やさしい芸術論

冬が来たなら、春はそう遠くない

苦労と不足のない男

2024年03月08日 | アンデルセン

デンマークの童話作家アンデルセンはいくつもの童話を創作しました。

 

「みにくいアヒルの子」や「マッチ売りの少女」などが有名ですが、

「かたわもの」という童話もあります。

 

「かたわもの」の話は、幸せとは何だろうかと

改めて考える良い作品です。

 

お金持ちで幸せな夫婦の元に、庭師として働く貧しい夫婦がいました。

その夫婦には5人の子どもがいて、そのうち1人は足が不自由な子どもでした。

(かたわ というのは身体障害者を指します)

 

庭師として働く貧しい夫婦は、

仕事が大変である事や、

お金持ちがいる世の中でどうして自分達は貧しいのだろうと

いつも不平不満を言っていました。

 

足の不自由な子どもはハンスという名で、

ハンスは親が不平不満を言うと、

童話の話を聞かせてあげて、

不平不満なこころを慰めてあげていました。

 

ある時、貧しい夫婦が、人間の中で運のいい人と悪い人とは

自然に分けられてしまうものだ、と不満を言うと、

ハンスは「苦労と不足のない男」の物語を聞かせてあげます。

 

「苦労と不足のない男」の話の内容は、

登場人物の誰もが不平を言い、不満を思い、不幸せと悲観している中で、

物語の最後に、シャツも持っていない豚飼いの男が現れ、

 

「自分は一番幸福な人間だ」

 

と言います。

この話を聞いた両親はこころから笑ったという事です。

 

 

 

自分は幸せなのか、不幸なのか。

幸せとは何なのか。

 

不幸せと思ったら、「苦労と不足のない男」の登場人物のように、

何でも不幸せに思え、

幸せと思ったら、シャツのない豚飼いのような男でも、

何でも幸せに思えるのかも知れません。

 

幸せについて、アンパンマンの作者やなせたかしさんの言葉があります。

 

「幸せの中にいる時は“幸せ”は分かりません。

 不幸せになった時、

 ”幸せだった”と分かるもんなんです。」

 

自分が恵まれた環境にいる時や、順風満帆な時は、

当たり前の事に感謝が出来ません。

しかし当たり前の目が見えたり、ご飯が食べられたり、

歩ける事はありがたい事です。

 

怪我したり、不幸せになった時、

以前の当たり前だと思っていた状況は

当たり前では無かったとその時初めて気付きます。

 

人の欲にはキリがありません。

他人と比べたら、どこかは必ず、

自分の方が苦労していたり、不足を発見してしまうかもしれません。

 

しかし、「苦労と不足のない男」の中の、

幸せな豚飼いのように、他人と比べずに、

一番の幸福者だと思って今ある状況に感謝して生きられれば、

それが幸福な人生なのかもしれません。

 

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「マッチ売りの少女」における理想と現実

2021年01月30日 | アンデルセン

正しさや、幸せの判断はとても難しいです。

見方によって、答えが変わってくるからです。

 

物事の見方を3通りに分けてみます。

 

目に見える事で判断する見方と、

目に見えない事で判断する見方と、

目に見える事と目に見えない事の両方で判断する見方です。

 

現代社会は科学の進歩により物資文化が発展している事から、

目に見える事のみで判断する見方が多いような気もします。

例えば、収入や外見や学歴や人脈や地位などです。

 

その反対に、目に見えない事のみで判断する見方が良いかというと、

こちらも目に見えない以上、判断基準があいまいな所があり、

正しい判断を付けづらい点があります。

愛や優しさ(人のこころ)や、死後の世界などは身近な存在でありながら、

その実態はまだ科学的に解明されていないからです。

 

目に見える事と、目に見えない事の両方の視点から判断する見方が良いのですが、

人間の考え方はつい偏ってしまうものです。

 

アンデルセンの有名な童話「マッチ売りの少女」の話では、

どのような見方がされているでしょうか。

 

 

ある年の大晦日の日、雪が降って寒い通りを、

貧しい少女が裸足で歩いています。

周りの家という家からご馳走の美味しそうな匂いと、

暖かそうな部屋、楽しそうな会話が聞こえてきます。

少女はマッチを売らないと、自分の父親に殴られてしまうので、

マッチを売るまでは家に帰れません。

 

しかし、マッチは売れず、誰も少女の事を気に掛ける人はいませんでした。

寒さのあまり、少女はマッチに火を付けると、

その火の中にストーブやご馳走が見えました。

マッチに火を付ける度に色々な物が見えたのですが、

その中に既に亡くなっているおばあさんの姿がありました。

そのおばあさんはこの少女を唯一可愛がってくれたおばあさんです。

 

