栗太郎のブログ

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陸奥の旅 '13初夏(1) 多賀城

2013-07-04 15:02:54 | 見聞記 東北編

仙台についでがあった土曜日、足を延ばして多賀城まで行って来た。

新幹線で仙台駅。東北本線の各駅停車に乗り換えて、JR国府多賀城駅で降りると、ホームから東北歴史博物館が目の前に。
バイト明けで寝ぼけながらやって来た眠気が、しゃきんと一気にさめた。




裏手から入れます。大人400円。



展示は、縄文の時代から現代まで、東北各地の史跡や人々の生活様式などを紹介している。


平泉、阿弥陀堂の内陣柱(複製)は、手前に夜光貝を置いて工芸美術の粋を紹介していた。

 


ワラ製の神様の紹介。
道祖神として村境などに立てられ、疫病などが村に侵入してこないような役割があった。



などなど、ほかにも貝塚やら何やら、そこそこに東北の紹介はされてるのだけど、肝心の多賀城についての解説が、まだまだ物足りない印象が強かった。
せっかくここに博物館があるのだから、多賀城に関するものに、展示場の半分くらいを割いてもいいのではないかと思う。
やや失望のうちに、ミュージアムショップに立ち寄ってみると、どうも品揃えがよくない。
地元の民芸玩具とかが並んでいて、肝心の学術色が弱いのだ。
とりわけ、書籍が少ない。わが地元栃木県立博物館のほうが、地元に関わる出版物から企画展の図録にいたるまでだんぜんに品数が多いくらいだ。
となると、もちろん多賀城史跡の資料自体も少ない。せめて『多賀城焼けた瓦の謎』くらいは、品切れのないように4,5冊並んでいるものだと思っていたのに。
多賀城を知るには現地説明会とかに参加できればいいのだろうけど、そうもいかない人間はいるのだ。
2000円とか3000円とかする詳細なものではなくて、500円くらいのボリュームで、図解、地図、年表、人物紹介、蝦夷と大和朝廷の関係などなどをまとめた冊子があってもいいと思う。
いや、むしろなくてはいけないと思うのだけど。
記念に何かを買う気も起きず、落胆の度が増しただけだった。


博物館を出た僕は、駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りた。
「貸し出しは3時までね」とおじさんが言う。
時計を見ると、12時30分。博物館の見学が淡白に終わったせいで、ずいぶんと時間にゆとりができたのだ。
どこかでのんびりスケッチをしたところで、そこまでかかるまい。
「大丈夫ですよ」と笑い返し、自転車を軽やかに駆って、5分足らずで多賀城外郭の南門跡に着く。


 石碑 この向こうが政庁跡




まずは、多賀城碑。いわゆる「壺の碑(ツボノイシブミ)」。
数年前にここを訪れたときは早朝だったので、この碑だけを見て黒石寺へ向かったことを思い出した。

 碑を囲う、覆堂。

僕がひとりでお堂の中をのぞいていると、上品な老夫婦が「どこからですか」と話しかけてきた。
どうやら老夫婦は地元の方らしい。様子では、仙台あたりか。
話し好きな老紳士と僕は、はじめ、先の震災のことを語りだしながら、だんだん現代教育や政治の話題へと移っていった。
ヤバイ、このパターンは話を切り上げづらいのだ。そうとわかりつつ、ついつい小一時間近くも話し込んでしまった。
思い出したように碑を振り返ると、さっきまで昼飯にでも行っていたのか、さっぱりいなかったボランティアの方々がわさわさと群れていた。
さて、どの人に話しかけようかなと値踏みしつつふらふらしながら、年配の女性ボランティアの方が、観光客に説明しているのに耳を傾けた。
「・・・この碑は、エミノアサカリがその功績を称えて建てたものと言われています。・・・」
そうだ、博物館で碑の複製の解説板を読んでいたとき、その名前が疑問だったのだ。
ぽかんとしているカップルの脇から、ついつい「エミ・・ということは、恵美押勝の、というか、藤原仲麻呂の一族ってことですか?」とヨコヤリを入れてしまった。
女性は我が意を得たりとばかり、「朝獦(アサカリ、ケモノヘンに葛)は、押勝の四男なんです。反逆者の一族のために、碑は埋められてしまったのでしょうね。」と答えてくれた。

