やさしい芸術論

冬が来たなら、春はそう遠くない

「マッチ売りの少女」における理想と現実

2021年01月30日 | アンデルセン

正しさや、幸せの判断はとても難しいです。

見方によって、答えが変わってくるからです。

 

物事の見方を3通りに分けてみます。

 

目に見える事で判断する見方と、

目に見えない事で判断する見方と、

目に見える事と目に見えない事の両方で判断する見方です。

 

現代社会は科学の進歩により物資文化が発展している事から、

目に見える事のみで判断する見方が多いような気もします。

例えば、収入や外見や学歴や人脈や地位などです。

 

その反対に、目に見えない事のみで判断する見方が良いかというと、

こちらも目に見えない以上、判断基準があいまいな所があり、

正しい判断を付けづらい点があります。

愛や優しさ(人のこころ)や、死後の世界などは身近な存在でありながら、

その実態はまだ科学的に解明されていないからです。

 

目に見える事と、目に見えない事の両方の視点から判断する見方が良いのですが、

人間の考え方はつい偏ってしまうものです。

 

アンデルセンの有名な童話「マッチ売りの少女」の話では、

どのような見方がされているでしょうか。

 

 

ある年の大晦日の日、雪が降って寒い通りを、

貧しい少女が裸足で歩いています。

周りの家という家からご馳走の美味しそうな匂いと、

暖かそうな部屋、楽しそうな会話が聞こえてきます。

少女はマッチを売らないと、自分の父親に殴られてしまうので、

マッチを売るまでは家に帰れません。

 

しかし、マッチは売れず、誰も少女の事を気に掛ける人はいませんでした。

寒さのあまり、少女はマッチに火を付けると、

その火の中にストーブやご馳走が見えました。

マッチに火を付ける度に色々な物が見えたのですが、

その中に既に亡くなっているおばあさんの姿がありました。

そのおばあさんはこの少女を唯一可愛がってくれたおばあさんです。

 

マッチの火が消えてしまうと同時におばあさんも消えてしまいます。

おばあさんの所へ行きたいと無我夢中ですべてのマッチに火を付けて、

火の中に現れたおばあさんを自分のそばに引き留めたかったのです。

 

「おばあさん!わたしも、一緒に連れていって!」

 

火の中のおばあさんは少女を腕に抱き、

二人は光と喜びに包まれながら、天国へ昇りました。

その次の日、町の人たちは通りで死んでいる少女の事を発見し、

「この子は温まろうとしたんだね。」と言いました。

そして、誰一人、この少女が光に包まれて、

おばあさんのいる天国に行った事は知りませんでした。という話です。

 

 

このマッチ売りの少女は

現実的に見たら、不しあわせな少女です。

理想的に見たら、しあわせな少女です。

 

目に見えるものしか分からないのが人間ですから、

町の人たちが、この少女が天国に行ったという事は知りません。

しかし、目に見えない事が分かったのなら、

天国に行ったのだから幸せだね、という事になります。

 

一説によれば、この話にはアンデルセンの母親が深く関係しています。

 

アンデルセンの母親が、まだ少女だった頃、

極貧のために、一人で町へ出されて物乞いをさせられていました。

しかし「どうかお恵みを」と言うことも出来ず、

黙って手を出すことも出来ないで、ただ橋の下で泣いていたそうです。

この母親は極貧の為に、読み書きは出来ませんでしたが、

とても働き者で、アンデルセンをとても可愛がり、

「おまえは王子様みたいに幸せなんだよ。」と言って育てました。

とても愛のある、やさしい人だったのです。

 

アンデルセンは素直で純粋な心の持ち主です。

アンデルセンのこころの中に、この母親のやさしさを忘れませんでした。

 

貧しくても、学問が出来なくても、

苦労を知って、人の苦しみが分かってあげられて、

人に優しい母親によって育てられたので、

この「マッチ売りの少女」の物語が書けたことと思います。

 

「マッチ売りの少女」がしあわせなのか、不しあわせなのかは分かりませんが、

物事の見方として、

目に見えない事もとても大事な判断基準だという事です。

 

アンデルセンの母親のように、

自分が苦労しても、それを人に圧しつけるような人にならず、

人にはやさしく出来るような人になりたいと思います。

先祖代々受け継いできた、負のスパイラルを自分で止めて、

次の世代には、明るくて、愛のある生き方をして欲しいなと思いました。

 

