栗太郎のブログ

一人気ままな見聞記と、
手づくりのクラフト&スイーツ、
読書をしたら思いのままに感想文。

陸奥の旅 '13初夏(1) 多賀城

2013-07-04 15:02:54 | 見聞記 東北編
仙台についでがあった土曜日、足を延ばして多賀城まで行って来た。新幹線で仙台駅。東北本線の各駅停車に乗り換えて、JR国府多賀城駅で降りると、ホームから東北歴史博物館が目の前に。バイト明けで寝ぼけながらやって来た眠気が、しゃきんと一気にさめた。裏手から入れます。大人400円。展示は、縄文の時代から現代まで、東北各地の史跡や人々の生活様式などを紹介している。平泉、阿弥陀堂の内陣柱(複製)は、手前に夜光貝 . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(8) そして旅の最後に 

2013-03-16 03:28:42 | 見聞記 東北編
女川を出て石巻に向かった。この旅、あとはもう、太郎の行きたいところに行くだけとなった。特撮ものと戦隊ものが大好きな太郎にとって、とりわけ「ゴレンジャー」の産みの親・石ノ森章太郎は憧れの存在。その石ノ森章太郎の作品をじっくり見ることができる「石ノ森萬画館」という施設が、石巻市街にあるのだ。ただ、石巻市内も津波の被害が甚大で、このとき館は、傍目には建物自体何事もないように見えても、浸水の影響で営業不能 . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(7) 女川の原発とサンマ

2013-02-17 03:40:13 | 見聞記 東北編
あの震災により、多くのものを失った。津波で多くのものが流された。街がゼロになった多くの街が復興に向かっているなかで、ゼロどころかマイナスからいまだ手つかずなのが、福島だ。それはもちろん、津波にのまれて事故を起こした原発によるもの。結果、日本国中が、極度のアレルギー反応をおこして、とうとう全国の原発が止まった。僕はこのとき気になった。たしか、宮城や青森にも原発はあったよなあ、と。そうだ、宮城には女川 . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(6) 南三陸 

2013-02-01 19:12:35 | 見聞記 東北編
その日の晩は、南三陸町にある、ホテル観洋に泊まった。このホテルは、この地方では水産加工業大手の阿部長商店の経営するホテル。震災後、この会社は800人の従業員を解雇しなかった。雇用を守ることが、会社と地域にとってどれだけ大事かを知っていたからだ。会社にとって、一度離れた人材は戻ってこないし、地域にとっては、住んでいるところに仕事があるということが活性化につながるのだ。もともとこの会社は、創業者である . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(5) 釜石から気仙沼へ

2012-12-15 12:35:15 | 見聞記 東北編
釜石市唐丹。カラにタンと書いて、トウニ、と呼ぶ。由来が気になる地名だ。単にアイヌ語を当てただけなのか?それとも、唐人がこの地で水銀でも採掘してたのだろうか?と、想像してみる。江戸時代、ここは南部藩と伊達藩の藩境だった。つまり、今の感覚で言えばここまで「宮城県」だったようなもの。浜街道の道中、ここの山を超える石塚峠には、七里塚と呼ばれる塚がある。 塚への登山口車でいけるところの案内板によると、ここか . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(4) 釜石市立鉄の歴史館 

2012-11-28 02:35:12 | 見聞記 東北編
釜石は、いわずと知れた製鉄の町。同じ鉄でも、先日の「たたら」のような古代製鉄でなければ、幕末の反射炉でもない。ここは、明治以来、日本の経済成長を支えた近代製鉄で栄えた町なのだ。その町も、最盛期に9万人の人口も減少の一途。かつて、この地をホームタウンとした新日鉄釜石ラグビー部は強かった。こうしてここに来てみて、ここから全国各地へ遠征に出かけることを想像してみた。釜石は、海にこそ近いが、鉄道や道路の便 . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(3) 姉吉・山田・大槌

2012-11-08 02:07:18 | 見聞記 東北編
震災後、よくメディアで紹介されていた「大津浪記念碑」を探しに行った。本島最東端のトドが崎灯台のある重茂半島の、細い細い山道を、いくつもの山を越えてようやくたどり着いた狭い谷間にちいさな集落に、その碑はある。手持ちの地図では不明瞭な場所なので、携帯のgoogleマップをナビ代わりに「姉吉」の集落を目指したのだが、これが予想以上に遠かった。数軒の住宅を通り過ぎたあと、左側の山の斜面を注意して走るとある . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(2) 田老・宮古

2012-10-28 05:02:57 | 見聞記 東北編
ずいぶん以前の、旅行雑誌か大衆週刊誌のちいさなコラムに、田老の防潮堤の記事が載っていた。内容はたしか、過去の津波を教訓に大金を投じられて造った、おらが村自慢のギネス記録の大きな防潮堤、といった感じであったろう。「津波太郎(田老)」「万里の長城」という形容詞も間違いなくあった気はする。そしてなにより、そのコラムに添えられた一枚の写真だけはよく覚えている。下から見上げる構図で、防潮堤の上に立った少年が . . . 本文を読む

