やさしい芸術論

冬が来たなら、春はそう遠くない

即興詩人のような生き方

2021年01月15日 | アンデルセン

デンマークの童話作家・詩人の

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは良い作品をたくさん書きました。

 

アンデルセンは「みにくいアヒルの子」や「マッチ売りの少女」などの

有名な童話を書いた事で有名です。

 

アンデルセンの人生は、

アンデルセンが出した自伝の最初の二行に集約されています。

 

「私の生涯は波乱に富んだ幸福な一生であった。

 私の人生はまるで一編の美しいおとぎ話のようだった。」

 

アンデルセンは貧困な家庭に生まれ、

様々な困難や苦労を乗り越えて、

童話作家として成功を収めます。

 

その童話作家として認知される前の、

いわば出世作のような作品が長編小説の「即興詩人」です。

 

今年は、即興詩人のような生き方をしていきたいと思います。

 

 

 

 

「即興詩人」はアンデルセンの自伝的作品で、

貧困や困難を、自らの即興的な詩を作る才能により切り抜け、

その芸術によって人を豊かにし、旅をしながら色々な人と出会いながら、

次第に有名になっていきます。

 

「即興詩人」では主人公が詩人としての才能を発揮し、

その自作の詩を自ら歌って旅をしますが、

主人公は途中で”詩人”の意味が分かりました。

 

「私は詩人が何であるかを悟った。

 見たもの、感じたものを美しい歌にできる人の事である。

 本当に素晴らしいことに違いない。」

 

つまり、人生で色々な人に出会い、色々な場所に行き、

色々な出来事が起き、色々な感情に変化する事を、

詩に書いて、それを美しい歌にして歌える人です。

 

つまり、何でもない一日や、何気ない人との会話、

普通の生活でさえも、その美的感性により、

芸術に昇華させて、人のこころ豊かにします。

 

そして、即興詩人ということは、

即興的に、何でもない日常の場面を、

美しい詩にして、歌にして、

芸術にする事が出来るという事です。

 

ぼくはこの考え方、生き方がとても素敵だと思い、

即興的に詩は書けず、歌は歌えずとも、

日常の何でもない生活を

なるべく美的観点から見るようにして一日一日を過ごします。

 

例えば、家族の何でもない会話でも、

過ぎてしまえば貴重なものだと思い、

自然の風景を見れば、絵画的に美しいと感じるように、

何でもないと思えば、何でもない会話であり、風景も、

芸術的思考に転換する事が出来れば、

それは大切な、幸せな瞬間となると思います。

 

こういう生活が出来てこそ芸術の価値があるし、

本当の芸術家というものは、こういう利点があるのではないでしょうか。

 

少しずつですが、こころの豊かな人になれるよう

これからも芸術について考えていきます。

 

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「フランケンシュタイン」とアイデンティティ

2021年01月15日 | 文学

この世界にはあらゆる人種の人が住んでいて、

あらゆる考えを持ち、十人十色の個性を持ち、

それぞれ違った人生を歩んでいます。

 

性的マイノリティの人や、障害や、人と違う感性を持っている人、

宗教に入っている人など色々な人がいます。

 

それが人間の多様性です。

自然界でも、花や動物などが多種多様なのを見ても分かります。

 

しかし、人間は周りの人間を見て、

自分が周りと違う考えや容姿をしている事を気にします。

ひどい時は、いじめの対象になったり、差別をされたり、

社会から取り残されてしまうからでもあります。

 

アイデンティティとは、他と相対的に比べずに、

「自分は自分」という意識を持つ事です。

 

以前、美輪明宏さんは同性愛者である事を、

マスメディアでカミングアウトしました。

 

当時は同性愛は悪とされていて、

理解されていなかったので、周囲から猛反対にあうも、

美輪さんは毅然とこう語っています。

 

「わたしは人を殺したわけでもないし、

 ものを盗んだわけでもありません。

 人と人は変わっているのが自然なのだから隠す必要はない」

 

「フランケンシュタイン」は有名なSF小説ですが、

これを書いたのが、当時18歳の少女メアリー・シェリーでした。

 