マッチの火が消えてしまうと同時におばあさんも消えてしまいます。

おばあさんの所へ行きたいと無我夢中ですべてのマッチに火を付けて、

火の中に現れたおばあさんを自分のそばに引き留めたかったのです。

 

「おばあさん!わたしも、一緒に連れていって!」

 

火の中のおばあさんは少女を腕に抱き、

二人は光と喜びに包まれながら、天国へ昇りました。

その次の日、町の人たちは通りで死んでいる少女の事を発見し、

「この子は温まろうとしたんだね。」と言いました。

そして、誰一人、この少女が光に包まれて、

おばあさんのいる天国に行った事は知りませんでした。という話です。

 

 

このマッチ売りの少女は

現実的に見たら、不しあわせな少女です。

理想的に見たら、しあわせな少女です。

 

目に見えるものしか分からないのが人間ですから、

町の人たちが、この少女が天国に行ったという事は知りません。

しかし、目に見えない事が分かったのなら、

天国に行ったのだから幸せだね、という事になります。

 

一説によれば、この話にはアンデルセンの母親が深く関係しています。

 

アンデルセンの母親が、まだ少女だった頃、

極貧のために、一人で町へ出されて物乞いをさせられていました。

しかし「どうかお恵みを」と言うことも出来ず、

黙って手を出すことも出来ないで、ただ橋の下で泣いていたそうです。

この母親は極貧の為に、読み書きは出来ませんでしたが、

とても働き者で、アンデルセンをとても可愛がり、

「おまえは王子様みたいに幸せなんだよ。」と言って育てました。

とても愛のある、やさしい人だったのです。

 

アンデルセンは素直で純粋な心の持ち主です。

アンデルセンのこころの中に、この母親のやさしさを忘れませんでした。

 

貧しくても、学問が出来なくても、

苦労を知って、人の苦しみが分かってあげられて、

人に優しい母親によって育てられたので、

この「マッチ売りの少女」の物語が書けたことと思います。

 

「マッチ売りの少女」がしあわせなのか、不しあわせなのかは分かりませんが、

物事の見方として、

目に見えない事もとても大事な判断基準だという事です。

 

アンデルセンの母親のように、

自分が苦労しても、それを人に圧しつけるような人にならず、

人にはやさしく出来るような人になりたいと思います。

先祖代々受け継いできた、負のスパイラルを自分で止めて、

次の世代には、明るくて、愛のある生き方をして欲しいなと思いました。

 

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絵のない絵本

2021年01月24日 | アンデルセン

現代社会では頭を柔らかくする必要があるように思います。

 

有名な「千夜一夜物語」の内容は、大雑把に言うと、

人間不信に陥った王に対し、たくさんの話を知っている娘が一日毎に物語を話します。

それが千夜一夜繰り返されて、王は話に夢中になり、冷静になって、正気を取り戻します。

 

この話と似ている点がある本が、アンデルセンが書いた小説「絵のない絵本」です。

 

 

この本の主人公は、孤独な貧しい青年です。

その青年に対し、毎晩月が物語を話して聞かせます。

月が言います。

 

「私の話すことを、そのまま書いてごらん、きっと美しい絵本が出来るよ。」

 

絵にすると千夜一夜物語のような話になるのですが、ごく簡単に、

即興的に、月からの33個の話を並べたのがこの「絵のない絵本」の内容になります。

 

頭が堅い人は、月が話す訳がないといい、33個の短い話も無意味に思えるかもしれません。

 

しかし、千夜一夜物語の王様のように、何が正しいのか分からなくなった時には、

頭を柔らかくして、自分の直感に素直に従う事も大切なのです。

 

現代社会は、お金が無いと生きていけません。

ほとんどの場合、お金は会社に勤めないと得られません。

その勤め先は都会や地方のビルの中が多く、

エアコンによって気温は制御され、利便性を追求し、

人は合理的な行動をとります。

つまり、頭で物を考えて生きているのです。

 

しかし、そのような現代において、病気が増え、子供が減り、

ストレスが増え、将来への希望があまり感じられない現状になっています。

過労死という言葉は世界中で日本しか無いそうですが、

過労死まで行かなくても、心身共にストレスを感じながら、

これが現代の当たり前なんだと自分を納得させて出勤する方がいます。

 

養老孟子さんはこのような現代人に対し、「森に行くこと」を勧めます。

つまり自然を知り、自然に寄り添うという事です。

 

合理的に頭で考えて行動していても、自分のバランスが崩れている事に

気が付かない場合があります。

バランスが崩れていても、無理に生活を維持しようとすると、

医者が薬を処方します。

薬を飲むと依存になったり、体がますます弱くなったり、

体の悲鳴のサインを打ち消してしまう事にもなります。

体が悲鳴を無視して、子供も作らず、辛い人が多い世の中になると、

次世代が育ちません。自殺者も絶えません。

つまり、社会の常識や社会の仕組みそのものが破綻しているとも言えます。

 

