原キョウコ ダンスセラピーラボ

ダンスセラピーという手法を通して心身の解放をサポートし、心と身体と魂をつなぐことを目標に、研究を重ねている場です。

江戸アケミさんの記憶〜1979

2019-01-10 | 徒然なるままに


【江戸アケミさんの記憶】


なんだかふと思い出したので
書いてみる。

アケミさんのいたバンド
「じゃがたらお春」
(1979年当時、まだそういう名前だったと思う)
を見たのは
自分の通っていた大学の
池の端でよくライブをやっていた。
ステージはとてもアバンギャルドな雰囲気で
彼は動きまくり叫ぶように歌っていた。

全くもって自由な気風の大学で
門はないし塀はないしニセ学も大勢いて
部室に住んでいる者もいた。

授業が終わってからはよく研究室で飲み会が行われていた。
(私が参加したのは主に岸田秀さんの研究室だったけど)

ある時に校内でバンドをやっている人に誘われ
駒場にあったじゃがたらのスタジオに遊びに行った。
それがアケミさんとの出会いだった。

そしてそこで山本政志監督とも出会った。
(「闇のカーニバル」という映画を準備していた時だと思う。
主役に誘われ、川崎大師にロケハンに行ったことを覚えている。
しかし脱ぐシーンがあると知りやめてしまった。
飯田譲治さんに電話でこっぴどく叱られたのも覚えている)

実家から近かったこともあり
駒場のスタジオには時々遊びに行っていたように思う。
屋上のペントハウスで、アケミさんはそこに住んでいた。

ある時、なぜだか二人で明大前かどこかに飲みに行って
アケミさんが大学構内?かで立ちションをして戻ってきて
こちらに触ろうとしたのかなんだったのか、
「いやだきたない〜」と言ったら
「キョウコちゃん、友達は仲良うせなあかんよ〜」
と言ったのを覚えている。

いつの間にか、
じゃがスタに行くこともなくなり
大学を卒業して
勤めながら貧乏しながら芝居を続け
ある劇団(ロマンチカだけど)にいた時
日根チカが「これ好きなんだ」と言って
聞いていたのがじゃがたらの「それから」だった。

アケミさんはとうに亡くなったけれど
時々懐かしく思い出す。
初期の頃のステージとは全く違って
プライベートでは
繊細で優しい人だった。

優しい人は早く亡くなるのか。

だからまだ私は生きているのか。

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「現在性の身体」であるということ

2018-10-04 | 徒然なるままに


9/16のダンスセラピーWSの記録。

踊っている間は言葉のコミュニケーションのない貴重な時間で、
ただ私だけが頭に浮かんだイメージを言葉にしてゆく。
皆それぞれの世界を感じている。見ている。踊っている。

激しい動きもしていないのに
終わるとお腹が空く。
終わって飲んだり食べたりしながら話す時間が
この日に起こったこと、出てきた動きを
また新たな角度から体験を反芻、増幅させてくれる。

まさに合宿の終わりに奥田さんに引いていただいた
イーチンカードそのものという感じであった。
言葉と身体、他者と新しき部分の幸せな出会いの時間となる。

言葉と身体は紡がれていくべきだ。
思考と身体の分断をなんとか元に戻そうとしていきたいという
自分の長年の試みでもある。
それはなかなかつながらない、と見せられるときもある。
がっくりした気持ちにはなるものの
また淡々と続けていく。
それがこの20何年、やっていることだ。

誰がどんな人で何をやっているかなどは関係なく
ただまっさらに動きたい身体と身体がそこにあって、
誰かが誰かに掛けた言葉も自分の身に響いたりする。

大人になってしまっているからこそ、
こういう場がとても大切なものと思うし
いつまでも大切にしていきたい。

初めての人も久しぶりの人も共に穏やかに過ごせる時空間を。
あなたが感じて抱えてきたものはもう過去のものだよ、
と身体が教えてくれる。
後生大事に思い込みを抱え込み、
それにしがみついている時
現在性の身体はあっという間に消えてしまう。


今を生き、少しでも動けることの嬉しさ。
どんな不具合があろうとも。
過去でもない未来でもない、今この時を生きるということ。
それで充分じゃないか。
不自由だろうが、病を抱えていようが
その瞬間には
どうでもいいことになるのだ。