 

フランケンシュタイン博士は、生命を生み出そうとして、

死体を集め、継ぎ合わせ、醜い怪物を生み出します。

しかし、その醜さに博士自身は恐怖を覚え、

怪物を捨ててどこかへ行ってしまいます。

 

この怪物は、2m以上の大型の男ですが、

頭が良く、言葉を覚えながら、人間と仲良くなりたいと思います。

やさしいこころを持っていたのです。

 

しかし、人に親切にしても、

そのあまりの醜さに、人間達は化け物扱いして、

逃げてしまいます。

 

自分の生みの親である、フランケンシュタイン博士さえ、

自分の事を捨てました。

人と仲良くなりたくても、親切にしても、

自分が世界でたった一人の醜い怪物である為、誰も友達になってくれません。

 

「フランケンシュタイン」に出てくる怪物は、

アイデンティティの中の最たるものの一つと言えるでしょう。

 

今の世の中でも、自分で産んだ子供を捨てたり、

虐待したり、可愛がらない親が何人もいます。

 

いくら優しいこころを持っていたとしても、

性的マイノリティや障がい者や、変わり者は見た目や偏見で軽蔑されたり、

顰蹙をかったりして、なかなか理解されません。

 

しかし、初めに書いた通り、命あるものは全て、

千差万別の個性を持っているものなのです。

 

なので、他者を理解してあげる。否定しない。

色々な考えの人と一緒に、共存していく事が、

平和で公平な社会を作る、とても重要な事だと思います。

 

誰にも理解されない、孤独な、こころやさしい怪物の事を、

やなせさんはずっと心に残っていたそうで、

アンパンマンは「フランケンシュタイン」の影響があるとおっしゃっていました。

 

やさしさは目には見えません。

人は見た目ではありません。そう信じています。

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美しい一瞬はいつまでも続く

2021年01月15日 | 邦楽

小沢健二さんはシンガーソングライターであり、

東大出身のインテリで、世界の小澤征爾を親戚に持ちます。

 

小沢健二さんが書いた名曲「さよならなんて云えないよ」の

歌詞に注目したいと思います。

 

「さよならなんて云えないよ」(歌詞抜粋)

 

青い空が輝く 太陽と海のあいだ

”オッケーよ”なんて強がりばかりの君をみているよ

サクソフォーンの響く教会通りの坂降りながら

 

美しさ Oh baby ポケットの中で魔法をかけて

心から Oh baby 優しさだけがあふれてくるね

くだらないことばっかみんな喋りあい

嫌になるほど続く教会通りの坂降りて行く

 

日なたで眠る猫が 背中丸めて並ぶよ

”オッケーよ”なんて強がりばかりをぼくも言いながら

本当は思ってる 心にいつか安らぐ時は来るか?と

 

左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる

僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも

 

 

この曲はマイケルジャクソンのようなイントロで始まりますが、

何といっても、人生を歌っているこの歌詞がいいです。

 

特にタモリさんもお気に入りな歌詞がこちら。

 

「左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる

 僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも」

 

この部分についてタモリさんは、次のような事を述べています。

 

「カーブを曲がって、光る海が見えてきて、

すごいきれいな風景だね、と普通の人は書くけれど

「この瞬間は永遠に続く」と書く事がすごい。」

 

 

ここからはぼくの解釈ですが、

例えば子供の頃の何でもない一日を

大人になっても覚えている事があります。

 

家の中で、家族と一緒に楽しく話した事とか、

旅行へ行って、楽しくて、その時の風景を覚えてる事があります。

もしくは、人生の大変な時に助けてもらった時や、

自分がいいなと感じた一瞬の場面などなど。

 

その時は一瞬で、過ぎてしまえば過去の思い出となります。

 

しかし、ふと、頭の中でその光景を思い返すと

頭の中でその時の感動が再現される訳です。

 

子供の頃の家族で楽しく食事した時などを思い返すと、

しみじみと、今でもその時に戻ったように、

その時の感動がよみがえってきます。

 