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「父母未生以前の本来の面目」とは何か

2021年01月29日 | 哲学

夏目漱石は27歳の頃、神経衰弱となり厭世的な考えを持つようになります。

そして鎌倉の円覚寺で参禅し、釈宗演老師より禅問答を受けます。

その時の公案はこのような問いでした。

 

「父母未生以前の本来の面目とは何か」

 

これは「自分の両親が生まれる前の、本当の自分とは一体何なのか」という問いです。

 

 

禅問答は修行僧が悟りを開くために、師匠から出される問答の事で、

決まった答えは無く、その問いを考えているうちに、

気付きを得たり、考え方が改まったりする為のものです。

ちなみにこの問いに、夏目漱石は老師に自分の答えを伝えるも、

「もっと、ぎろりとした所を持ってこなければ駄目だ」と言われ一蹴されてしまいます。

 

父と母から自分が生まれてきた以上、

父と母が生まれる前は当然自分も生まれていません。

その頃の自分とは何者なのか。

そもそも今の自分は何者なのか。

自分は誰なのか。

 

勿論、父と母から生まれ、名前もあって戸籍もあって、

学校や会社に属していますが、

本来自分とは何者なのかという事は分かりません。

自分で心臓を動かしてもいないし、この世界の事も本当は分かっていません。

どこから生まれてきて、死んだらどこへ向かうのか。

 

メアリー・シェリーの書いた「フランケンシュタイン」では、

次のようなやりとりがありました。

 

フランケンシュタイン博士は生命を生み出そうとして、

怪物をこの世に誕生させましたが、怪物の醜さに恐怖し見捨ててしまうのです。

怪物は孤独となりますが、人間と仲良くなりたいと考え、

言語を学び、人に親切な行動を取ります。

しかし皆、見た目が醜い怪物を恐れ、迫害を加え逃げてしまいます。

こころは優しいのですが、外見が醜いため誰も近づこうとしないのです。

怪物は絶望しますが、ある時、盲目の老人と出会います。

盲目の人なら、人を見た目で判断しないので仲良くなれると思ったのです。

盲目の老人と話をしている時、ふと、老人が怪物に質問します。

 

「あなたは誰ですか?」

 

怪物には両親もいなければ、名前もありません。

何のために生まれて、何をして生きるのか、皆目見当もつきません。

 

 

自分もそうですが、

「自分とは何か」という問いがあって初めて自分自身の事について考えて、

考えて初めて「自分とは何か」答えられない事を知ります。

 

この問は決まった答えが無く難しいのですが、

ここでアンデルセンの童話「モミの木」の話を用いて

この問いを考えてみようと思います。

 

ある時、小さなモミの木が森の中に立っていました。

モミの木は周りの木々や動物や新鮮な空気、日の光などを全く気にせず、

ただ「大きくなりたい」とその事に必死でした。

太陽に「あなたの若さを楽しみなさい」と言われても、

ただ大きくなる事だけを願っていました。

やっと大きな木に成長したモミの木は切り倒され、

ある家庭内のクリスマスツリーとして家の中に移動します。

その時モミの木は、

「やっと大きくなれた。これから毎日クリスマスツリーとして

みんなから愛されるだろうか」と思います。

しかし次の日には、物置小屋に移動させられます。

その時モミの木は「こんな暗い所に移動させられるなんて」

と残念がります。

日が過ぎて、やっと外に出してもらえた時、

またクリスマスツリーとして輝けると思いましたが、

中庭に横にされました。

そして、自分自身がひどく枯れてしまった事に気が付きます。

周りのきれいな花々を見て、「こんな事なら物置小屋の方がいい」と言います。

そうこしている内に、モミの木は切り刻まれ、

薪の束にさせられ、最後にはお酒をつくる窯の下で燃えて消えてしまいます。

 

小さな時は、大きくなる事を望み、

クリスマスツリーとなってからは、もっと愛されるように望み、

物置小屋に入れられたら、クリスマスツリーの時が良かったと思い、

中庭に出されたら、物置小屋が良かったと思い、

切り刻まれ薪になってからは、小さな頃が良かったと思います。

 

つまり常に不平不満や欲がある為に、

いつも「今」を楽しめないのです。

 

太陽が「あなたの若さを楽しみなさい」という言葉は

後になってから気付く訳です。

 

さて、神経衰弱で厭世気分になった夏目漱石に対し、

「父母未生以前の本来の面目とは何か」という問いが出されましたが、

両親が生まれる前には、喜びも悲しみもありません。

男でも女でもなく、お金もなく、体もなく、意志想念もありません。

 