身体的な痛みを抱えてきた人もそれが消えるという時がある。
その痛みは何に由来しているものなのだろう。
本当はそれも身体の深いところは知っている。
しかし自我はそれを知り得ない。
不安と痛みには相乗効果がある場合がある。
不安とは現在にいないことだ。
自我以外の内なる部分を垣間見てしまうことも
不安の原因の一つだろう。

大野一雄さんは車椅子に乗るようになってからも踊っていた。
黒沢美香さんはがんの骨転移の痛みを抱えながら踊っていた。
「踊っている時は痛くないのよ」
とおっしゃっていたことを思い出す。
(主治医が一緒だったのだ)


多分わたしも踊り続けるであろう。
いや、踊りたい。
どこであっても何があっても。
今以上に身体は衰えていくし
動かない箇所が増えてくるのも当然のことだが
ただ自分にできうることをしたい。
一人でも多くの人を踊りに誘いたい。

誰しも
先のことなんて何もわからない。
明日の命があるのかもわからない。

ただ、踊りの誘うままに行けるところまで。

次回は10/27(土)13:30~16:30 溝の口にて。

それぞれの身体のうちにすでに踊りはあるので
その踊りを引き出す仕掛けはいろいろ。
踊りたい身体を持つ方なら、
幾つであろうと不自由を感じていようとどなたさまも歓迎です。

身体だからこそわかることがたくさんあります。
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春先の身体と心、その取り扱いを考えよう

2018-03-29 | 徒然なるままに



春先は心身ともに不安定になるが、そういう中での身体へのアプローチは大きな役割を果たす。

言語以前のこと、言語化できないことが身体を通して発現される。
心身のつながりを身をもって実感される方が増える。
心のあり方を変えるのは難しいけれど、
身体の状態は自分で変えられる→気持ちも変わるという体験となる。

地味だけれど、そういう積み重ねを体験してもらうと、心身との付き合い方が変わってくる。
色々な時があって当然、ということを感じるようになる。
泣くことも笑いも含めそれをグループで共有するということのチカラ。
場のチカラ、そのものである。
こういうことが臨床の大きなベースであると思うのよ。

だから臨床はとても好きなのだけれど、街場で行っている自分のWSも同じように思っている。

元気でない自分も受け入れていく、自分にとっての疲れ方を見ていく、心身のクセを観察していく、などなど、
自分のことはちゃんとわかっていないことが多いから。
無理無理頑張るのが癖になっている人が多いから。

無理と我慢が重なり人は病になる。病になる手前でなんとか踏みとどまっている人も大勢いる。
病であってもなくても、自分へのケアはとても重要だ。そのスキルはいくつあってもいい。
それは自分自身をジャッジせずに見ていくことにもつながる。
もうダメだあ、と思う状態は間々あっても、ダメな人間というのはいないよ。

この仕事ができて本当に良かったな、と思えるのも、人の身体の素直な反応が感じられる時があるからだ。

緊張している時、嬉しい時、悲しい時、様々な状態の身体がある。
そこに気づけるかどうかが大きな分岐点だが、
それを充分に感じて、真摯に向き合っている身体は美しいし生きている。

自分に嘘をつくのはもったいないし
自分のことを見ないのも本当にもったいない。
いつも思う。

闇がたくさんありそうでいやだ、
と大抵の人はいうけれど
闇の中にこそ、光り輝くものがあることが多いのだ。
今生この一回の人生を、隅々まで大切にするには
欠落や欠損も含め、自分のトータリティを受け入れていくことだ。

でも身体は嘘をつけないよ。
どんなに表面を取り繕おうとも。


4/1、WSを行います。
お申込み受けつけております。

写真は今年のお花見散歩より。
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2018 あけましておめでとうございます

2018-01-02 | 徒然なるままに



あけましておめでとうございます。

どなたにとっても、
今年がより良き年でありますように。

今療養中の方には
希望の光が届きますように。

新しき道に踏み出す方には
新たなる勇気がもたらされますように。

世界の平和
核廃絶
殺処分ゼロ
生きとし生けるものの平和
戦争の起こらない世界

を心から祈念いたします。

今年もよろしくお願い致します。
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言葉にならない

2017-12-06 | 徒然なるままに



いつも通る道筋に団地があり、
その敷地と道路の際に
10メートルほどの常緑樹の木立があった。

いつからか、
そこを通るたびに心のうちで、時には声に出して
樹々に話しかけるようになっていた。

かんかん照りの日に日差しを遮ってくれ
突然の雨の時にはつかの間の雨宿りができるような、
短いけれど
わたしにはほんの少しでもホッとできる
好きな場所だった。

週明けの朝
そこを通るとチェーンソーの音がする。
その木立が伐られている真っ最中だった。
朝、目的地に向かうところゆえ
そのまま通り過ぎるしかできなかったが
帰りに確認したら
木は全て根元から伐られ、
切り株になっていた。