つまり、自分のこころに刻まれた美しい一瞬は、

記憶に刻まれている以上は、いつでも思い返す事が出来、

いつまでも続いている事になります。

 

ドイツの哲学者ショーペンハウアーは次の言葉を残しています。

 

「永遠は一瞬の中にある」

 

ショーペンハウアーも小沢健二さんのような考えを

持っていたのかも知れません。

 

「左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる

 僕は思う!この瞬間は続くと!いつまでも」

 

この歌詞を書いた小沢さんは、

光る海が見えた瞬間の、その美しい風景や、

風景を見れた喜びがこころに刻まれて

永遠に続いていくんだ!と思われたのかもしれません。

 

とてもロマン的で、子供のような純粋さが

とても人間らしいなと感じました。

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子供のためのユートピア

2021年01月14日 | 文学

黒柳徹子さんは現在も、舞台にテレビに活躍されていますが、

「戦後最大のベストセラー」といわれた

「窓ぎわのトットちゃん」を執筆した事でも有名です。

 

 

また、「ユニセフ親善大使」を務めていたこともあり、

慈善活動も精力的に行われています。

 

その黒柳徹子さんの原点は、

やはり「窓ぎわのトットちゃん」の中に書いてある

トモエ学園といえるでしょう。

 

トモエ学園の校長先生は人格者であり、先進的な考えの持ち主で、

障害がある人でも誰でも楽しめる学校を目指した。

 

電車が教室であり、運動会は障害のある人が有利になるような競技を考え、

運動会の賞品は野菜だったりと、

常識にとらわれず、みんなが楽しめる理想郷(ユートピア)のような学校だった。

 

トットちゃん(黒柳徹子さん)は、小学校一年生のころ、

授業中にあまりに落ち着きがなかったため、退学処分となってしまう。

 

その後、入学したのがトモエ学園である。

 

入学する前、トットちゃんは校長先生と一対一で面接をしました。

 

校長先生が

「なんでも先生に話してごらん。話したい事、全部」

と言うと、トットちゃんはあれやこれやしゃべり続けます。

話が無くなった時、

「じゃ、これで、君はこの学校の生徒だよ」と言った。

 

この時なんと、トットちゃんがしゃべり続けていた4時間もの間、

校長先生は話に耳を傾けていたのです。

 

トットちゃんは、今までこんなに長い事

大人の人に話を聞いてもらった事が無かったので、

先生をとても好きになります。

 

トットちゃんは友達に対し、思いやりがあるやさしい子でしたが、

活発に行動してしまう面もあり、

色々と問題を起こす事がありました。

 

その都度、校長先生はトットちゃんに対して何度もこう言います。

 

「君は、ほんとうは、いい子なんだよ。」

 

校長先生は、トットちゃんの事を、問題は起こすものの、

トットちゃんの良い面(思いやりがある所など)を

ちゃんと見ており、周りの大人から問題児扱いしかされていない

トットちゃんを不憫に思いそのように言ったのです。

 

黒柳徹子さんは今でもこの言葉を覚えていて、

この言葉のおかげで、卑屈にならず、自信を持って生きていく事が出来たと

語っていました。

 

黒柳徹子さんが以前、テレビ番組でインタビューで、

なぜ髪型をずっと変えないのですか、と質問された際、

次のように答えました。

 

「わたしはこの髪型でいいんです。

 周りがどんな髪型であれ、わたしはわたしなので。

 ある時から、人と比べる事になんの意味も無いと思って

 人と比べないようにしています。」

 

校長先生の人柄と、倫理感と、

常識を覆すような信念によって、

トモエ学園のような子どものためのユートピアが出来、

そこから黒柳徹子さんのような素晴らしい人が育っていったのです。

 

子どもにとって、人間にとって、社会にとって、

学校はとても大切な場所となるので、

トモエ学園のようなすべての子どもたちに理解のある

学校がもっと増えればいいなと思いました。

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「だれのための幸福」

2021年01月13日 | 

ぼくはやなせたかしさんが大好きで、本を何冊か持っています。

 