その「ゼロ」であった夏目漱石は、この世にめでたく生誕し、

人生を歩み、悲喜交々あって、現在に至るのです。

 

生まれる前の「ゼロ」の時には、この世に生まれたいと願い、

この世に生まれたら、あれが無いこれが欲しい、

あれが嫌だ、これが苦しいといっています。

まるでアンデルセンの「モミの木」のようです。

 

人間は過去、未来は分かりません。

分からない様になっています。

 

だからこそ、「モミの木」の話のようにならないように、

「今」を受け入れ、楽しむ事が大切なのではないか、と

ぼくは思いました。

 

ガスヴァンサント監督の「マイプライベートアイダホ」で、

何もかも上手くいかない悲劇の主人公は、結局幸福は掴めませんでした。

 

映画の最後はこう締めくくられています。

 

「Have a nice day!」

「良い一日を!」

 

 

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ホロヴィッツの芸術性とピアノコンクールの空虚感

2021年01月26日 | クラシック

20世紀最高のピアニストと称される、ウラディミール・ホロヴィッツ。

 

ホロヴィッツの演奏する音楽は唯一無二の個性的な演奏であり、

その魅力的な演奏は、人のこころに響き、聴く人に感動を与えます。

 

 

例えば、ショパンの有名な曲を何十人の異なるピアニストが

演奏しても感動しないところ、

同じ曲をホロヴィッツが演奏すると感動します。

 

ショパンのピアノソナタ2番の3楽章「葬送行進曲」は

特に他のピアニストの演奏と一線を画します。

強弱法、感情の付け方、鐘のような響きのff、

前半部分と中間部との対比(明暗)の付け方、中間部の美しい歌い方など…

むしろ、他のピアニストの演奏では感動しないので、

この曲はホロヴィッツの演奏だけしか聴きません。

そういう曲が何曲もあります。

 

ホロヴィッツの音楽は、テクニックはあるのですが、ミスタッチがあり、

現代ピアニストはノーミスで同じ曲を演奏出来ます。

ホロヴィッツは、楽譜通りに弾かない事が多く、

現代ピアニストは楽譜に忠実に弾くことが出来ます。

ホロヴィッツは極度のあがり症で、神経質なところがあり、

演奏の出来が良かったり、悪かったりしますが、

現代ピアニストは、安定して、いつでも上手に弾くことが出来ます。

 

しかし、現代ピアニストの演奏は感動しません。飽きてしまいます。

ホロヴィッツの演奏は感動します。長年聴き続けても飽きません。

 

これは何故か?

 

ピアノコンクールを例に出して考えてみます。

ピアノコンクールはピアノ音楽を採点し、順位付けして、

1位、2位…最下位までを決めます。

その基準は、テクニック、音楽性、楽譜に忠実であるか、演奏態度などで、

コンクールの上位入賞者は皆、ノーミスで難曲を弾きこなし、

度胸があって大舞台でも緊張せず、

まるで人形のように舞台での振る舞いも100点の振る舞いが出来ます。

 

このピアノコンクールにはぼくは昔から懐疑的な見方をしていて、

世界の音楽家の多くも、この「音楽のコンクール」に対し批判的な見方をしています。

 

というのも、ピアノコンクールに行かれた方は分かりますが、

演奏者は全員同じ課題曲を弾く事がありますが、

どこか空しいつまらない演奏で、

全員同じ演奏にしか聴こえないのです。

 

有名な話ですが、コンクール上で審査員が演奏者名を伏せて、

演奏してる姿を見ないようにして、演奏だけ聴いていて審査すると、

みんな同じ演奏にしか聴こえないので審査出来なかった、という事があったそうです。

 

つまり、コンクールはピアノを楽譜通り上手に弾ける人を量産する代わりに、

音楽の本質である、感動、個性的な解釈、音楽の喜びと乖離してしまっているのです。

 

 

ここでホロヴィッツの事に話を戻すと、

ホロヴィッツはピアノコンクールに出たとしたら、

調子が悪かったらおそらく予選も通過しません。

なぜなら、楽譜通りに弾かず、ミスタッチがあり、緊張しいだからです。

 

でも、音楽の素晴らしさ、芸術性、人に感動を与えるという点においては、

ピアノコンクールの入賞者の演奏はホロヴィッツの音楽に足元にも及ばない事になります。

 

