「人の扱い方ーー戸塚ヨットスクール」 2、
前回は「正しい体罰は必要だ」ということでした。
戸塚校長は「正しい「監禁」も必要だし、正しい「いじめ」も必要だ」と述べておられます。
戸塚ヨットスクールに来た(来させられた)子は、親を殺そうとしたり… 一般常識から言うと「極悪」の子供(二十歳以上の大人も)たちです。時々脱走を企てる人がいるそうです。そういう時、先生も生徒もで、見張ります。「生徒」というのは、戸塚校長の教育方針が理解できて、今逃げたら本人の為にならない、から、自分も見張る、という生徒です。
○「正しいいじめ」とは、
P.67
「たとえばみんなで崖を登ったりする時に、もたついている年少の子供がいたとします。
年長の子供にはそれが癪に障る。集団行動の足手まといになるし、事故でも起きたら大変だから、腹が立って「この野郎」と怒ったり、こつ゛いて「早く来い」と言ったり、無理のようなら「家に帰れ」と言う。これでいいのです。
(引用終わり)
(引用始め)
「そもそもいじめは「駄目な奴だなあ」という感情から発するものです。相手の駄目さ加減に応じて、いじめの量も決まります。もし、よそのグループと喧嘩をすることになった時、足手まといになりそうな子供には「ついて来るな」といって追い返す。来るなと言われて子供は、少しでも強くなろうとする。こういうものが正当ないじめなのです。」
(引用終わり)
「いじめも体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして必ず出口があります。」とあります。
○もう一つ、戸塚校長は、「強いことは」正しい (力は正義なり)」を強調しておられます。
(蛇足ですが、私は、「監禁も必要だ、正しいいじめも必要だ」で、私は「早くやれよ」とか「駄目だなあ」と言うのがいじめなのだ、と思っていたから、(そうかなあ)
と思いました。
「力は正義なり」は、目が点になるというか、読んだ後、何日かボーとしていました。)
P.89
「力の否定」の弊害
酒鬼薔薇聖斗から西鉄バスジャック事件の犯人まで、問題を起こす若者には明らかな共通点があります。こういう事件が起こると識者は決まって「心の闇」などという抽象論を振り回すばかりです。何があっても「心の闇」です。自分たちが何も分かっていないことを露呈しているのも同然です。
共通点とは何か。それは「弱さ」です。
その「弱さ」を生み出しているのが、戦後民主主義であり、「力の否定」です。政治家は悪、文科省は悪、校長も体育会系教師も体罰も競争も管理も校則もみんな悪。権力はすべて悪で、反体制のみを正しいとしています。
このような状況が、世の中を混乱に導いています。
(中略)
海で溺れている子供を、腕に覚えのある男が飛び込んで助け、子供は一命を取り留めた。この場合、男は強者の論理で子供を助けたのです。体力があり、技術があったから助けることができた。力があったから、強かったから正義が実行できたのです。
ところが弱者はこうは行きません。「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」などと、すべて人のせいにします。こんな万年野党の姿を見たことがあるでしょう。弱者の理論は現場では役に立たないのです。溺れている子供一人救うことはできません。このように役に立たないものを正義とは呼びません。
「力は群れのためにある」という基本を押さえずして、力については語れません。強い者は力に余裕があります。だからそれを自分の為に使っても、なお余力を他の人の為に使うことができるのです。
(引用終わり)
ここのところが私は理解できませんでした。… (時間が経って) (そうなのか)
と、目からウロコを落とされたのでした。
「力は正義なり」であるならば、基礎学力をしっかりつける、というのは正しいことなんですね。ある程度スパルタというか、丸暗記(「祇園精舎の鐘のこえ… とか」)、漢字、計算問題をしっかりやる(やらせる)というのは、正しいことなんですね。
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ケニア産の無農薬の紅茶を買いました。値段はそんなに高くありませんでした。