古い本で1981年に発売された「幸福の詩集」の表紙は、

かわいい天使が描かれたメルヘン調のイラストが描かれています。

 

 

やなせさんが好きな「星の王子様」の作者サン・テグジュペリさんの

影響がとても出ています。

 

今の時代、絵を描いたり、詩を作ったり、音楽を演奏したりして、

つまり芸術によってお金を稼ぐのはとても難しいです。

 

生活に追われ、生活を優先するあまり、

仕事中心となり、絵や詩や歌などの芸術活動は

生活の隅に追いやられてしまいます。

 

芸術に触れ、芸術を楽しむ事はこころを豊かにし、

人生をより楽しむことが出来ます。

 

プロとしての芸術家でない人はお金にもならないし、

特に人から必要もされない自らの芸術活動に迷いを感じ、

芸術活動は何のためになるのだろうかと、ふと思ったりします。

 

でも本当に必要な事は、自分のこころの底にある気持ちです。

 

自分がやりたければ、やったほうがいい。

人生は出来るだけ楽しんだ方がいい。

 

「だれのための幸福」という詩はお金にならない、

必要とされない芸術活動を行う人が共感する詩となっています。

 

単純な内容ですが、ぼくはとても共感しました。

 

 

「だれのための幸福」

 

絵をかきたい

詩をかきたい

 

だれのために

なんのために

 

だれのためでもない

なんのためでもない

 

私の心がのぞむから

 

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「人間なんてさみしいね」

2021年01月11日 | 

やなせたかしさんの詩を紹介します。

 

この詩はまだアンパンマンが世に出る前の頃の作品です。

 

やなせさんの人生は苦難の連続でした。

親と別れ、弟は戦死し、天涯孤独となります。

様々な病気をしながら過ごして、

漫画家として売れない日々を過ごしながら、

アンパンマンが売れたのは、69歳の時です。

 

アンパンマンがやなせさんの光の部分だとしたら、

この詩はやなせさんの「影」の部分と言えます。

 

影、すなわち苦労や痛みを知っているからこそ、

アンパンマンのような博愛的な人を助ける光のキャラクターを

生み出せたのかもしれません。

 

この詩の

たったひとりで生まれてきて

たったひとりで死んでいく

人間なんてさみしいね

人間なんておかしいね という部分は

恐らく、戦死した弟さんの事だと思います。

 

弟さんは生まれてすぐ、両親がいなくなり、

特攻隊として戦争へ赴き、二十二歳の若さで、

戦地へ向かう途中の海の中へ沈んでいきました。

 

やなせさんは終戦後、弟さんの死を告げられ、

渡されたのは、ただ、骨壺の中に一片の木片が入っているのみでした。

 

何で弟が死んで、何で自分が生きているのか。

答えの無い自問自答を何度も繰り返したのかもしれません。

 

この詩には、辛い人生を一生懸命生きてきて

真剣に人生について考えたやなせさんの

こころの声が聴こえてきます。

 

 

「人間なんてさみしいね」(一部抜粋)

 

 

とにかくこうして

何となく

諸行無常と生きている

このたよりない存在を

誰かがみとめてくれること

心と心がふれあって

何にもいわずにわかること

ただそれだけのよろこびが

人生至上の幸福さ

 

どうせこの世はまともじゃない

オレもオマエもみなさんも

ほんとはマチガイかもしれない

信ずるものはあるもんか

大群衆のまっただなか

石やきいもをかじりつつ

孤独のおもいに胸せまる

 

たったひとりで生まれてきて

たったひとりで死んでいく

人間なんてさみしいね

人間なんておかしいね

 

マチガイだったらよかったね

 

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「ひとが生まれるとき」

2021年01月11日 | 

やなせさんの作詞された「アンパンマンのマーチ」

の中で、

 

「なんのために生まれて なにをして生きるのか

 答えられないなんて そんなのはいやだ!」

 

という歌詞があります。

 

人は生きていると、時に、ふと、

何のためにうまれてきたのか分からなくなる時があります。

人が嫌いになったり、生きている事が辛くなる時もあります。

 

