栗太郎のブログ

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六月の津軽の旅(7)  三内丸山遺跡

2011-08-12 03:51:51 | 見聞記 東北編

司馬さんは、縄文時代に世界で一番食べ物が多くて住みやすかったのは青森県だったろうという思いから、
紀行本のタイトルを「北のまほろば」と名付けた。
平成6年(1994)のことである。
司馬さんは、1月に旅した青森への敬愛を感じる文章を綴りながら、「北のまほろば」を週刊誌に連載していた。
そんな時、新聞の夕刊(7月16日)で、『4500年前の巨大大木柱出土』という見出しを見ておおいに驚く。
まさに司馬さんの想いを感じて、地下遺跡がむっくりと顔を出したかのようだ。
さっそく司馬さんは、一週間後にはその現場へと行くのである。

縄文時代。
それは、いまから約12000年以上前から始まり、稲作農耕が渡来した約2300年前まで、延々とおよそ1万年も続いた。
一万年ものはるか長い時間、縄文人はほぼ同じ生活をして過ごしていた。
なんとも、ずいぶんとまったりゆったりした時間の流れだろうか。



ここ三内丸山遺跡は、青森市内から南西に約4km。
縄文時代の前期中葉から中期末(約5500年前~4000年前)の間、
1000年以上にわたって人々が住んでいた集落のあとである。
かつて司馬さんが訪れた発掘作業真っ盛りのころと違って、
僕がやってきた現在は、その集落跡の発掘もすんで、見学者向けにきれいに整備されている。

「縄文時遊館」と名付けられた施設が、三内丸山遺跡への入口となる。
感心したことに、ここは入場無料、休みは年末年始のみ。
公共施設の意味合いが強いとはいえ、入場料収入を発掘資金に充ててもいいようなものなのにと思った。
しかも、約50分の案内をしてくれるガイドも、ボランティアの方々。たいしたものだ。
垂柳史跡にしても、亀ケ岡史跡にしても、青森県という自治体の考古学に対する熱心な姿勢が見えて、素晴らしいと思う。

 まるで時空トンネル!

空港ターミナルのような館内を抜けると、トンネルの先は縄文の世界へ。
まるで、タイムスリップに誘われるような、逆光の魅惑。
トンネルをでると、目の前には徐々にかつての集落を思わせる建物が立ち並ぶ姿が現れてくる。
森の向こうに遠くに見える鉄塔が、かろうじて縄文に迷い込んだ錯覚から現代に引き戻してくれる。








まずは住居あと。





 穴がたくさんあいている

竪穴住居跡は、2~6坪の広さで、4~5人の家族がすんでいたと思われる。
柱はクリ材。穴が各所にあって凸凹しており、建て直しとかのあと。
200~500人くらいの共同生活であったと思われる。
平均寿命は30歳。となると3世代は無理だったろう。
実際、集落の人口はそれより増加することなく、500人がマックスだったようだ。
集団生活をする上で、食料自給量にも限界があったろう。
それ以上増えてしまう場合は、あふれた人々はおそらく別の谷に移住したのかもしれない。



大型の竪穴住居もある。





復元されたものは長さ32mもある。中に入ると、床面積は80坪(264平方メートル)もあり相当広い。
今で言う、多目的ホールや公民館的な役割だったのか、それとも共同住居だったのか、その目的ははっきりしない。


そしてこの遺跡のモニュメント的な、大型掘立柱建物。





この、巨大な6本の柱に3層の床を持つだけの構造は、実物像がはっきりしていないあらわれ。
ある程度の情報を見学者に提供して、あとはそれぞれが想像するというこの遺跡のスタイルだそうだ。
発掘調査からは確定してないものを、専門家という権限だけで断定してしまうのは危険である。
もしかしたらあとから、そうじゃなかったという証拠が出てくるかもしれない。
現時点で分かり得る情報から出来る範囲で復元するという姿勢には好感をもった。

で、この掘立柱、6個の柱穴に縦3×横2で並んでいる。
柱穴は、深さ2m直径2mの大きなもので、発掘当時、そこに直径1mのクリの柱がそのまま残っていた。



底と周りを焦がしていたのも含め、おそらくクリはタンニンが多いので、腐らずに残っていたのだろう。
直径からして、クリの木の高さは15m以上、重さ10t。ビルの5~6階に相当する。
クリの木が直径1mで高さ15m?!と驚いたが、条件がそろえば実際にそれだけ生育するものらしい。
それが育つ環境がこの地にあったというのは、それだけ自然資源が豊富だった表れだろう。
間違いなく、ここは縄文人にとって住みやすい「まほろば」だったのだ。
ただし、現在ある復元建物に用いられた柱材はロシア産。
残念ながら、現在の日本にはもうそれだけ育ったクリの木はない。
気になることに、この建物の向きは、海の方角に向かっている。真北ではない。
これだけの建築技術をもつ以上、建物の向きにも訳があるはずだが不明なのだ。
おまけにその目的も、物見櫓や灯台なのか、神殿とか祭祀に利用されたのか、天文的なものなのか、
これもはっきりとはわからないらしい。
好奇心をそそられる建物である。
縄文人が文字を持っていたら、と嘆きたくもなる。