自分でも思いがけないほど胸を突かれた。

あの木立とはもう会えないのだ。

こんな風に
人の生活に何かしら邪魔と思われるものは排除されて行くのだろう。

東京もオリンピックを前にして
多くの木が伐られている。
中野区では公園の17000本もの木を根こそぎ伐採して
陸上トラックに作り変える計画が進んでいる。

ギネス認定を受けたいという承認欲求を満たすだけのために
150年を生きてきた木を伐り出すバカもいる。

いつまでたっても、
人間は何と愚かなのだろう。

森や山の木立の中で一人踊るようになってから
樹々がとても近しいものになっているので
聞こえない悲鳴が聞こえてくるようで
とてもつらい。

どんなに小さな木立でも、様々な樹々があることで
都会にも大きな潤いをもたらしてくれているというのに。

山があり、木があるからこそ
この国には豊かな美しい水がもたらされているというのに。

自然への畏怖を感じながら
その恩恵に預かり、感謝を持って生きていくこと。

そんな大切なことを忘れて
経済と人間中心主義になっている社会が本当に嫌になることがある。

自分の無力さや非力さを感じながら
自然への祈りのダンスを続けて行くことしかできない。
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明日のWSのおぼえがき

2017-10-27 | 徒然なるままに


日常の中で思うに任せずぼんやりとしていると自分には何もない、
と思うことがある。

しかし踊っている時と自然の中にいるときは、
自分には何もないが全てがある(言語化すると陳腐だが)と感じているのだ。

踊ることは
子どもの頃、アリの行列ををじっと見ていたことや
タンポポを摘んだりしたのと
同じ行為だと思う。

特別な身体を「作り込んで」することではなく、
自分のなすがまま、あるがままを感じてみるということだ。

だから誰もが踊ればいいのに、とつくづく思う。

だいぶ昔のことだがWSに初めて来た方が
身体ほぐしなど一通り終えてムーブメントの時間に入ったら、
最後まで1時間ほど座ったまま動かずにいた。
終わってから「世界一周をしていた」、と話された。

こういうことが今でも起こる。とても面白いことだ。
身体とイメージが結びつく時空。
「ここ」ではないところで。同時に「今ここ」で。

ただし、こういうことが起こるにはウォームアップが必要で、
それがいつも私が行う身体ほぐしなのだ。
これはシンプルながら非常に奥深くを掘り起こす。

ある時も、ムーブメントの30分ほどを微動だにせず立っていた方がいて
おそらく樹になっているのだろうと思ったが、そうだったとのこと。
見ているとよくわかる。

なんの身体訓練もしていない人が、
微動だにせずただ立つ、立ち続けるというのは
不可能に等しいのだ。イメージなしには。

イメージの力は自分の狭い範囲の思考を
やすやすと越えることがあるのだ。

踊る、ということは「そのままに在れるか」ということでもあるし、
「自分ではない何かになること」でもある。
それはもう物質対精神、みたいなこともすっ飛ばすのよ。
どちらでもあり、どちらでもない。
それをもっと多くの人に体験していただければと思う。
ノンデュアリティに近い気がする。
(細かくはまだ検証していないが、
このことをどれだけの方が知っているのか?)

肉体というこの不自由なもの、
そしてその重さと不自由さを知ること
その崇高さを知ることからでしか
重さのない世界、自由な世界に
たどり着くことは始まらない。

10/28の溝の口のWSではそこにフォーカスします。
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「あわい」の感覚

2017-08-02 | 徒然なるままに



自分にとって、踊っている時
3次元と4次元の間のような感覚の時がある。

身体があるのにどんどん希薄になっていく。
目覚めかけだが目が覚めきっていない、
起きる直前のあのゾーンの感じ。

泉鏡花は「草迷宮」の中で秋谷悪左衛門というもののけを、
曰く「目の瞬きの間」に存在するものとして描いた。

そういう「あわい」にしか存在し得ないものがある。
本来はそういう「あわい」こそが真実なのだと思う。

小さい頃から幻想譚が好きで、
こればかりは飽きずに今になるまで読んでいるが、
それは実は「あわい」のあの真実を求めていたのからなのだな。
起きる直前は、どこかからのメッセージも入ってくることが多い。
お酒を飲んだ時も時々そのような体験をした。
それは思考と理性のコントロールが働かない時間である。
「受け取れる」ことがとても多くなるということだ。

