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京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 暮らしの中の美

2013年10月14日 | 催しごと

この世を美しくしたいと願った人は、誰もが使う日常の器具を「民具」と呼び、暮らしの中に美へのまなざしを向けていきます。「普段遣い」「勝手道具」と呼ばれる、生活になくてはならない雑器に「用の美」を見出した柳宗悦。「柳宗悦展 ―暮らしへの眼差し― 」が12日から滋賀県立近代美術館で始まりました。

京都の朝市で売り手のお婆さん達から初めて聞いた「下手(げて)」「下手物」という俗語を、やがて「民芸」という二字に造り変える経緯が『京都の朝市』にあります。
貧しい「下手」と蔑まれる品物には、奢る風情もなければ、華やかな化粧もない。安くて、ざらにある平凡極まる作品だが、その中には高い美が宿っている。用途から自ずと生まれてくる美があるというのです。日々見慣れてしまうがゆえに見ようとせず、その美が見捨てられてきた長い月日。「習性に沈む時反省は失せる。まして感動は消えるであろう」(『雑器の美』)と言っています。

「心偈(こころうた)」、心の遍歴の覚書だそうですが、自筆による書で「今見ヨイツ見ルモ」「見テ知リソメ知リテナ見ソ」とありました。
美しいものが見えるようになるためには、〈今見る想いで見ること〉。〈自由な眼と心の働きの大切さ〉が説明されてありました。美しさの理解への基礎は直観を置いて他にないと言ってますから、知識で見ないということです。

宗悦25歳、庶民の伝統と暮らしに基づいたものだと感銘を受けたというわずか13センチほどの朝鮮陶磁器(染付秋草文面取壺)。素朴なほほ笑みの木喰仏。「木喰五行菩薩は甲州が産みし永遠の誇りなり」、で始まる保存への趣意書の生原稿。鹿皮の上で防染し藁や松葉をいぶして染めたという茶色の渋い風合いが美しいのは庭師の親方が着た袢纏だとありましたが、印象に残った展示品でした。

展示会に先立ち、私は柳宗悦の書き残したものを数作読んでしまいました。思索のあとを知るのもベンキョーになります。よかったのかまずかったのか…。


コメント (6)
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