要するに、音楽とは、芸術とは、美とは、テクニックではないのです。

 

芸術とは「こころ」です。

美しい、やさしい、愛がある、そういう美的なこころが、ピアノを介して、

音楽に乗せて聴衆の耳に届き、聴衆のこころに届いて響くのです。

 

こころで作曲して、こころで演奏して、こころで聴くのが音楽です。芸術です。

 

ピアノコンクールの演奏者に「こころ」が無いとは言いませんが、

少なくても、テクニックや楽譜通りである事、テンポを重視して、

自分の美的な「こころ」は二の次三の次になっていると思います。

 

もっと詳しく説明すると、芸術とは3つの要素で成り立っており、

それはバランス、シンパシー、スピリチュアリティです。

 

バランスは相反する二つのものが表裏一体に存在しているという事で、

音楽であれば、強弱、長調単調、音の長さ短さ、単音和音、感情的機械的、

テンポルバート・インテンポ、拍子の変化などさまざな対比により構成されています。

 

スピリチュアリティは先程言った「こころ」の部分です。

ここが非常に重要で、演奏者の「こころ」と聴き手の「こころ」が共感・共鳴し、

「こころ」がつながって感動するのです。

つまり演奏者の「こころ」の点と、聴き手の「こころ」の点が、

点と点で結ぶ役割がシンパシー(共感・共鳴)で、シンパシー無くしては人は決して感動しません。

 

例えば、失恋経験の無い人が、失恋ソングを聴いても響きません。

初めて失恋を経験し、その人のこころに失恋の悲しみが加わると、

その人は失恋ソングを聴くと感動するようになります。

この場合、この人の「失恋の悲しみのこころ」と失恋ソングの歌詞に込められている「失恋の悲しみのこころ」が、

点と点で結ばれて感動するという事になります。

 

以上によって、

ピアノコンクールでの演奏を目に見えない「こころ」の視点で見た時に、

「空虚なこころ」もしくは「無機質なこころ」、もしくは「こころ」が無い為に、

シンパシーが起きず、起きても良い感動にはつながらず、結果として、

つまらない演奏、飽きる演奏、空虚な芸術という事になります。

 

ピアノコンクールは音楽を追求するあまり、

テクニック的な、楽譜通りの完璧さを求め、

音楽の芸術性、意義を破綻させてしまったのです。

 

もし、ピアノコンクールの音楽が素晴らしいとするならば、

AIが作曲して、機械の自動演奏すれば事足りるわけです。

 

また、芸術は往々にして、金儲けの為の商業的目的で利用したり、

社会や人に対する鬱憤を晴らすはけ口にしたり、

単に個性的、唯一無二であればいいという自己顕示欲的な作品を作ったりと、

芸術本来の意義、在り方と異なる目的で使用されることがあり、

その為、それらのエセ芸術を見た人たちは芸術に対し、失望し、偏見を持ち、敬遠するようになります。

 

芸術の使命は、こころの救いです。

 

現在は科学の進歩によって、物質的には豊かになりましたが、

こころの面においては、自殺者やうつ病の人がたくさんいる現状から見て芳しくありません。

 

一流の芸術家の高い精神性、霊性、愛や優しさや慈しみを備えたこころが、

その作品を通して、ぼくたちのこころに届いて感動し、

精神的にも、霊的にも、人格的にも向上出来るのです。

 

つまり、一流の芸術家の「美」の力で、

今のこころが貧困な現代人を救う事にもつながります。

 

天国は芸術の世界です。

芸術を通して、美を知り、美を求め、美に感化され、

身もこころも美的な人間に少しでも近づきたいと、ぼくは思います。

 

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絵のない絵本

2021年01月24日 | アンデルセン

現代社会では頭を柔らかくする必要があるように思います。

 

有名な「千夜一夜物語」の内容は、大雑把に言うと、

人間不信に陥った王に対し、たくさんの話を知っている娘が一日毎に物語を話します。

それが千夜一夜繰り返されて、王は話に夢中になり、冷静になって、正気を取り戻します。

 

この話と似ている点がある本が、アンデルセンが書いた小説「絵のない絵本」です。

 

 

この本の主人公は、孤独な貧しい青年です。

その青年に対し、毎晩月が物語を話して聞かせます。

月が言います。

 

「私の話すことを、そのまま書いてごらん、きっと美しい絵本が出来るよ。」

 