そんな時の為に覚えていて欲しい詩が

やなせたかしさんの詩「ひとが生まれるとき」です。

 

命はみんな尊い。

みんな誰しも赤ちゃんの時があって、

誰でもみんな天使だった。

 

原点回帰、命の始まりの神秘さ、

家族という関係性、

生まれてきた事の喜びを改めて

思い出させてくれるような詩になっています。

 

 

「ひとが生まれるとき」

ひとがうまれるとき
おかあさんはくるしい
涙こぼしてひとが生まれる
ひとは生まれるとき
泣きながら生まれる
涙こぼしてひとが生まれる
涙こぼしてひとは生まれる

ひとは生まれたとき
だれでもみんな天使
ひとつのいのちひとつのたましい
ひとは生まれるとき
かなしみはしらない
涙こぼしてひとが生まれる
涙こぼしてひとは生まれる

ああ
このいのちは
なんのためにある
なんのために
ひとは生きる
ああ
このいのちは
なにをして生きる


人生ばんざい!

生きているからには
つらいときもある
てる日もくもる日もいろいろさ
ぼく・きみ・あなた
ウマ・ヒツジ
サル・トリ・イヌ・イ
みなおなじ
みなおなじ
人生ばんざい!
フレー フレー フレー

生きているんだもの
涙もこぼれる
あめの日かぜの日いろいろさ
ぼく・きみ・あなた
ウシ・ネズミ
トラ・ウ・タツ・ミ
みなおなじ
みなおなじ
人生ばんざい!
フレー フレー フレー

生きているぼくたち
すてきなともだち
昨日も・今日も・また明日も
ぼく・きみ・あなた
みんなして
生きるしあわせ
うたおうよ
うたおうよ
人生ばんざい!
フレー フレー フレー

 

 

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アンパンマンの見つめる幸せ

2021年01月11日 | やなせたかし

みんな大好きアンパンマン。

恐らくアンパンマンを見て毛嫌いする人はいないのではないでしょうか。

 

 

そのアンパンマンの生みの親は、やなせたかしさんです。

童謡「手のひらを太陽に」や絵本「やさしいライオン」なども創作されました。

 

やなせさんの人生は、苦難の連続で、

苦難の連続にも関わらず、正義について、幸せについて考え、

「希望」の大切さを強く訴えて、アンパンマンなどを通して

世の中に平和と安らぎを与えてくれます。

 

やなせさんは小さい頃、父親を亡くし、母親に捨てられ、

親戚の家に弟と二人で預けられました。

 

青年になると戦争が起こり、中国の戦地へ赴きます。

そこで初めて飢える事の苦しみを知ります。

やっと終戦となり、祖国へ帰ると、

たった一人の愛する弟が戦死している事を告げられます。

 

天涯孤独の身になるも、積極的に漫画や詩や絵本などを

書き続けますが、なかなか売れっ子にはなれません。

歳をとるにつけて多病にも悩まされます。

 

奥さんがおりましたが、その奥さんが余命三か月と宣告された時、

ようやくアンパンマンがTVで放映され全国的な人気を得ました。

(やなせさんが実に69歳の時!)

 

そこから94歳で亡くなるまで精力的な創作活動を続けました。

 

やなせさんの人生は愛別離苦、孤独、飢え、病気、

戦争などの苦難を乗り越え、

その苦難を希望に昇華させて作品を生み出す人生でした。

 

その人生経験から生まれたのがアンパンマンであり、

アンパンマンはやなせさんの精神そのものでもあると思います。

 

アンパンマンは常に笑顔で、人を助け、人の幸せを願います。

利己のない、利他的な生き方をしてます。

 

やなせさんはインタビューで、以下のように

語っていました。

 

「今の世の中はエゴの時代だから、

アンパンマンのような利他的なキャラクターは

受け入れられないんじゃないか。」

 

アンパンマンの正義は、

悪い奴をやっつけるのではなくて、困っている人を助ける事です。

 

