も高い。




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コジェーヴはいう。
自己意識とは、自己を欲望として意識すること。
自我とは、欲望によって成り立っていること。
原初態をあえて言ってみるならば、
自己意識が成立するのは、欲望それ自身を欲望するとき。
欲望それ自身の起源を観測することができない、というのは
ビッグバン理論を容認している現在の科学による
宇宙観測のようだ。




欲望は絶えず他を欲し、自己の生を更新していく。
この意味において、他を奪い、あるいは捕食する作業は
自分の現在の生を否定し、何かに成り行こうとして、
他の現在の生を否定し、それを自己に取り込もうとする
獰猛な二重否定、ということにでもなるだろうか。




「欲望が所与を否定する行動として実現される以上、
この自我の存在自体が行動であることになろう。」

「この自我の存在自体が生成となり、この存在の普遍的形式は
空間ではなく、時間となろう。
従って、この自我が現存在において自己を維持することは、
この自我にとっては
「(静的かつ所与の存在として、自然的存在として、生得的性質として)
あるところのものにあらず、在らぬところのものである
(つまり生成である)」ということを意味することになろう。」    




コジェーブのいう自我の定義は、埴谷雄高の「死霊」において
三輪与志が欲する『虚体』の定義
「今までなかったもの、そして、これからも決してありえぬもの」
に連なる。
コジェーヴのそれは現実世界のなかから形而上的に見つめられ、
埴谷のそれは、非現実の世界、小説という虚構のなかにおいて
「決してありえぬもの」という形で、現実世界の暗黒の空間に
突如天空から下ろされた巨船の錨のように留め置かれる。




「ところで、いかなる欲望もある価値をめざした欲望である。
動物にとっての至高の価値はその動物的生命であり、
動物の全ての欲望は、究極的には、その生命を保存しようという
動物の欲望に依存している。
したがって、人間的欲望はこの保存の欲望に打ち勝つ必要がある」

埴谷雄高は、どうしても許せぬ過ちとして、「子を産むこと」を挙げ
子孫を残さなかった。
生命の保存という動物的欲望の究極は、保身でも捕食でも攻撃でもなく
生殖行為である。




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Aの側からの記述。




アマチュア演奏者Aが、あるコンサートに出かけた。
このコンサートの演者Bの演じてきた音楽は、
Aにとって「血肉」である(はずだった)。
公私様々の生活において認識した、あるいは認識を
余儀なくされた様々の事象によってか、
酷い抑うつの状態にあり、自己の現状への不快もありながら
(自己の生=自己の現状=自己の結実或いは表象、への不快)
AはBの音を求めて出かけた。
自己の血肉へのカンフル剤として、
あるいは、新たな血肉として、Bを耳で同化しようとしたのか。




決して軽度ではない緊張とともにBの登場に拍手し、
聴き入って発された「Bの演奏」は
程なくしてAに「音楽」として響き、
Aはこれに崩れ落ちるようにして納得した。
同化、という企て、音階の把握、理論的解析による音の追随、
技術的思索といった行為を、「音楽」の存在する空間において
挫折した。
音楽という時間によって運営される空間において、
Aという「自己意識」の主体が喪失されていくことに
自覚していながら、その滅失を音の中の歓びとして生きた。




意識の作業によって、先述の企てを、
その空間において複数の時間軸を確立して実行するだけの
能力がAには備わっていなかっただけなのか。




現象を知覚し、それを聴覚の記憶箱の中身と照合する働きは
自律的に行われてはいたし、
その音色を美としてしか名付けられず、皮膚によって震えて
受け取ることも辛うじて行ってはいたのだろうが、
AにとってはもはやBの奏でるものに同調し、共に呼吸して
そこに座ることしか出来なかった。
では、それはBによるAの捕食行為だったのか。
いや、Bはただ音を奏でたに過ぎない。




Aは自らの理知の死の中に恍惚として音を生きた。
死ぬようにして。
やがて自宅へと戻ったAの頭の中には
Bの音が渦を巻いて、
自らが奏でようとして発した音のどれもが汚らわしく、
空虚で、何らの色彩も無く、温度も帯びていないように
思われて仕方が無い。




Aは、自分の発する音のどれもが死んでいると思えて、
音を発することに非常な恐怖、忌避を感じている。
苛立って放つ音は、なおさらに死相を以って聴こえる。
Aはピアノを弾けなくなった。




BはAを殺したのか。
いや、Aが勝手にBに殺されたのか。
自らの欲望が自らの欲望によって逆襲されること、
それが原初の欲望の仕業、欲望を欲望することによるなら
意識の存立以前の事ゆえ、どうにもしようがないことだ。
Aがそこに音楽の神の存在を見たのなら、
Aは、音楽の神に成り損ねたという事実で以って
雷に打たれたに過ぎないのだろう。




Aは今日もピアノの前に座って6時間を空費した。
あの日のステージから去ろうとして振り返って手を振った
Bの眼が、確かにAには自分に向けられていたような
気がしてならない。
Bに見つめられるようにして、明日もAはピアノに向かう。
一音も発することが、おそらく出来ないまま。

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