やさしい芸術論

冬が来たなら、春はそう遠くない

草枕4 青年画家の芸術論

2021年01月10日 | 草枕

夏目漱石さんが書いた小説「草枕」の主人公は青年の画家です。

 

「草枕」冒頭部分は青年画家が考える人生観や芸術論から始まります。

 

 

「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情にさおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、

詩が生まれて、画が出来る。…

…人の世が住みにくければ、住みやすい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、

束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。

あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、

ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である。

絵である。あるは音楽と彫刻である。…

…世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。

二十五年にして明暗は表裏のごとく、

日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。

三十の今日はこう思うている。

喜びの深きとき憂いよいよ深く、

楽しみの多いなるほど苦しみも大きい。…」

 

青年画家は人の世を住みにくいとし、

三十年間、苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする事を

仕通して飽き飽きして、疲れていました。

そこで青年画家は「非人情」のスタンスで過ごそうと思いたちます。

 

「非人情」とはつまりこういう事です。

社会においては必ず人間関係が発生します。人と接点を持ちます。

 

その時、当事者同士で、苦しんだり、怒ったり、泣いたり、

恨んだりという感情が起こる事があります。

 

それを芝居上の出来事に置き換えてみると、

役者通しは感情がぶつかり合っていますが、

自らを第三者として、観客として相手と接すれば、

相手は遠くの舞台上で演じている役者に過ぎない事になります。

 

人との距離を身近に置くのではなく、

相手を芝居している役者、

自分を芝居を見ている観客という立ち位置とすれば

芝居上の悲喜劇に、自分の感情をかき乱されずにすみます。

 

怒っている人、嫌な人、変わった人、悲しいでいる人を

「非人情」的、第三者の立場で観察する事により、

冷静に、楽な状態のままいられます。

 

この「非人情」はともすれば「不人情」「薄情」と

混同されがちですが違います。

 

「不人情」は人情に欠け、思いやりが無い。冷たい人の事です。

 

「非人情」は第三者の立場から人と接するので人との距離間があり、

それにより思い煩う事が無くなりますが、

決して思いやりや人情が無い訳ではありません。

 

夏目漱石さんが「非人情」について説明した文章を見たことがあります。

うろ覚えですが、だいたい以下の内容だったと思います。

 

例えば、親が子供にアイスを買ってあげたとします。

子供が手を滑らせてアイスを床に落としてしまった場合、

 

・「不人情」でいくと、それに対し怒ったり、無視したり、子供を責めます。

・「人情」でいくと、それに対し叱ったり、注意を与えた上で、

 アイスを片付ける。または新しいアイスを買ってあげたりします。

・「非人情」でいくと、それに対し怒ったり、悲しんだり、注意を与えたりせず、

 アイスを片付ける。または新しいアイスを買ってあげたりします。

 

つまり、感情が無いのではなく、感情に左右されない、

感情的にならないという事です。

 

そのために芝居を見ている観客のような観点、俯瞰で見ているような視点で、

感情に流されず、常識的に、理性的に物事を判断し、

自分にとっても相手にとっても正しい行動をとることが出来ます。

 

2019年12月、日本の医師である中村哲さんがアフガニスタンで亡くなりました。

彼はアフガニスタンの方たちの為、医療を初めとする様々な慈善活動を全うされました。

 

その中村さんの友人が語った、中村さんの考えは次のようなものだったそうです。

 

「彼は反権力じゃなかった。非権力だったんだ。

権力に反対する人たちは徒党を組んで、

”反権力という権力”をつくるんだ。彼は違った。

純粋に世界の困っている人を放って置けなかったんだ。

非権力だったんだよ。」

 

上記の考えは、不人情と非人情との違いと似ています。

 

「人情」の反対は「不人情」

「人情」に流されないのが「非人情」  

 

という事になるのではないでしょうか。

 

 

…青年画家はやがて、ミレーが描いたオフィーリアのような

絵を描きたいと思うようになります。

 

オフィーリアはシェイクスピアの戯曲「ハムレット」に

登場する女性です。

オフィーリアは悲劇の後、川で溺れて死んでしまうのですが、

その死の直前、何の苦しみの顔も浮かべず、自らの不幸を忘れ、

歌を歌い、上を向いている場面があり、

その場面の絵が、ミレーのオフィーリアの絵なのです。

 

画家である主人公は最高の美を表現すべく、

オフィーリアの顔を那美さんに替えて絵の着想を練りますが、

那美さんの顔に「憐れ」の表情が足りない事に気付きます。

 

最後の最後、豪快で何事にも物怖じしない、

気違いともいわれた那美さんの表情に「憐れ」が現れます。

 

そこで、「不人情」といわれた那美さんは

「人情」が残っている事が分かり、

「非人情」を貫いた青年画家の中で、美しい一枚の絵が完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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草枕3 シェリーの雲雀の詩

2021年01月10日 | 草枕

夏目漱石さんが書いた小説「草枕」には、

様々な芸術家の名前や言葉が出てきますが、その中に

イギリスの詩人シェリーの「雲雀」の詩が出てきます。

 

 

主人公の青年画家は人の世の住みにくさに疲れ、

山中の温泉宿に泊まり、自然に触れて、芸術について考えます。

温泉宿に向かう前に、山路を登っている途中で、

どこからともなく雲雀(ひばり)の声が聞こえてきます。

そして以下のように考えを巡らせます。

 