例えば、お腹がすいている人の所へ行って、

自分の顔を食べさせてあげたり、人の役に立つような行動をする事です。

 

アンパンマンは顔が無くなっても、

バイキンマンに顔を濡らされても、

新しい顔に取り換え、何事もなかったかのように

毎日西に東へ飛び回っています。

 

やなせさんのように

あらゆる苦しみ、痛みを経験したからこそ、

人の苦しみ、痛みや悩みを理解することが出来、

人にやさしくする事が出来るのだと思います。

 

それが習慣となって、何の考え無しに

自然に、当たり前のように人助けが出来ているのだと思います。

 

中国の思想家孔子の言葉に

 

「心の欲する所に従えども矩を踰えず」

(自分の心の思うままに行動しても、決して道徳から外れないという事。)

 

というものがあります。

これは孔子自身が70歳の時に達した境地だと言われています。

 

アンパンマンはまさに、

こころの思うように、自然に行動している事が

結果的に人を助け、笑顔にし、みんなに希望を与えていると思います。

 

貧しくて、ひもじくて、苦しくて困っていて、

誰からも見向きもされない人からアンパンマンを見た時、

アンパンマンは神様のような、仏様のような存在だといえます。

 

お釈迦様であり、キリストであり、太陽であり、希望そのものでもあります。

 

アンパンマンは、困っている人を助ける時、

その人が笑顔になると、アンパンマンも嬉しそうに笑顔になります。

 

アンパンマンの見つめる幸せは、自分自身の幸せではなく、

人の幸せ、人が喜んでいる様子、人の笑顔なんだと思います。

 

やなせさんの名言がそれをよく表しています。

 

「人生は喜ばせごっこ。人は人を喜ばせる事が一番うれしい。」

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草枕4 青年画家の芸術論

2021年01月10日 | 草枕

夏目漱石さんが書いた小説「草枕」の主人公は青年の画家です。

 

「草枕」冒頭部分は青年画家が考える人生観や芸術論から始まります。

 

 

「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、

詩が生まれて、画が出来る。…

…人の世が住みにくければ、住みやすい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、

束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。

あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、

ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である。

絵である。あるは音楽と彫刻である。…

…世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。

二十五年にして明暗は表裏のごとく、

日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。

三十の今日はこう思うている。

喜びの深きとき憂いよいよ深く、

楽しみの多いなるほど苦しみも大きい。…」

 

青年画家は人の世を住みにくいとし、

三十年間、苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする事を

仕通して飽き飽きして、疲れていました。

そこで青年画家は「非人情」のスタンスで過ごそうと思いたちます。

 

「非人情」とはつまりこういう事です。

社会においては必ず人間関係が発生します。人と接点を持ちます。

 

その時、当事者同士で、苦しんだり、怒ったり、泣いたり、

恨んだりという感情が起こる事があります。

 

それを芝居上の出来事に置き換えてみると、

役者通しは感情がぶつかり合っていますが、

自らを第三者として、観客として相手と接すれば、

相手は遠くの舞台上で演じている役者に過ぎない事になります。

 

人との距離を身近に置くのではなく、

相手を芝居している役者、

自分を芝居を見ている観客という立ち位置とすれば

芝居上の悲喜劇に、自分の感情をかき乱されずにすみます。

 

怒っている人、嫌な人、変わった人、悲しいでいる人を

「非人情」的、第三者の立場で観察する事により、

冷静に、楽な状態のままいられます。

 

この「非人情」はともすれば「不人情」「薄情」と

混同されがちですが違います。

 

「不人情」は人情に欠け、思いやりが無い。冷たい人の事です。

 

「非人情」は第三者の立場から人と接するので人との距離間があり、

それにより思い煩う事が無くなりますが、

決して思いやりや人情が無い訳ではありません。

 

夏目漱石さんが「非人情」について説明した文章を見たことがあります。

うろ覚えですが、だいたい以下の内容だったと思います。

 

例えば、親が子供にアイスを買ってあげたとします。

子供が手を滑らせてアイスを床に落としてしまった場合、

 