絵にすると千夜一夜物語のような話になるのですが、ごく簡単に、

即興的に、月からの33個の話を並べたのがこの「絵のない絵本」の内容になります。

 

頭が堅い人は、月が話す訳がないといい、33個の短い話も無意味に思えるかもしれません。

 

しかし、千夜一夜物語の王様のように、何が正しいのか分からなくなった時には、

頭を柔らかくして、自分の直感に素直に従う事も大切なのです。

 

現代社会は、お金が無いと生きていけません。

ほとんどの場合、お金は会社に勤めないと得られません。

その勤め先は都会や地方のビルの中が多く、

エアコンによって気温は制御され、利便性を追求し、

人は合理的な行動をとります。

つまり、頭で物を考えて生きているのです。

 

しかし、そのような現代において、病気が増え、子供が減り、

ストレスが増え、将来への希望があまり感じられない現状になっています。

過労死という言葉は世界中で日本しか無いそうですが、

過労死まで行かなくても、心身共にストレスを感じながら、

これが現代の当たり前なんだと自分を納得させて出勤する方がいます。

 

養老孟子さんはこのような現代人に対し、「森に行くこと」を勧めます。

つまり自然を知り、自然に寄り添うという事です。

 

合理的に頭で考えて行動していても、自分のバランスが崩れている事に

気が付かない場合があります。

バランスが崩れていても、無理に生活を維持しようとすると、

医者が薬を処方します。

薬を飲むと依存になったり、体がますます弱くなったり、

体の悲鳴のサインを打ち消してしまう事にもなります。

体が悲鳴を無視して、子供も作らず、辛い人が多い世の中になると、

次世代が育ちません。自殺者も絶えません。

つまり、社会の常識や社会の仕組みそのものが破綻しているとも言えます。

 

ですので、あまり頭だけで考えすぎず、自然に寄り添う時間を作り、

心身共になるべくストレスが無いような生き方を模索するべきです。

 

自然とは「頭で考えても分からない事」です。

予測不能な、コントロールの出来ないものです。

 

 

例えば、世の中にファイナンシャルプランナーという仕事があります。

顧客の収支・負債・家族構成・資産状況などの情報提供を受け、

それを基に住居・教育・老後など将来の人生設計に合った資金計画やアドバイスを行う人の事です。

 

これなどは、現代社会、つまり人工の考え方の典型で、

毎月の生活を頭で考えて、お金の計算や家族構成などの将来設計を立てますが、

そもそも人生は、頭で考えて分かるものでは無いんです。

 

明日、事故にあうかもしれない。

明後日、病気にかかるかもしれない。

明明後日、両親が離婚するかもしれない。

さらに、リストラや死の問題もいつ起きてもおかしくありません。

 

何がいつ起きるかも分からないのが自然であり、当たり前なのですが、

ファイナンシャルプランナーは頭で考えて最善の生き方のアドバイスをします。

現代人的発想とも言えます。

 

それを鵜呑みにして生きていくとなると、

自分自身の本心はどこにも存在しなくなります。

 

社会の駒となって、人生ゲームのように、不本意な毎日が連続しても、

途中で引き返す事が出来なくなるかもしれません。

 

以上の考えは多少、偏った見方ですが、

社会の落伍者も相当数いる現状から見て、あながち間違いでは無いと思います。

 

常識に囚われず、頭を柔らかくして、

「絵のない絵本」っておかしなタイトルだと思わず、

子供のこころのように、無邪気に、

あるがままを受け入れるこころが大切です。

 

王が人間不信になりながら、それでも毎晩の話に耳を傾けたように、

一般常識や、大勢の人と違う生き方を選択する事になる場合でも、

自分のこころや、体のサインに耳を傾けて、

その人に合った生き方が出来たらいいな、と思います。

 

それが自然です。

 

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自分で立ち止まって、自分で休む

2021年01月20日 | つぶやき

以前、京都の大徳寺へ行った時の事、

廊下を歩いていると頭上の漢字二文字が目に入りました。

 

「自休」

 

自休(じきゅう)、と一言。

説明によると、次のような意味だったと思います。

 

誰に言われなくても

自分で立ち止まって休み

自分の足もとを見つめて

考えを改める時間を意識的に持とう

 

今は大変な時期、

生活に追われ、冬の風にあおられ、

朝が来ると眠たい顔のまま、会社へ向かいます。

 

一日なんてあっという間に過ぎて、

一年が何回通り過ぎていったのか……

 

