白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

wing

2008-06-29 | こころについて、思うこと
心拍が刻む時間を標準時が追い越していった。





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高原にあって、薄明、霧を身にからめ取りながら
歩いていた。
濡れ草の匂い、深く、
斑点状に乾きはじめた土の道の端に残っている
青銅色をした水盤の面を翅虫が漂った。
ぼくはどうにも生まれ間違えたような気がした。
このあとを躓かずに歩くことがどうにも出来る
気がしなかった。





湖のほとりに出るころに、ようやくにして光熱が
乳白の風景にほのかな黄金を混ぜ込み始めた。
可視化された風の渦が森の肌を撫でて去り、
恥じらうようなざわめきが湖面を響かせた。





ぼくは全身を鼓膜にして、水の呼吸を聞こうとした。
進めば草原のごとく、誰かに会えたかもしれない。
岸辺に寄せる波の端に留まり、目を閉じてみると、
そのうちに、こころの縁を照らすひかりが射して、
それに隈どられてぼくの輪郭がくっきりと浮かぶなら
あるべきかたちで、これからもあることができるかも
しれない、と、切なくもぬるい願いが湧くのを感じた。





それは到底、祈りには届かぬものでありながら、
決然と否定するには惜しいほどの甘さを持っていた。
途上に見た、降りかかる死に准ずる、野薔薇の赤黒くて
不気味な花影に宿る、朽ち爛れて熟れた蜜の香りに
憑かれたせいだったのかもしれない。





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ぼくは自分の輪郭に引くための、境界線の定め方に、
クレーの天使線描のそれを願った。
その線は、雪舟の速度には永久に追い付けないだろう。
「セシウム133原子の基底状態の超微細準位の間の
遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍に等しい
時間」なるものに既定された周期性、次元の位相を
軽々と越えて、確かに雪舟は世界から時間を奪って、
墨色に無限の色彩を含ませながら立ち表せて見せた。





けれど、ぼくは雪舟の写像でもって、目に映るものの
実像に向かうことは出来ないと思った。
雪舟の線描に心音は木霊していない。
生き始めた端緒から、世界から滑落してしまって
標準時に追い越されたあげく、
こころの律動にすがりついてしまった後ろめたさを
感じている人間に、明確な写像による実像の暴露は
かえって追い打ちをかけるだけのことだ。





雪舟は風景の心音を停止した。それは日本的霊性を
知るものにはなじみやすい。
けれど、こわばっていく全身の皮膚を打ち破るように
全身全霊をもって、心象の景色から自身の心音を
詩性によって抜き取って、天使の中に遷し置いた
あのクレーの震える線描のなかにこそ、
滑落する人間を救うための翼があると感じるのだ。





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陽光と地上に歩む無数の塔に突き刺されたか、
湖畔は晴れて空が広がった。
空が澄むのは、やるせなく、たまらなくつらい。
鳥は碧空に飛翔するものと決められているのなら、
墜落する自由に見放されているのではないか。
華厳、仏道成就を名付けられた瀑布は、
碧空を映す水鏡を粉砕し続けているだけではないか。





呑み込まれ続けている、落ち続けている、というぼくの
観念の在り方が、永遠に闇の穴を穿ち続けている、と
感じたとき、僕はもはや湖に一歩も足を踏み出だすことも
出来ないのだ、と悟った。
それはクレーの翼の反証でもある。





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ノヴァーリスは、世界を「深い大海の底から落下したが、
今日まで揺れずにそそり立ってきた」ものであり、
地球の重力は、人間が世界から「天へと逃走する」のを
妨げるための、「目に見えぬ絆」であると述べた。





心音がひそやかに打たれる翼をもつことを願うために、
どうやら人間はこの世界に留め置かれていて、
風景のなかの調和から美を手ですくって、自らの輪郭を
生むためにこころにそそぐように出来ているようだ。
意識がどれほどに、自らの根源、世界の根源へと歩み
掘り進んでいこうとも、
生まれ間違えたという意識をこころに碇したとしても。





地上にあって、リルケが問うたように、
感情の中で、ひとつひとつのものが恍惚として変容する、
大地のひそかなたくらみのなかに、一度は身をおいても
みたいと思った刹那、
・・・雷鳴が、ぬるま湯のような夢幻の願いを裂いた。





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昼酒のあとの午睡はこうして醒めた。
酔眼があの嘴を捉えてから、もう何年も過ぎていた。
ひっかき傷が、ぎりぎりと心を絞っている夢を見損ねた。





起き上ろうとして思わず、ぼくは枕に口づけた。






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