・「不人情」でいくと、それに対し怒ったり、無視したり、子供を責めます。

・「人情」でいくと、それに対し叱ったり、注意を与えた上で、

 アイスを片付ける。または新しいアイスを買ってあげたりします。

・「非人情」でいくと、それに対し怒ったり、悲しんだり、注意を与えたりせず、

 アイスを片付ける。または新しいアイスを買ってあげたりします。

 

つまり、感情が無いのではなく、感情に左右されない、

感情的にならないという事です。

 

そのために芝居を見ている観客のような観点、俯瞰で見ているような視点で、

感情に流されず、常識的に、理性的に物事を判断し、

自分にとっても相手にとっても正しい行動をとることが出来ます。

 

2019年12月、日本の医師である中村哲さんがアフガニスタンで亡くなりました。

彼はアフガニスタンの方たちの為、医療を初めとする様々な慈善活動を全うされました。

 

その中村さんの友人が語った、中村さんの考えは次のようなものだったそうです。

 

「彼は反権力じゃなかった。非権力だったんだ。

権力に反対する人たちは徒党を組んで、

”反権力という権力”をつくるんだ。彼は違った。

純粋に世界の困っている人を放って置けなかったんだ。

非権力だったんだよ。」

 

上記の考えは、不人情と非人情との違いと似ています。

 

「人情」の反対は「不人情」

「人情」に流されないのが「非人情」  

 

という事になるのではないでしょうか。

 

 

…青年画家はやがて、ミレーが描いたオフィーリアのような

絵を描きたいと思うようになります。

 

オフィーリアはシェイクスピアの戯曲「ハムレット」に

登場する女性です。

オフィーリアは悲劇の後、川で溺れて死んでしまうのですが、

その死の直前、何の苦しみの顔も浮かべず、自らの不幸を忘れ、

歌を歌い、上を向いている場面があり、

その場面の絵が、ミレーのオフィーリアの絵なのです。

 

画家である主人公は最高の美を表現すべく、

オフィーリアの顔を那美さんに替えて絵の着想を練りますが、

那美さんの顔に「憐れ」の表情が足りない事に気付きます。

 

最後の最後、豪快で何事にも物怖じしない、

気違いともいわれた那美さんの表情に「憐れ」が現れます。

 

そこで、「不人情」といわれた那美さんは

「人情」が残っている事が分かり、

「非人情」を貫いた青年画家の中で、美しい一枚の絵が完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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草枕3 シェリーの雲雀の詩

2021年01月10日 | 草枕

夏目漱石さんが書いた小説「草枕」には、

様々な芸術家の名前や言葉が出てきますが、その中に

イギリスの詩人シェリーの「雲雀」の詩が出てきます。

 

 

主人公の青年画家は人の世の住みにくさに疲れ、

山中の温泉宿に泊まり、自然に触れて、芸術について考えます。

温泉宿に向かう前に、山路を登っている途中で、

どこからともなく雲雀(ひばり)の声が聞こえてきます。

そして以下のように考えを巡らせます。

 

「春は眠くなる。猫はネズミを捕る事を忘れ、

人間は借金のある事を忘れる。

時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。

ただ菜の花を遠くに望んだときに目が醒める。

ひばりの声を聞いたときに魂のありかが判然する。

ひばりの鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。

魂の活動が声に現れたもののうちで、

あれほど元気のあるものはない。

ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。」

 

そして、その時シェリーの「雲雀」の詩を思い出して、暗唱します。

 

原文  「We look before and after
     And pine for what is not:
     Our sincerest laughter
     With some pain is fraught;
          Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」

 

日本語訳「ぼくたちは前を見たり、後ろを見たりして、

     自分に無いものにあこがれる。

     腹からの笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。

     美しき極みの歌に、悲しさの、極みの想い籠るとぞ知れ。」

 

ぼくたちは人間社会に生きている以上、人間関係はつきものです。

人と人とが関係を持つ時、学校や会社や社会公共の場で同じ空間にいる時、

ついつい自分と他人を見比べて、自分に持っていないような

容姿、健康、お金、物、才能、幸せなどを羨み、憧れ、時に不平不満を言います。

ことわざに言う、「隣の芝生は青い」という状態です。

 