自分で意識して、

自分自身を客観的に見つめなおして、

こころを整え直す事は現代社会人にとっては特に大切です。

 

戦国時代の偉人、千利休さんのゆかりの深い大徳寺で、

京都人の洗練された美学を学べた気がします。

 

「時代に流されないように」

 

というメッセージでしょうか。

 

枯山水のような静かな空間で、

季節とともに移ろってゆく時間を感じていたい。

 

ぼくはぼくのままで、あなたはあなたのままで…

 

 

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コンプレックスを忘れる瞬間

2021年01月19日 | やなせたかし

人は誰しもコンプレックスを持っています。

 

他人から見るとたいした事ないような事でも、

本人にとっては、デリケートな問題なんです。

 

そんなこころが、ふっと軽くなって、

忘れてしまうような瞬間があったらいいですね。

 

やなせたかしさんが書かれたお話「クシャラ姫」

そんなコンプレックスに関する内容です。

 

 

ある国のお姫様、クシャラ姫は鼻が低いことがコンプレックスです。

ある日、クシャラ姫は家来達が陰で「クシャラ姫の鼻は低い」という話を耳にして、

ショックを受けます。

 

それからというもの、ボール紙で作った三角形の鼻を、

自分の鼻の上に乗せて生活していました。

 

コンプレックスを隠そうと、ボール紙を乗せたのですが、

それを見た人は、クスクス笑ったので、

だんだん人の前に姿を現すのが嫌になって森へ行きました。

 

 

森へ行って動物たちと楽しく遊んでいると、

恐ろしい黒い竜が姿を現しました。

 

クシャラ姫は、恐ろしいと思いつつも、

ある事が気になって、話しかけました。

 

 

クシャラ姫「なぜ、そんなにかなしそうな目をしているの?」

竜    「ぼくはこんな酷いかたちなのに怖くないんですか?」

クシャラ姫「怖くないわ。だってあなたはとてもかなしそうなんだもの。」

 

やさしいクシャラ姫はハンカチを出して、

竜の目に溜まっている涙を拭いてあげました。

 

すると竜は、ひとりの美しい王子の姿に変わりました。

 

「ありがとう。

 ぼくは悪い魔法使いから、竜の姿に変えられ、

 ぼくの涙を拭いてくれる人が現れるまで魔法は解けないところだった。

 色々な人に頼んだけど、誰もぼくのかなしみには気が付かなかったよ。」

 

こんなおとぎ話のような事が、目の前で起きたので、

クシャラ姫は、うれしくなって、鼻の上のボール紙を外しました。

竜の姿に何年も変えられていた王子のかなしみに比べれば、

鼻の低さなんて気にならなくなったのです。

 

「鼻の低いのなんて何でもない。

 大切なのは人のかなしみが分かるこころを

 持っているかどうかだ。

 あなたはぼくのかなしみを分かってくれた

 この世でたった一人のひとだもの。」

 

そう言って王子は、クシャラ姫と結婚し、

幸せに暮らしました。

 

 

コンプレックスは確かに辛いものですが、

その辛さが気にならなくなるほどの瞬間が、

いつかやってくるといいですね。

 

その瞬間まで楽しく暮らしましょう。

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「開運!何でも鑑定団」による知見

2021年01月18日 | 日本美術

以前、テレビ番組の「開運!何でも鑑定団」をたまたま見ていたところ、

ある青年が石を鑑定してもらっていました。

 

その石は「菊花石」(キッカセキ)と呼ばれる石で、

石の中に自然に出来た菊の模様が美しい石との事で初めて知りました。

 

 

また別の日にたまたま同番組を観ていると、

板谷波山さんという日本の陶芸家の作品が出てきました。

 

ぼくは全く陶芸に疎く、あまり興味が無かったのですが、

その淡い色彩の奥床しい美を感じる作品に、

初めて陶芸で感動しました。

 

 

この板谷波山さんは、とても人柄がよい人物で、

日中戦争が起こり、町に戦死者が出てくると、遺族のお宅へ行き、

自作の観音像を故人の名前を入れて贈っていたそうです。

 

 

また故郷の町の80歳以上の高齢者を労り、

鳩杖を製作し、一軒一軒手渡しで渡したとのことです。

 

優れた芸術作品には、技術や努力もさることながら、

目に見えないこころがとても大事なんだなと勝手に納得しました。

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「吾輩は猫である」は未来予言書である

2021年01月17日 | 夏目漱石

先日、少しづつ読み進めていた

夏目漱石さんの小説「吾輩は猫である」を読み終えました。

 