稀に、WSでもそのような時間が訪れる時がある。
その時の空気感は言葉では表現しがたいものだ。
「今ここ」すらもなくなり
ここはあそこでもあり、そこでもあるというような
時空を超えたような場になる。
時空間自体が幻想であり、サイケデリクスなものとなる。

「あわい」こそが真実、ということを
子供の頃から思っていたのであろうか。

今でももちろんそう思っていて
それは「変性意識」と呼ばれるがそうではなく、
それこそが真性意識という気がするのだ。

身体のことを追求していくとやはり魂の領域に辿り着く。
まだ、少しかすめているくらいなのだろうけれど。

この「あわい」の感覚を味わった人は
どのくらいいるのだろうか。
そして味わってみたい人はどのくらいいるのだろうか。

身体は時に魂を閉じ込める檻のようにも感じられる時があるが、
身体とイメージを通してあるゾーンに達した時
時空を超えた別の次元に行くことができるのだ。
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スーザン・ソンタグの言葉より

2017-05-02 | 徒然なるままに




どなたにも読んでほしい。
深い部分まで考えながら。

スーザン・ソンタグの言葉は「知の遊び」などではないのだから。

同感はできなくとも示唆深い部分が色々とあるはず。

私にはいくつも深く頷くところがある。

スーザン・ソンタグ「「良心の限界」より。

(FBFの立山穂高さんよりお借りしました。
ありがとうございます!)

************

 序
 
若い読者へのアドバイス……
(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)が
いかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。
注意力(アテンション)の形成は
教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。
人はつねに成長します。

注意力を増大させ高めるものは、
人が異質なものごとに対して示す礼節です。
新しい刺激を受けとめること、
挑戦を受けることに
一生懸命になってください。


検閲を警戒すること。
しかし忘れないこと──社会においても個々人の生活においても
もっとも強力で深層にひそむ検閲は、【自己】検閲です。

本をたくさん読んでください。
本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、
あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。
その期待を持続すること。
二度読む価値のない本は、読む価値はありません
(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。

たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、
必要とすること、失望していることについて考えるのは、
なるべくしないこと。

自分についてはまったく、または、
少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。


動き回ってください。
旅をすること。
しばらくのあいだ、よその国に住むこと。
けっして旅することをやめないこと。
もしはるか遠くまで行くことができないなら、
その場合は、自分自身を脱却できる場所に
より深く入り込んでいくこと。
時間は消えていくものだとしても、
場所はいつでもそこにあります。
場所が時間の埋めあわせをしてくれます。

たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではない
という感情を呼び覚ましてくれます。


この社会では商業が支配的な活動に、
金儲けが支配的な基準になっています。
商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と
実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。
みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、
小さなかたちではあれ、
この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して
拮抗する力になることができます。


暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。


少なくとも一日一回は、
もし自分が、旅券を【もたず】、
冷蔵庫と電話のある住居を【もたない】でこの地球上に生き、
飛行機に一度も乗ったことの【ない】、
膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、
と想像してみてください。


自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。
ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。


恐れないことは難しいことです。
ならば、いまよりは恐れを軽減すること。


自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、
おおいに笑うのは良いことです。


他者に庇護されたり、見下されたりする、
そういう関係を許してはなりません──女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。
屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。


傾注すること。
注意を向ける、それがすべての核心です。
眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。
そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、
みずからの生を狭めてはなりません。