当時の海岸線は、現在よりも3.5km手前にあったといい、つまり当時の陸奥湾はこの谷のすぐ下まで来ていた。
集落から海に向かう道の両脇には、大人の墓が同じ方向に向かって並んでいる。



墓には骨はない。八甲田山の火山灰をかぶって溶けたためらしい。
男の墓からは矢じりが出てき、女の墓からは櫛が出てきたという。
現代のような「裏山のお墓からご先祖様が見守っています」的な立地ではなくて、毎日お墓のあいだを通り抜けて仕事に出かけるのである。
そしてまるで漁をしてきた若者を、死んだおじいちゃんやおばあちゃんが労いのお迎えをするかのような配置だ。
死者との距離が近い生活空間だと感じた。

また、子供の墓は別に、集落の北東側のすぐそばにある。



亡くなった子供は土器に入れられている。土器は母体の代わりなのか。
その土器の縁がどれもギザギザなのはなぜなのか。
土器に、丸いものや小石が一緒に入っているのは、おもちゃなのか、魂なのか。
結構謎めいた子供の墓だった。
この時代、無事成人になる確率は低く、子供は生まれても数人しか育たなかった。
だから、墓全体の7~8割は子供の墓になる。
居住地域に隣接した場所に墓があるのも、幼いわが子が寂しい思いをしないようにという親の願いなのだろうといわれる。

生活があれば、廃棄物も出る。
南盛土(ミナミモリド)はゴミ捨て場。
1000年にもわたって貯められたそのゴミの高さは3mに及ぶ。

北盛土(キタモリド)もゴミ捨て場。
こちらにはゴミのほかに、土器もザクザク出てくる。




さて。
ここに来るまでの僕の一番の関心ごとは、当時ここがどれほど温暖な気候だったのかということだった。
おそらく、今よりもはるかに温暖で、まあ、想像として東海地方の静岡や愛知くらいの気候だったのだろうと思っていた。
そして気候の寒冷化にともない、生活の場を南下させたのだろうと想像していた。
ところが、その質問に対するガイドさんの答えは、「平均気温は現在と2、3℃しか変わらない」とのこと。
意外だった。
2、3℃というのは今で言えば、仙台あたりと同じらしい。仙台ではまだまだ寒い。
しかも、降雪量も今と変わらないともいう。
どれほど過酷な環境を過ごしていたのだろう、と驚いた。

いやいや。
むしろ、そこは僕の思い違いだったのかもしれない。
昔の人間は、自分たちが思うよりもはるかに自然に対する耐性が強かったのだ。
まるで、シカやウサギのような雪山の獣と同じように、寒さを苦とも思わなかったのかもしれない。
生ぬるい現代人の感覚を押し付けてはいけないのだろう。
というよりも、現代人は縄文人ではなく、弥生人なのだということをもう一度思い返さなければいけなかった。
縄文人は自然と共生した、自由な生活者だった。環境変化にも悠然と過ごしていたのだろう。
かたや弥生人は、司馬さんの言う「稲作という重荷」を背負った、自然環境の変化に恐々とする人種だった。
清貧の道楽者と、知恵のある臆病者。そういう仕分けは言い過ぎだろうか。

ここ、三内丸山遺跡を見渡して思う。
堀や柵のない集落を営み、狩猟の道具はあっても武器は持たず、死者との隣り合わせの生活を常とした時代。
海路で遠方とも交易し、ヒスイなどの装飾品を持ち、土偶も作り、祭祀も営む時代。
縄文人は彼らなりに、その生活を享受していたと思う。
むしろ、心豊かで穏やかな時代だったのだろう。
そもそも電気も自動車ももともとなければ、べつに不自由なんて感じないのだ。
今の日本は、大地震と原発事故以来、いまさらながら共生やエコを唱え出している。
だけど僕は、基本的には消極的原発容認派。
だって、他に電力を生み出す装置がないならばリスクと引き換えにでも受け入れるしかない。
リスクを受け入れらないのならば、電気を使うことをやめるしかない。
原発反対と声高に言う人も多いけど、ならばその人たちだって、猛暑の夏にエアコンの恵みを得ていないか?
反対をいうならば、エアコンのスイッチを切ってからにしてほしいと思う。
団扇で風をあおぎ、徒歩や自転車で移動し、携帯電話を放棄する覚悟はあるのかと問いたくなる。
僕にはない。現代の文明にどっぷりと腰を下ろしているから。
この時代に戻れとは言わないけれど、文明さえも未発達のこの時代に、なぜか豊かさを感じ、憧れを抱いてしまう思いだった。





夕刻の新幹線に間に合うように新青森駅についた僕は、食べそびれていた黒石名物「つゆ焼きそば」を食らい腹ごなし。
そして、一日10000円の新幹線切符で、青森をあとにした。





今回のひとり旅は、二日間。
しかも一日目は、昼から巡り始めた旅だった。
そのわりにはずいぶんと、印象深く、感情を左右された旅だった。
きまま風来坊のひとり旅。同行者がいないのは常なれど、ときに誰かと感想を共有したい思いにもかられる。
それはたぶん、震災後による影響かもしれず、津軽の現代人古代人を思うことで、僕が忘れかけていた「人恋しさ」を思い出したせいかもしれない。



おわり



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