元千円札の肖像画の人物であり、その人物の代表的作品なので、

知らない人はいない程有名な作品ですが、

ぼく自身、なんとなくの内容は知っているけども、

読み切った事はなかったので、読むことにしました。

 

 

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。

 何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

 吾輩はここで始めて人間というものを見た。」

 

という有名な冒頭部分から出発して、

主人公の猫による人間観察、人間描写が繰り返されます。

呑気な、くだらない、どうでもいいような、他愛もない

会話、出来事が次々と、延々と続きます。

 

個人的に夏目漱石さんの中では「草枕」が

お気に入りなので、正直退屈だなと感じつつ、

最後の方まで来ていたのでそのまま読み進めると、

444ぺージ目にきて、

とんでもない展開が待っていました。

 

主人公の猫を飼っている、中学教師の苦沙弥先生が、

それまでの呑気な、のどかな、コメディのような日常と一変して、

現代と未来に続く、社会の闇、社会の問題点を語り始めます。

 

「現代人の自覚心は自分と他人の間に利害のがある事を知り過ぎている。

 この自覚心は文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、

 しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。

 この点において現代の人は探偵的である。泥棒的である。

 探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、

 自覚心が強くならなくては出来ん。

 今の人はどうしたられの利になるか、損になるかと寝てもめても考えつづけだから、

 探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。

 二六時中キョトキョト、コソコソして墓にるまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。

 文明の呪いだ。馬鹿馬鹿しい」

 

そして人の死の問題についても触れていきます。

人類は死について研究の結果、

色々な案が出て、色々な死に方が生まれる。

人の死は自殺が主流となって、

自殺者はそれぞれの独創的な方法でこの世を去るに違いない、と語ります。

 

その次は非結婚論を唱えます。

 

「結婚が不可能になる。

 今の世は個性中心の世である。

 一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、

 代表者以外の人間には人格はまるでなかった。

 それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、

 だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。

 それだけ個人が強くなった。

 こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。

 苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。

 文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから

 両者の安全を保持するためには別居しなければならない。

 親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、最後の方案として夫婦が分れる事になる。」

 

以上の考えは現代社会をよく予言していると思います。

 

現代人は「個人」が強くなり、近所付き合いも薄くなり、

インターネットやSNSで、有益な情報を得て、

他人に興味が無く、自分がどうやったら得するのか、利になるのか、

エゴイスティックな損得勘定ばかりの人間になりがちです。

 

自殺が主流になるという点においても、

いじめや、過労死や、うつ病の人が増え続け、

毎年当たり前のように自殺者が3万人程出ています。

 

また、文明が進むほど、わがままな人間が出来て、

結婚してもすぐ離婚したり、子供を粗末にあつかったり、

親子、夫婦、友達、会社の同僚、近所付き合いに至るまで、

無関心、邪険のドライな関係性が増えていますので、

非結婚論もあながち当たっている気もします。

 

そして人間達の話を聞き終えた「猫」は

 

「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」

 

といい、酒に酔い、甕(かめ)の中の水たまりに落ち、

溺れてしまい、もがけどもがけど助かりません。

死の直前で、もがいても無駄だと思います。

そして、死を受け入れて、猫はこう悟ります。

 

「吾輩は死ぬ。

 死んでこの太平を得る。

 太平は死ななければ得られぬ。

 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

 ありがたいありがたい。」

 

 

呑気でくだらない日常を描いたいままでの話の筋から、

最終的には厭世観漂う、

シリアスでダークな結末で締めくくられました。

 

この最後の主張は、現代社会の流れを

社会風刺的に問題提起しているのではないでしょうか。

 

実は深い話であったと、初めて知りました。

 

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人生はたからもの

2021年01月16日 | 映画

イタリア人のロベルト・ベニーニ監督が脚本・主演されている

映画「ライフ・イズ・ビューティフル」は

第51回カンヌ国際映画祭で「審査員グランプリ」を受賞されました。

 

 

物語は第二次世界大戦中で、ユダヤ人迫害が描かれています。

ユダヤ人の主人公は、捕まり、強制収容所へ連行されます。

 

家族3人が戦争の悲劇による大混乱の中、

主人公は冗談を言い、明るく振舞って、

息子を悲しませないよう努めます

 