ですので、あまり頭だけで考えすぎず、自然に寄り添う時間を作り、

心身共になるべくストレスが無いような生き方を模索するべきです。

 

自然とは「頭で考えても分からない事」です。

予測不能な、コントロールの出来ないものです。

 

 

例えば、世の中にファイナンシャルプランナーという仕事があります。

顧客の収支・負債・家族構成・資産状況などの情報提供を受け、

それを基に住居・教育・老後など将来の人生設計に合った資金計画やアドバイスを行う人の事です。

 

これなどは、現代社会、つまり人工の考え方の典型で、

毎月の生活を頭で考えて、お金の計算や家族構成などの将来設計を立てますが、

そもそも人生は、頭で考えて分かるものでは無いんです。

 

明日、事故にあうかもしれない。

明後日、病気にかかるかもしれない。

明明後日、両親が離婚するかもしれない。

さらに、リストラや死の問題もいつ起きてもおかしくありません。

 

何がいつ起きるかも分からないのが自然であり、当たり前なのですが、

ファイナンシャルプランナーは頭で考えて最善の生き方のアドバイスをします。

現代人的発想とも言えます。

 

それを鵜呑みにして生きていくとなると、

自分自身の本心はどこにも存在しなくなります。

 

社会の駒となって、人生ゲームのように、不本意な毎日が連続しても、

途中で引き返す事が出来なくなるかもしれません。

 

以上の考えは多少、偏った見方ですが、

社会の落伍者も相当数いる現状から見て、あながち間違いでは無いと思います。

 

常識に囚われず、頭を柔らかくして、

「絵のない絵本」っておかしなタイトルだと思わず、

子供のこころのように、無邪気に、

あるがままを受け入れるこころが大切です。

 

王が人間不信になりながら、それでも毎晩の話に耳を傾けたように、

一般常識や、大勢の人と違う生き方を選択する事になる場合でも、

自分のこころや、体のサインに耳を傾けて、

その人に合った生き方が出来たらいいな、と思います。

 

それが自然です。

 

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即興詩人のような生き方

2021年01月15日 | アンデルセン

デンマークの童話作家・詩人の

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは良い作品をたくさん書きました。

 

アンデルセンは「みにくいアヒルの子」や「マッチ売りの少女」などの

有名な童話を書いた事で有名です。

 

アンデルセンの人生は、

アンデルセンが出した自伝の最初の二行に集約されています。

 

「私の生涯は波乱に富んだ幸福な一生であった。

 私の人生はまるで一編の美しいおとぎ話のようだった。」

 

アンデルセンは貧困な家庭に生まれ、

様々な困難や苦労を乗り越えて、

童話作家として成功を収めます。

 

その童話作家として認知される前の、

いわば出世作のような作品が長編小説の「即興詩人」です。

 

今年は、即興詩人のような生き方をしていきたいと思います。

 

 

 

 

「即興詩人」はアンデルセンの自伝的作品で、

貧困や困難を、自らの即興的な詩を作る才能により切り抜け、

その芸術によって人を豊かにし、旅をしながら色々な人と出会いながら、

次第に有名になっていきます。

 

「即興詩人」では主人公が詩人としての才能を発揮し、

その自作の詩を自ら歌って旅をしますが、

主人公は途中で”詩人”の意味が分かりました。

 

「私は詩人が何であるかを悟った。

 見たもの、感じたものを美しい歌にできる人の事である。

 本当に素晴らしいことに違いない。」

 

つまり、人生で色々な人に出会い、色々な場所に行き、

色々な出来事が起き、色々な感情に変化する事を、

詩に書いて、それを美しい歌にして歌える人です。

 

つまり、何でもない一日や、何気ない人との会話、

普通の生活でさえも、その美的感性により、

芸術に昇華させて、人のこころ豊かにします。

 

そして、即興詩人ということは、

即興的に、何でもない日常の場面を、

美しい詩にして、歌にして、

芸術にする事が出来るという事です。

 

ぼくはこの考え方、生き方がとても素敵だと思い、

即興的に詩は書けず、歌は歌えずとも、

日常の何でもない生活を

なるべく美的観点から見るようにして一日一日を過ごします。

 

例えば、家族の何でもない会話でも、

過ぎてしまえば貴重なものだと思い、

自然の風景を見れば、絵画的に美しいと感じるように、

何でもないと思えば、何でもない会話であり、風景も、

芸術的思考に転換する事が出来れば、

それは大切な、幸せな瞬間となると思います。

 

こういう生活が出来てこそ芸術の価値があるし、

本当の芸術家というものは、こういう利点があるのではないでしょうか。

 

少しずつですが、こころの豊かな人になれるよう

これからも芸術について考えていきます。

 

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