朝獦は朝狩(アサカリ)とも書く。碑の建立は天平宝字6年(762)。
朝獦が参議に任じられたのが同じ年らしいので、都に戻る記念に顕彰碑として建てたのだろうか。
父・藤原仲麻呂の乱といえば、その2年後のこと。
碑の建立時は、まだ仲麻呂の勢力が絶大なわけで、その息子も親の威光で前途洋々のつもりだっただろう。
しかし、孝謙天皇にあれほど重用された仲麻呂ほどの実力者でも、道鏡の出現により政治の世界から外されていく。
挽回を図った仲麻呂が起死回生の手を打った乱は平定され、一族はことごとく処刑された。もちろん、朝獦も。
ゆえに碑は埋められその所在も忘れ去られ、のちの江戸時代になってから発見されたわけだ。
「壺の碑」として歌の世界で有名な碑なので、発見以来、真贋論争もかしましい。現在は真作説が有力のよう。

続いて女性が、
「碑の上に刻まれている、『西』という文字の根拠ははっきりとしませんが、仏教の教えのなかの西方浄土の『西』か、唐の方角の『西』かと言われています。」と言う。
僕は、「西方浄土」説に疑問を持った。
当時、孝謙天皇がいくら仏教を国教として手厚く扱ったとしても、死後の世界を説くほど成熟してなかったのじゃないかと思う。
むしろ、唐や、碑にある靺鞨(マツカツ、この当時の渤海あたり)の方角をさしたのだろうと感じる。
陸奥国の行政の労は、日本人だけでなく、彼の地出身の渡来人によるところもあったと思うからだ。
ここから北方の地・黄金山で、東大寺大仏に使われた金が初めて産出されたのは、天平宝元年(749、碑建立の13年前)。
つまり、各分野で、百済をはじめ渡来人の知識や技術が重宝されていた時代である。
彼らの望郷の念から、故郷に向けて自分の功績を誇るように西向きに碑を建てた、と僕は思う。
古代より日本海海域の水運は発達していたし、もしかしたら、彼らとの交易ルートはすでに、今の新潟や山形経由だったのかもしれない。
だいたい、古代、稲作が太平洋側の名古屋あたりまでしか達していなかった頃、すでに日本海側は津軽まで技術が伝わっていたのだから。
大陸へはむしろ、平城京経由というよりも、日本海を横断するのは常識だった。ならばなお更、故郷の方角は「西」という認識はあったはず。





・・・・と、稲作、鉄、蝦夷、金産出、、、、いつのまにか僕のほうが話しをしてしまっていた。
またあっという間に時間が過ぎていた。時計をみると、とっくに2時を回っているではないか。
何のために自転車を借りたのか、多賀城廃寺さえも微妙な残り時間となっていた。

なので、このあと自転車をとばした。

碑の丘の向こうのあやめ園。
この日、やたらとハイキングめかした年配者が多かったのはこのせいだった。




あらためて、政庁跡を正面から。
当時からこの景色は、このようにゆがんだ起伏があったのだろうか。




もうすこし近づいて見る。
階段の幅は、時代によって異なるらしい。
この正面に朱塗りの門が構えてあったのか、アザ麻呂が焼き討ちしたときの狂騒はいかばかりか、、、と想像すると震えが来るようだ。







政庁跡。




このあと、カメラに収める時間を惜しんで西から東へと自転車を走らせた。
特に気になったアラハバキ神社が、東門跡の外、つまり鬼門の方角にあるらしく、せめてここだけはと探してみたが、気が急いているせいか見逃したまま駅前についてしまった。
しかしまあ、多賀城周辺の地形はやたらと坂道が多く、道が曲がっていて、ずいぶんとアップダウンが激しかった。
なるほど、だから地図で見た多賀城の塀の形がいびつだったのだ。自転車を走らせて、おおいに実感した。
おかげで、ふくらはぎがパンパンになってしまったが。

駅前に着いたのは、2時55分。なんとか間に合った。




(つづく)



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