そんな時、強制収容所内で偶然、

オッフェンバックの「ホフマンの舟歌」のレコードを見つけ、

外に向けて、大音量で流します。

 

その曲は、戦争が起こる前の主人公と妻との思い出の曲で、

まだ戦争の悲劇の無い、美しい、恋の夜のあの日が、

曲とともに沁みついていて、

まるで昨日のように思い出されるのです。

 

戦争という悲しみと、美しい恋の喜びが、

見事なバランス、調和を保って、

二度と戻る事の出来ないあの日が

よりいっそう美化されて、人生の儚さを感じます。

 

「ホフマンの舟歌」

 

美しい夜 恋の夜

陶酔するぼくたちに笑いかけておくれ

 

昼よりも甘美な夜 美しい恋の夜

時は去り 二度と戻らない

 

ぼくたちの楽しかった会話を連れて

時はこの至福の場を去って

二度と戻ってこない

 

美しい恋の夜よ

陶酔するぼくたちに笑いかけておくれ

 

 

最後、主人公はドイツ兵に見つかり、銃を突き付けられ連行される所を、

偶然息子に見られてしまいます。

 

主人公は自分が殺される運命を悟りながら、

息子が悲しまないように、コメディのようなふざけた歩き方をして、

息子に「これは全て冗談なんだよ。夢なんだよ。」

と言わんばかりの笑顔を見せます。

その後、主人公は息子の見えないところで、銃で撃たれて死んでしまいました。

 

人生とは過ぎてしまえば、あっというものかも知れませんが、

何でもない一日一日が実はとても大切な

かけがえのない一日なのです。

 

 

この映画のパンフレットに、

この映画のキャッチコピーがこう書いてありました。

 

「人生は たからもの」

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頭の中にある理想の家族愛

2021年01月16日 | 映画

ぼくが好きな映画監督ガス・ヴァン・サントさんが監督・脚本された

映画「マイプライベートアイダホ」。

 

この映画に、リバー・フェニックスとキアヌ・リーヴスという

名俳優二人が出演しており、映画の内容が同性愛について触れていたりして、

そちらの部分に注目が集まり、なかなか正当な評価をされていない気がします。

 

物語は主人公のリバー・フェニックス演じるマイクが

ナルコレプシー(発作的睡眠障害)である事に触れる所から始まります。

 

 

この映画は3つのパートに分ける事が出来ます。

 

1、オープニング(約5分)

2、本編(約90分)

3、エンディング(約5分)

 

そして最も大事なのは、1、のオープニングです。

ぼくが観た全ての映画の中で、一番良かったオープニングです。

 

オープニングで、主人公マイクは果てしなく続く道の真ん中に一人で立っています。

そして、ナルコレプシーの症状によって、突然深い眠りにつきます。

 

そして、夢の世界に行き、母親のひざに頭を置いて寝ています。

母親は息子マイクにこう言葉をかけてあげます。

 

「大丈夫。

 何にも心配いらないわ。

 すべてうまくいくから。

 分かってるわ。もう大丈夫。

 すまないなんて思わなくていいのよ。

 分かってるわ。」

 

 

主人公のマイクは、ナルコレプシーであり、孤児であり、

買春によって生計をたて、ドラッグを吸って気持ちを落ち着けます。

実の兄と母親との子供が主人公自身であったのです。

そして、どこにもいない母親を世界中探してまわります。

 

現代社会の闇が生み落としたような、悲劇の青年マイク。

刹那的に一日を過ごし、鬱々としながらも、

こころの中にはいつも母親の存在がありました。

 

オープニングのシーンのように

頭の中の理想の母親は、マイクにやさしい言葉をかけてくれます。

マイクのこころの支えは、現実社会には存在していませんでしたので、

存在していない理想の母親をずっと求め続けます。

 

ジョン・レノンや、フレディ・マーキュリーなども同様に

こころの中で母親を求め、ジョンレノンは「マザー」という曲で、

フレディは「ボヘミアンラプソディー」で母親に対する思いを歌っています。

 

世知辛いこの世の中において、

悲しみや苦しみがあふれ、何が正しいのか分からない世界において、

本能的に、希望の光のような「家族愛」を求めるのです。

 

この映画では、主人公の可哀想なシーンがたくさん描かれていますが、

だからこそ、家族愛、母親の愛が相対的にとても大事なものに映ります。

 

映画の最後は、この言葉で締めくくられます。

 

「Have a nice day」

「良い一日を」

 

 

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