飲んでみてビックリ! こんなに違うものかと思いました。
ごちそうさまでした。
前回は「正しい体罰は必要だ」ということでした。
戸塚校長は「正しい「監禁」も必要だし、正しい「いじめ」も必要だ」と述べておられます。
戸塚ヨットスクールに来た(来させられた)子は、親を殺そうとしたり… 一般常識から言うと「極悪」の子供(二十歳以上の大人も)たちです。時々脱走を企てる人がいるそうです。そういう時、先生も生徒もで、見張ります。「生徒」というのは、戸塚校長の教育方針が理解できて、今逃げたら本人の為にならない、から、自分も見張る、という生徒です。
○「正しいいじめ」とは、
P.67
「たとえばみんなで崖を登ったりする時に、もたついている年少の子供がいたとします。
年長の子供にはそれが癪に障る。集団行動の足手まといになるし、事故でも起きたら大変だから、腹が立って「この野郎」と怒ったり、こつ゛いて「早く来い」と言ったり、無理のようなら「家に帰れ」と言う。これでいいのです。
(引用終わり)
(引用始め)
「そもそもいじめは「駄目な奴だなあ」という感情から発するものです。相手の駄目さ加減に応じて、いじめの量も決まります。もし、よそのグループと喧嘩をすることになった時、足手まといになりそうな子供には「ついて来るな」といって追い返す。来るなと言われて子供は、少しでも強くなろうとする。こういうものが正当ないじめなのです。」
(引用終わり)
「いじめも体罰と一緒で、相手の利益のためのものです。そして必ず出口があります。」とあります。
○もう一つ、戸塚校長は、「強いことは」正しい (力は正義なり)」を強調しておられます。
(蛇足ですが、私は、「監禁も必要だ、正しいいじめも必要だ」で、私は「早くやれよ」とか「駄目だなあ」と言うのがいじめなのだ、と思っていたから、(そうかなあ)
と思いました。
「力は正義なり」は、目が点になるというか、読んだ後、何日かボーとしていました。)
P.89
「力の否定」の弊害
酒鬼薔薇聖斗から西鉄バスジャック事件の犯人まで、問題を起こす若者には明らかな共通点があります。こういう事件が起こると識者は決まって「心の闇」などという抽象論を振り回すばかりです。何があっても「心の闇」です。自分たちが何も分かっていないことを露呈しているのも同然です。
共通点とは何か。それは「弱さ」です。
その「弱さ」を生み出しているのが、戦後民主主義であり、「力の否定」です。政治家は悪、文科省は悪、校長も体育会系教師も体罰も競争も管理も校則もみんな悪。権力はすべて悪で、反体制のみを正しいとしています。
このような状況が、世の中を混乱に導いています。
(中略)
海で溺れている子供を、腕に覚えのある男が飛び込んで助け、子供は一命を取り留めた。この場合、男は強者の論理で子供を助けたのです。体力があり、技術があったから助けることができた。力があったから、強かったから正義が実行できたのです。
ところが弱者はこうは行きません。「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」などと、すべて人のせいにします。こんな万年野党の姿を見たことがあるでしょう。弱者の理論は現場では役に立たないのです。溺れている子供一人救うことはできません。このように役に立たないものを正義とは呼びません。
「力は群れのためにある」という基本を押さえずして、力については語れません。強い者は力に余裕があります。だからそれを自分の為に使っても、なお余力を他の人の為に使うことができるのです。
(引用終わり)
ここのところが私は理解できませんでした。… (時間が経って) (そうなのか)
と、目からウロコを落とされたのでした。
「力は正義なり」であるならば、基礎学力をしっかりつける、というのは正しいことなんですね。ある程度スパルタというか、丸暗記(「祇園精舎の鐘のこえ… とか」)、漢字、計算問題をしっかりやる(やらせる)というのは、正しいことなんですね。
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ケニア産の無農薬の紅茶を買いました。値段はそんなに高くありませんでした。
飲んでみてビックリ! こんなに違うものかと思いました。
ごちそうさまでした。