原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

原キョウコのダンスセラピーについての考え方

2019-10-25 | ダンスセラピーについての考え方
いつも思うのだが
ダンスというといっぱい動いて発散して解放して、
というイメージを持たれる方がとても多いのだけれど
自分がここ何年も行っていることは
闇雲に動くことではなく
微細な感覚(身体の内も外も)をどのように丁寧に
拾い上げていくか、ということがメインであるし
身体の通りをよくすることであるし
所作に意識を向けることにより
身体感覚もエネルギーも全く変わる、ということであって
いつもその辺りがどの程度言語化でき
どの程度伝わっているか、
ということに試行錯誤している。

感覚というのは非常に微妙なもので
思い込みに過ぎないことも多々ある。
人は自分の見たいものしか見ないし
手前勝手なストーリーを作り出すものである。
しかし緩やかにほぐしていくことにより
身体感覚も感情も「ニュートラル」な状態、
になることがあり
これがいちばんのベースとなる。

いつも日常でつけている防御のための鎧を外した状態。
ココロが上がりも下がりもしてない状態。
ただそこに在り、ゆったりと呼吸をしている状態。
そのままの身体で、ずっと同じ姿勢でいても平気だ
と感じる楽な無理のない状態。
心身の一致した状態。
自分の重さがちゃんと感じられる状態。
何も考えていない状態。
これがすべてのベースになる。
ここからが始まりの場所になる。

そこから動きとイメージの手がかりを元に
一人一人がその感覚とイメージの一致した中に
踏み込んでいくのだが
何に出会うかは人それぞれである。
動いていて心理的な抵抗が出てきた時は
それに抗わず、ただそれを観る。
一切のジャッジはしない。

その裏には怖れや悲しみがひっそりと隠れていることもある。
疲れを感じた時はその後ろに隠れているものを
そっと拾い上げる。
そういう営為を繰り返していくと
自ずから浮かんでくるイメージを捉えやすくなり
その中で自在に旅をすることができる。

イメージというのは思い浮かべるとか
空想の世界に逃げることでもなく
想像の中ですらありありと知覚でき
生理的変化をもたらすものだ。
(レモンや梅干しを口に含むと想像した時のように)
身体はいつも命令されてばかりだが
本当はこうしたほうがいいということを
思考よりも先に知っているし賢い。

そして嫌なことや無理なことに対しても正直だ。
そういう身体の声を受け取れるようになるには
それなりの訓練が必要だが
そのコツがわかってくると
自分の状態をつかむことが容易になる。

身体感覚と感情の関係がつかめてくると
感情的になって何かに当たるようなことも減る。
自分を責め続け沼に沈むような時間も減る。
その原因が遠い昔にあることも多い。
それがわかれば、解消していくことも多いのだ。
自分という存在は「自我」ではなく
身体も含めたまるごとの存在であることを
生きるようになること。
それが日々の生きづらさを解消する糸口になる。

生きることのあらゆる営みをもっと丁寧に味わおう
自分に嘘をつくのをやめよう
周囲の批判を恐れ顔色を伺い
出る杭にならないよう息をひそめるのはやめよう
自然の一部であるはずの「身体」を取り戻し
そして自分本来の魂を取り戻し
生き生きと生きよう
というのが
自分の行なっているWSの大きな目的であります。

日常の忙しさに振り回されている
他者の感情に巻き込まれやすい
考えすぎて自分のやりたいことがわからなくなる
他者とのバウンダリーが弱くなっている
などの時にはとても有効です。

そしてニュートラルな心身で自然とつながること。
自然や、大いなるものとつながること。
しっかりとグラウンディングした状態で。
それこそがもう一度
この大地の上に生まれ直し
歩けることを喜び
自分の道を見つけ歩いていくことにつながるのではなかろうか。


※写真は今回の長野の旅で出会った素晴らしい水の風景。
水は恐ろしい力を持つがとても美しく神秘的なものでもある。
今回は風の神に祈りに行ったつもりが
思いがけない水場との出会いから水への祈りにもなった。
ともあれ、自分にとってはすべての自然は神である。











コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【アジールとしてのダンスセ... | トップ | 無為/無心/身体と重さと世... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ダンスセラピーについての考え方」カテゴリの最新記事