子供の時は、大人は自由でいいと思い、

大人になってからは、仕事に疲れ、子供の時の方が

かえって良かったと思う人もいます。

 

自分には必ず自分より上の人がいて、自分より下の人がいます。

容姿、健康、才能、経済面のどの角度から見ても、相対的において

自分が人より上であったり、下であったりします。

 

しかし、自分と他人を比べてしまうと、

いつまでもあれが無い、これが欲しいと右往左往してしまいます。

 

仏教でいう煩悩がある状態とも言えます。

 

他人と比べず、自分は自分と受け入れ、その個性でもって

生きていきます。その自覚こそアイデンティティと言われるものです。

 

今でこそ、障がいのある方や、性的マイノリティの方、宗教、

人種、個性的な生き方を受容するような社会になりつつありますが、

まだまだマイノリティの方が生きづらい世の中であるのは否めません。

これが「ひばり」の詩の前半部分を表しています。

 

 詩の後半部分は、

「腹からの笑い」と「腹の中にある苦しみ」、

「美しき極みの歌」と「悲しみの極みの想い」、との対句になっています。

 

ぼくの自論で芸術とはバランスの要素が含まれている、と考えます。

腹から笑っている人がいたとしても、

その人は人には言えない苦しみを背負っているかもしれない。

 

また、苦しみがあるからこそ、少しの幸せにも感謝し喜べる事もあります。

 

人生が順風満帆で、何不自由無い、苦労を知らない人が

美しい曲を歌おうとしても、

悲しみ、苦しみを抱える人にも届く美しい曲は歌えないのではないでしょうか。

(幸せな、きれいな歌は歌えるかもしれませんが)

 

悲しみがあるから、喜びや、美しさが分かる。

影をしっているから、光が分かる。

苦労をしっているから、楽が分かるという事です。

 

その相反する二つのものが、作用して芸術は生まれます。

芸術は表裏一体であるとも言えます。

 

話は脱線しますが、

「美しい」という言葉の意味を「慈愛」という言葉に置き換えます。

 

「慈愛」はいかなる人に対しても、愛情をかけ、助けてあげる人です。

この「慈愛」は同情(シンパシー)が無いと、行う事が出来ません。

 

例えば、親が自分の子をかわいがる、障害者が同じ障害を持つ人にやさしくする、

自分と同じ苦しみを味わっている人の苦しみは、経験がある以上理解出来るのです。

 

言葉を換えれば、何にも不自由無く順風満帆の人は、挫折している人、

苦しんでいる人、悩んでいる人の気持ちが分からない事が多いのです。

 

「慈愛」は色で表すと、紫色になります。

紫色は赤色と青色が合わさった色です。

赤色は情熱、怒り、青色は冷静、哀しみ、で

この相反する二つのものが混ざると紫色の慈愛、美しさに変化します。

 

赤色は正義・行動、青色は我慢・思考という意味にも解釈出来、

それら二つの生き方(利己的)が合わさった時に

慈愛という別の生き方(利他的)が出来ます。

 

なので、この「ひばり」の詩の後半部分はこの、

芸術的考えを詩的に表したものだと考えます。

 

また、人間は生活に追われ、

何のために生きるのか自分は何者なのか

時に分からなくなります。

 

そこでひばりの声を聞いた時、ハッと思います。

ひばりは口で鳴いているのではない、魂全体が鳴いているのだと。

魂の歌を一心不乱に歌っているのが、ひばりなんだと気づきます。

 

何事にも、何者にもこころを乱されず、自然に、

喜びを表すように、かなしみを歌うように、

生きているという実感を表すように歌っています。

 

「草枕」の作中で、ウグイスが膨らむ咽喉の底を震わし、

小さき口の張り裂くるばかりに、

ほーう、ほけきょーう。ほー、ほけっー、きょうー

とつづけ様にさえずるのを聴いて、那美さんが主人公にこう言いました。

 

「あれが本当の歌です。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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