三陸ふたり旅(1) 普代・田野畑

2012-10-21 21:07:18 | 見聞記 東北編
お彼岸の二日間に、僕は久しぶりにどこかに旅に行こうとしていた。その旅先を三陸に決めたきっかけは、新聞に載っていた一枚の写真だった。それは、気仙沼の陸上に、津波によって打ち上げられたままの大型船。振り返れば、震災から一年と半年。この時点で、東日本大震災による被害者は全国で、死者15,870人、行方不明2,814人。(9月12日 警察庁発表)その爪痕はいまだ癒えず、いやむしろ、後世までそのまま残るであ . . . 本文を読む

三陸ふたり旅、そのあとで。

2012-09-28 19:10:50 | 見聞記 東北編
お彼岸の二日間、うちの太郎(仮名)と三陸を旅した。今年、高3になった太郎が、来春から東京に出て行くことは、親として当然のように考えてはいた。だけど、いよいよその時期があと半年になろうとする今、僕の中にちょっとさびしい感情が芽生えてきた。だから、今回の旅に誘ったというわけでもあった。ちなみにカミさんも一緒に東京に行く。その訳は理解しているので、僕としては受け入れていた。ただ、そうなると来春から僕は一 . . . 本文を読む

六月の津軽の旅(7)  三内丸山遺跡

2011-08-12 03:51:51 | 見聞記 東北編
司馬さんは、縄文時代に世界で一番食べ物が多くて住みやすかったのは青森県だったろうという思いから、紀行本のタイトルを「北のまほろば」と名付けた。平成6年(1994)のことである。司馬さんは、1月に旅した青森への敬愛を感じる文章を綴りながら、「北のまほろば」を週刊誌に連載していた。そんな時、新聞の夕刊(7月16日)で、『4500年前の巨大大木柱出土』という見出しを見ておおいに驚く。まさに司馬さんの想い . . . 本文を読む

六月の津軽の旅(6)  長寿の林檎の木と、しゃこちゃんと、立佞武多

2011-08-02 02:54:42 | 見聞記 東北編
司馬さんも訪れた、日本で一番古い林檎の木を見ようと向かっている。走れども林檎農園ばかりが広がる岩木川中流の、つがる市柏桑野木田(旧西津軽郡柏村)。司馬さんが「北のまほろば」の最後の締めくくりとして選んだ場所だ。その林檎農園の場所は、めっぽうわかりづらい。途中、案内看板が気がむいた時だけある、そんな感じ。駐車場さえないその現場は、「ここでいいのか?」と疑うほどの、いたって普通の林檎園だった。 看板は . . . 本文を読む

六月の津軽の旅(5)  津軽平野の稲作

2011-07-18 22:53:44 | 見聞記 東北編
802年のこと。征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷平定を成し遂げ、今の盛岡市の近くまでを朝廷の支配下に組み込んだ。桓武天皇が今の京都に遷都して平安京がはじまったのが794年。その数年後のことであった。平定の是非は別問題として、田村麻呂はここより北には攻め込むことはやめた。一説には、この先では稲作ができなかったからとも言われる。このとき京都にあった朝廷は、稲作や製鉄とともに日本にやってきた渡来人がつくっ . . . 本文を読む

六月の津軽の旅(4) 弘前の夜と朝

2011-07-11 23:14:03 | 見聞記 東北編
弘前の街に着いたのは夜の8:00。ホテルのフロントに頼んでおいた部屋は「なるべく高くて、お城側で」。そのリクエスにじゅうぶんの、5F西向きのシングルルームの窓からは、暗闇のかたまりとなっている弘前城の森が見える。朝になれば、この風景の一番向こうに岩木山が見えるはず。僕は心弾ませながら食事に出掛けた。行った先は、ホテル近くの、郷土料理の店・杏。ここでは、津軽三味線の生ライブが間近でみれるのだ。予定時 . . . 本文を読む

六月の津軽の旅(3) 義経寺・龍飛岬

2011-07-04 23:49:21 | 見聞記 東北編
三厩の義経寺ギケイジに着いた。 義経寺は目の前の高台にあるこの寺の名前でわかるように、その由来は源義経。世に、「義経北行伝説」というものがあり、平泉で討たれたはずの義経は生きていた、という。討たれたのは替え玉で、弁慶ほか数人を連れて北海道に渡り、大陸まで行き着きチンギスハンになった、という。その伝説のひとつが津軽海峡を目の前にした、この三厩にある。三厩は、かつての松前街道の本州側最終地点。当時は、 . . . 本文を読む