傾注は生命力です。
それはあなたと他者をつなぐものです。
それはあなたを生き生きとさせます。
いつまでも生き生きとしてください。
 

良心の領界を守ってください……。


 2004年2月
  スーザン・ソンタグ
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千鳥ヶ淵の桜

2017-04-13 | 徒然なるままに





先週、打ち合わせの帰りに
千鳥ヶ淵と靖国神社で桜を見てまいりました。







まさに満開、という時期。
低気圧の谷間で当日は快晴。

これはいかないわけにはいきません…

大勢集まって賑やかな花見は昔散々したけれど

一人でただただ景色を見ている、というのもいいものです。

ふっと泣きそうになった。




桜の若木と古木では全く味わいも違う。

古木の持つ妖しさ。






華やぎの中に、妖気があります。

幹は古い精霊そのものだ。




そういうものもどこかで感じていて
春という季節の到来が
ただ嬉しいだけではない、
危ういけれど、それゆえの魅力になっているのかもしれないな。


そしていつも思うのは
来年もまた見ることができるとは限らないということ。


いつでも一期一会だ。










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岡山ヒカリフェスティバルのおぼえがき〜12/10,11

2017-01-21 | 徒然なるままに





これも書かなくては、と思って書けていなかったので
改めて振り返りつつ記録を。

ヒカリクリニックは岡山駅近くのメンタルクリニックで、
磐樹炙弦氏とクリニック院長の遠迫Dr.の企画により
第一回のフェス開催。

磐樹炙弦氏は現代魔術の研究家/実践家でもあり、
タロット研究書の翻訳も出している方である。

で、自分は初日の即興ライブ出演と
翌日のWSを行なって参りました。

岡山は初めての土地。
新幹線を降りると駅前は東京のどこかにいるような都会で
地域性は全く感じられず、ちょっと不思議な気分に。
まあ今はどこの県庁所在地も同様なのであるが。

当日まで顔合わせ、打合せなしで
現場に入り、
ディジュリドゥのヨーヘイさんの音出し中に
軽く動きを合わせる。
磐樹さんはピアノ。
夜になってクリスタルボウルのマガリさんの到着を待ち
お客さんの前で、どう導入していくかだけを決めて開始。

終わり方も時間の尺も全く決まっていない。

久しぶりの人前での即興勝負。
一昨年秋から
山や湖やお社や祠や、人のいない場所では一人でずっと踊ってきたけれど
たくさんの人の前で踊るのは久しぶりで、
やはりこういうものは「人の視線に支えられているものなのだ」ということを改めて感じる。
そして、場を共にしてくださったお三方の音が
もちろん何よりも大きな力であった。

踊る時には思考をオフにするスイッチが瞬時に入るので
自我は限りなく希薄になっていく。
その中で、この岡山の地〜駅前の風景ではない、
元々のこの地のエナジーや地霊を召喚する踊りを踊るのだ、とふと思い
自分の動きが変質していったのであった。
何かキレイなことやテクニックを見せるわけでもない。
ただその場の空気を吸い、音を全身で聞き、
そこにあるエナジーを受け取ったり出したりしながら踊るのみである。

ある人は妖怪のようだったといい、
ある人は口ではうまく言えないものだったという。

ただ確かなのはそこではもう「何か」が起きていて、
最後にわたしが床に倒れこんでハアハアしていて、
磐樹さんの電話にコール音が響いてそれに出た、というのが終わりの指令となったのだ。

あの場には「何か」がいた。
言葉にしてしまうと、つまらないことだけれど
そういうことなのだろうと思う。
それは我々が呼び起こしたものなのか、
観客から引き出されたものなのか、
見えない存在のお出ましなのか。
多分全部なのだろう。
だから吠えるような声を出したり、妖怪のような動きもしたのだろう。

翌日は明るい日差しのもとで
WSを行なった。
こちらも昨夜と同じ空間とは思えないほど、
清々しく気持ちがよく、
10名ほどで緩やかな心地いい時間を過ごした。

近しい人にはよく話すのだが
「黒キョウコと白キョウコ」というものが内にいるのだが、
そこに新しく「赤キョウコ」も出現しての短い岡山滞在で、
胸の中がなんとなくワクワクして楽しい、という感じが
2週間くらい持続した。

不思議な感覚だった。

やはり自分には踊ることが何か別の世界との回路を開くものなのだろう。
あらためてそう感じた。今後も、そこを深めていきたい。

そういう体験の後での神戸WSでしたので
そのあとの自分への深まりも推して知るべしでありました…

立会人には、
大阪や東京からわざわざ足を運んでくださった方たちもあり、
ヒカリクリニックの患者さんもあり。

立ち会ってくださった皆様、スタッフの皆様、出演者の皆様、
あらためてありがとうございました。

他のWSや鍼灸やフローティングタンクを体験できなかったのが非常に残念だったけれど。

ものすごく楽しかった!!