「春は眠くなる。猫はネズミを捕る事を忘れ、

人間は借金のある事を忘れる。

時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。

ただ菜の花を遠くに望んだときに目が醒める。

ひばりの声を聞いたときに魂のありかが判然する。

ひばりの鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。

魂の活動が声に現れたもののうちで、

あれほど元気のあるものはない。

ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。」

 

そして、その時シェリーの「雲雀」の詩を思い出して、暗唱します。

 

原文  「We look before and after
     And pine for what is not:
     Our sincerest laughter
     With some pain is fraught;
          Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」

 

日本語訳「ぼくたちは前を見たり、後ろを見たりして、

     自分に無いものにあこがれる。

     腹からの笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。

     美しき極みの歌に、悲しさの、極みの想い籠るとぞ知れ。」

 

ぼくたちは人間社会に生きている以上、人間関係はつきものです。

人と人とが関係を持つ時、学校や会社や社会公共の場で同じ空間にいる時、

ついつい自分と他人を見比べて、自分に持っていないような

容姿、健康、お金、物、才能、幸せなどを羨み、憧れ、時に不平不満を言います。

ことわざに言う、「隣の芝生は青い」という状態です。

 

子供の時は、大人は自由でいいと思い、

大人になってからは、仕事に疲れ、子供の時の方が

かえって良かったと思う人もいます。

 

自分には必ず自分より上の人がいて、自分より下の人がいます。

容姿、健康、才能、経済面のどの角度から見ても、相対的において

自分が人より上であったり、下であったりします。

 

しかし、自分と他人を比べてしまうと、

いつまでもあれが無い、これが欲しいと右往左往してしまいます。

 

仏教でいう煩悩がある状態とも言えます。

 

他人と比べず、自分は自分と受け入れ、その個性でもって

生きていきます。その自覚こそアイデンティティと言われるものです。

 

今でこそ、障がいのある方や、性的マイノリティの方、宗教、

人種、個性的な生き方を受容するような社会になりつつありますが、

まだまだマイノリティの方が生きづらい世の中であるのは否めません。

これが「ひばり」の詩の前半部分を表しています。

 

 詩の後半部分は、

「腹からの笑い」と「腹の中にある苦しみ」、

「美しき極みの歌」と「悲しみの極みの想い」、との対句になっています。

 

ぼくの自論で芸術とはバランスの要素が含まれている、と考えます。

腹から笑っている人がいたとしても、

その人は人には言えない苦しみを背負っているかもしれない。

 

また、苦しみがあるからこそ、少しの幸せにも感謝し喜べる事もあります。

 

人生が順風満帆で、何不自由無い、苦労を知らない人が

美しい曲を歌おうとしても、

悲しみ、苦しみを抱える人にも届く美しい曲は歌えないのではないでしょうか。

(幸せな、きれいな歌は歌えるかもしれませんが)

 

悲しみがあるから、喜びや、美しさが分かる。

影をしっているから、光が分かる。

苦労をしっているから、楽が分かるという事です。

 

その相反する二つのものが、作用して芸術は生まれます。

芸術は表裏一体であるとも言えます。

 

話は脱線しますが、

「美しい」という言葉の意味を「慈愛」という言葉に置き換えます。

 

「慈愛」はいかなる人に対しても、愛情をかけ、助けてあげる人です。

この「慈愛」は同情(シンパシー)が無いと、行う事が出来ません。

 

例えば、親が自分の子をかわいがる、障害者が同じ障害を持つ人にやさしくする、

自分と同じ苦しみを味わっている人の苦しみは、経験がある以上理解出来るのです。

 

言葉を換えれば、何にも不自由無く順風満帆の人は、挫折している人、

苦しんでいる人、悩んでいる人の気持ちが分からない事が多いのです。

 

「慈愛」は色で表すと、紫色になります。

紫色は赤色と青色が合わさった色です。

赤色は情熱、怒り、青色は冷静、哀しみ、で

この相反する二つのものが混ざると紫色の慈愛、美しさに変化します。

 

赤色は正義・行動、青色は我慢・思考という意味にも解釈出来、

それら二つの生き方(利己的)が合わさった時に

慈愛という別の生き方(利他的)が出来ます。

 

なので、この「ひばり」の詩の後半部分はこの、

芸術的考えを詩的に表したものだと考えます。

 

また、人間は生活に追われ、

何のために生きるのか自分は何者なのか

時に分からなくなります。

 

そこでひばりの声を聞いた時、ハッと思います。

ひばりは口で鳴いているのではない、魂全体が鳴いているのだと。

魂の歌を一心不乱に歌っているのが、ひばりなんだと気づきます。

 

何事にも、何者にもこころを乱されず、自然に、

喜びを表すように、かなしみを歌うように、

生きているという実感を表すように歌っています。

 

「草枕」の作中で、ウグイスが膨らむ咽喉の底を震わし、

小さき口の張り裂くるばかりに、

ほーう、ほけきょーう。ほー、ほけっー、きょうー

とつづけ様にさえずるのを聴いて、那美さんが主人公にこう言いました。

 

「あれが本当の歌です。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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