白河夜舟

水盤に沈む光る音の銀砂

神戸にて

2008-06-01 | こころについて、思うこと
5月31日、6月1日、神戸に滞在した。
大学時代に所属していたサークルの同期のひとの
結婚披露パーティに招待されたためだった。





宿をホテルオークラに定め、
この二日間、神戸の街、三宮、元町、旧居留地、
メリケン波止場、ハーバーランド、北野を歩いた。





ロビンソン神戸での昼食、フォリフォリの贈り物、
メリケン波止場の散策、遊覧船での神戸港周遊、
モザイクから眺め見たコンチェルトウェディング、
観音屋のデンマークチーズケーキ、
結婚披露パーティ、三宮のバーのカクテル、
旧居留地一帯や元町商店街の散策、生田神社の参拝、
北野珈琲館のクルミケーキ、北野坂にしむら珈琲店の
マンダリン。
交わされた、ドストエフスキー論、死の均衡、
松井冬子論、能楽における「狂い」、





一切が過ぎる。





いままで、ぼくが大切だとこころから思ったひととは
性別や環境や立場にかかわりなく、できるだけ二人で
話をしたり、食事や喫茶や討論をしてきた。
そのひとのためだけの時間、空間、言葉を、と、心を
砕くようにしてきた。
照れ隠しの冗談と、まごころからの言葉に溢れている
そんな邂逅を大切にと、思ってきた。





ひとに対するまごころからのアドバイスや言葉であると
思ってきたことがらが、
時折、自分自身の願望や相手の心の支配への希求という
悪魔性をはからずして映していたのではないか、と
不安に慄き、空恐ろしくもなりながら。





そうした感謝と心配りは、大切なひとへの恩返しだった。
僕に応じて、やってきてくれるひとを信じていて、
そのひとたちのおかげで、僕は自身を保証してきた。
やっとのことで在り得てきた。





不器用な性格から、不器用な形にしかできない。
時折、僕の行為や行動は社会通念から逸脱する。
大切であるがゆえに、超えてしまう。
それは、相手からしても、もしかすると大変に
重荷、負担になっているのかもしれない。





戸惑い、困惑、気の重さを抱えて、僕の顔を立てて
やってきてくれていたとしたら、
それは社会におけるやさしさなのだろう。





こういうことを言うと、僕から去るひとも多いだろう。
つらいけれど、それもすべて、仕方のないこと。





どれだけ冷たくひどいことばをかけられても、
それが尊厳にかかわらぬ限り、大切なひとであれば
抱き留めるだろう。
それが、明確な拒絶であったとしても。
僕にとっては、明確な拒絶よりも、一物を抱えた
やさしさのほうがどうしても許せない。





思い返してみれば、僕は誰かを訪ねて行くばかり.





僕が間違っているのなら、しかたがない。
そんなことが出来やしないことを、わかっていて、
言葉にのぼせてしまう、この悪辣な趣味をどうにも
ぬぐいがたいのは、
絶望的な希望をかろうじて持ち得ているから、
まだ、しがみついていたいからなのだろうか。





自分の大切なひとを思いやれば思いやるほど、
それが相手の気の重さ、負担、困惑になっていく。
その困惑を、僕への気配りというやさしさで覆って、
僕の前では、笑顔を見せてくれているのなら、
そのやさしさがつらい。
そのやさしさを、僕は裏切られていると感じてしまって
悲しくてどうしようもなくなる。
彼らのやさしさがわかるだけに、感謝しているのに、
素直に感謝していたいだけなのに、
身を裂かれるほどにつらいことだ。





だからといって、暗に拒絶をされることもつらいもの、
あなたが大切であるのに、その相手がそこから逸れて
離れようとするのも、ほんとうにつらいことだ。





故郷に拒まれ、旅先で拒まれ、休息する場所もなければ
どこに行けばよいのだろう。
音楽を試みようというひとも、聴いてくれるというひとも
いったいどこにいるのだろう。





感謝している。





拒絶をやさしさで覆わないでください。
どちらにしろ、傷つくのは一緒だけれど、
あなたの負担にならないのは、むき出しの感情でしょう。
僕がどうなろうがあなたの知ったことではないのなら
それでいいじゃないですか。





ひとびとの姿がぼやけています。
朦朧として見えます。





ほんとうにそこにいてくれたのですか?
いてくれたのですか?いなかったのですか?
いたのだと、ここに、いたのだと、
それでももう、これ以上は。

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