磐樹炙弦さんの属する「東京リチュアル」の活動はこちらです
http://tokyo-ritual.jp/media.html
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2017年のご挨拶

2017-01-05 | 徒然なるままに






2017年が始まりましたね。

あけましておめでとうございます。

皆様の昨年はいかがでしたでしょうか。

年末に箱根神社、九頭龍神社にお参りして来ました。
風が強く芦ノ湖には波頭が立ち、桟橋にいると波をかぶるような日でした。
いかにも箱根らしい西風で、寒いけれどもキリリと引き締まる。
それが自分にとっての箱根であります。

2016年は一昨年にも増してさまざまな場所に行き、踊り、
見えるものや見えないものから
大きなサポートをいただいていると深く感じた一年でした。

お世話になった皆さま、昨年新たに出会った皆さま、
(人でないものももちろん含みます)
ありがとうございました。

ここ何年も社会的にこの国の希望や展望は見えて来ず、
その現状を見ないふりするままの舵取りが続いています。
自分や世界をを振り返り、観察し、捉え直し、軸を作っていくことが
誰にとっても大切なことと思っています。
そして今までの枠組みを抜け出して
新たなパラダイムを創っていくことが急務です。
3次元的な思考だけではもう立ち行かないものと感じます。

どなたも悔いのない時間を少しでも多く持つことができますように。

生きとし生けるものもそうでないものも
すべてのいのちと魂に幸あれ!


2017 原キョウコ 拝

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傷と傷痕。その2 そして怒りへの対処。

2016-11-18 | 徒然なるままに



傷を持たない人間はいない。
だから、誰しも自分のその傷の傷跡や残滓を見続ける必要がある。

それは自分自身が少しずつ変わっていけることを
教えてくれるものでもある。

経験が体験化され
体験が意識につながって行くと
自分がものを見る「層」が変わっていく。

生まれてきて色々な体験を積む、
という醍醐味はそこにあるのではないか、と思う。

憎みっぱなしも恨みっぱなしも人のせいにしっぱなしも
それで苦しむのは自分なのだから。


************************

怒りそのものは大きなエネルギーなので
怒りが収まらない人にはやはりそれを昇華する表現行為が必要なのだと思う。

細かくいうと、最初は表出。ただただ噴出されるのみで、
そこにはどう出したらいいかという方法論は見当たらない。

それをもっとうまいやり方や
人にそのことをちゃんと伝えたいと思った時に
怒りを適切な方法での表現に変えていくことができる。

出しっぱなしではなく、どのような形にして伝えるか、
何をどのように伝えたいか、誰に向けて伝えたいか、
伝えるためには何が必要か、
ということに考えが及んでいきます。

その時に初めて、恨みや怒りでもない、
それを受け止めさせる存在ではない「他者」が出現します。

脅かす存在でもなく、愛してくれる存在でもなく
ただの他者。

ただの他者、という存在がいることを獲得できた時に
穏やかな世界の片鱗が見えてくると思う。
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傷と傷痕。その1

2016-11-14 | 徒然なるままに



精神的に辛い出来事があると
それは見えなくとも生々しい傷になる。

血を流し、傷口はじくじくと痛む。
しかしそれでも日にち薬はじわじわと効いてくる。

やがて傷にはかさぶたができ、
激しい痛みは感じないようになる。

チャンスはその時なのだ。


なぜそのようなことが起きたのか
それに対して自分がどのような処置をしたのか
癒えていない部分があるのは一体なぜなのか。

そういうことを考えることは
自分というものを振り返り考える時で
(自我も含めてのものであり、自我だけではない。)
そこに「布置」されたことにも
思い至ることができる。


「布置」ということが非常に重要だ。


それを見ることができれば
その出来事が自分に何を教えてくれるのかが分かる。

傷を負うということの意味。

それを持ち越さないためにも
そのチャンスを逃さないでほしい。


見ないふりをして過ごすということは
自分に嘘をつき続けるということだから。
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踊りの誘うままに

2016-06-28 | 徒然なるままに


生きている間、踊り続けよう。


踊りの誘うままに。


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踊る身体は

2016-06-27 | 徒然なるままに




never stop dancing.


踊る身体は常に何かを感じ続けている。


踊る身体は静止はするが停止はしない。


踊る身体はその瞬間瞬間を感じ続けるのだ。


空も雲も水も光も踊り続けているではないか。


有機体としての感覚を生きよう。
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