海岸線を北上すると、十三湖にたどりつく。十三湖と書いて、じゅうさんこ。宍道湖や浜名湖と同じ汽水湖で、海水と淡水が入り混じっている。なので、もちろんシジミが名産。ダザイはこの湖を「人に捨てられた孤独の水たまり」と言ったが、ずいぶんと卑下した言い草だなあと思う。はじめて訪れた僕には、空は広く、遠くの稜線も控えめで、とても晴れやかに感じる。南に岩木山が居ないのが残念だけど、もうすこし、この湖のもつ穏やか . . . 本文を読む
『津軽の旅行は、五、六月に限る』とダザイは言う。ダザイが『津軽』執筆のために津軽半島を旅したのも、たしかに6月だった。花の咲くのがこの頃で、どちらかといえば5月に盛りは終える。梅、桃、桜だけなら福島の三春とおなじだけど、ほかにリンゴ、梨、スモモとくるのが津軽らしい。もともと僕には6月11、12日に連休があって、はじめ、お伊勢参りに行こうと思っていた。ふとしたことから、JR東日本からその名も「JR東 . . . 本文を読む
会津坂下町、上宇内薬師堂。 http://www.town.aizubange.fukushima.jp/Members/syoukoukankou/contents/guide/guideindex.html 大きな草鞋が架けられていた。 今は山門とお堂だけが残る。 中には3~4人の世話人の方(ボランティア・ガイド?)がいて、集会所に紛れ込んだ珍客の気分。 案内された裏手の収蔵庫に鎮座するは国 . . . 本文を読む
朝。 5時過ぎには目が覚めた。ゆっくり起きて洗面を済ませ、やることがないので、一番近くの目的地・大山祇神社(オオヤマズミジンジャ)へ向かう。 HP→http:// www.ooy amazumi .net/in dex.htm l たどり着いたのは遥拝殿。いわば下宮である。それでもまだ6時。 散歩の人に聞くと、神官の方が来るのは8時過ぎだと言う。来るのが早すぎたようだ。 車に戻ると、たま . . . 本文を読む
会津という土地は、神仏を敬うことにかけて平安の頃より盛んらしい。 もともと会津の仏教は、奈良で法相宗(ホッソウシュウ)を修めた徳一(トクイチ、トクイツとも)上人が広めたことに始まる。 この坊さん、藤原仲麻呂を父にもつバリバリの貴種。 その人物が京の都で名声を高めようとせずにこの地にやってくること自体だけでもその行動力は凄まじいのだが、なにより、後に最澄や空海に喧嘩を吹っ掛ける向うっ気がまた痛快なの . . . 本文を読む
ようやくこれで最後です。 中尊寺にやってきました。 駐車場に車を止め、月見坂を登ろうとしたところ、「音声ガイド」の案内を発見。 先の薬師寺展で味をしめた僕は、ここでも借りてきて首から提げて、いざ! 弁慶堂では、「ご朱印」の看板を発見。 ただし、ここは墨書していただける方はおらず、書置きでした。 とはいえ、いい感じです。 薬師堂も「ご朱印」発見。 お参りをして寄ってみると、ここも書置きでした。 おや . . . 本文を読む
北上川まで下りてきた。 川の東岸、展勝地には前九年の役で源頼義が陣を敷いたという「陣ヶ丘」がある。 丘の上から北上市街を望む。 パノラマ江戸期のこの辺りは、伊達藩と南部藩の国境。 今も当時の名残りがある。 鬼柳番所跡の土塁。 ここから衣川へ。 道路より少し入ったとこにある、一首坂(イッシュザカ)。 安倍氏の衣川館が源氏に攻められ、貞任がここまで逃げ落ちたところ、追いついた義家が「衣の館はほろびに . . . 本文を読む
麓に下りて、三熊野神社に。 ここに、坂上田村麻呂が祀った兜跋毘沙門天がある。 『絞鬼』や『降魔王』でも高橋センセーが指摘していることだが、この毘沙門像は、はるか東方の丹内山神を睨みつけるがごとくに正対して鎮座している。鳥居の下で振り返り「まさしく、まさしく!」と、僕は何度も頷き微笑んだ。 矢印のあたりが丹内山神社だとか。拝殿と、右隣には土俵がある。 この神社は泣き相撲で有名。 かつては地元の北 . . . 本文を読む
たかだか一回の旅の見聞記、こんなにダラダラ長く書きつつようやく2日目に入ります。 おかげで、タイトルで「陸奥の旅」と打つところ、「無知の度」と打つ始末。 打てる!と思った剛速球に空振りしてしまったロートルバッターの気分であります。 枕はこのくらいにしておいてっと。 さてと、その2日目に朝。 宿を7時に出た僕は、この町最古の丹内山神社へ。 神社へ向かうこの一帯は、山間地とはいえ緩やかな斜面の丘が幾重 . . . 本文を読む
今回の旅で、前九年の戦い・安倍氏最後の地である厨川だけは、どうしてもこの目で見ておきたかった。 なので、ここで高速道路に乗って一気に盛岡に向かう。 今日の盛岡は、折り悪く「チャグチャグ馬コ」というお祭りの日だった。 郊外でさえ渋滞がひどい。 ようやく、厨川の柵跡に着く。 厨川と彫られているのがわかる? 館周りの堀の跡。 ここの地名はなんと、安倍館! かつての館跡には、八幡宮がひっそりと建っていた . . . 本文を読む
さて、江刺から更に東の山間部、藤里へ。 ここには田村麻呂ゆかりの兜跋毘沙門天(トバツビシャモンテン)がある。地元の世話役(別当)の方に連絡し、見せてもらう。その、愛宕神社のお堂。 今では裏手に、文化庁指導の下、市が出資したコンクリ製のお堂が出来ている。 これがその兜跋毘沙門天。 黒ずんだ表面に、虫食いの跡が激しいのが残念。 しかし、それだけに1200年の歳月の重みが伝わってくる。 両肩を除い . . . 本文を読む
この辺一帯は「アテルイの郷」として売り出しているようだ。 このモニュメントはなに?跡呂井という地名まであって、そこに建つ神明社には記念碑もある。 神明社 アテルイ王1200年祭記念碑 この田んぼの向こうに北上川がある。 アテルイ率いる蝦夷軍が、紀古佐美率いる10万の朝廷軍を散々にやっつけたのは、この巣伏といわれるあたり。 市内には、前九年の役(アテルイ達の250年後)ゆかりの日高神社も。 . . . 本文を読む
地震直後の奥州市内、旧水沢地区。 かつて胆沢と呼ばれた土地であり、アテルイたちの暮らしていた土地である。 まずは、胆沢城跡にたつ埋蔵文化財調査センターへ。 http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/index.htm ロビーには胆沢城の模型があり、そのまっすぐ正面が正殿の建っていた場所。城の外側土塀の一辺は670mもの広さだったとか。 以前、歴史民俗博物館でお会いした悪 . . . 本文を読む
「白河以北、一山百文。」 戊辰の役、薩長軍が東北地方を侮蔑して言った言葉である。 あってもなくてもいいような値を付けられて、陸奥の国も見くびられたものだ。 そんな陸奥の国に、僕は憧れている。 アテルイ、田村麻呂、経清、貞任、義家、清衡、、、。 どの時代をとっても、敵にも味方にも男惚れする連中ばかり。その舞台が見たくてやってきた。 夜中に出た僕は、国道4号線を北上し、早朝5時過ぎには多賀城跡に着いた . . . 本文を読む
さて。山形から米沢に向かうのだが、一般的な国道13号を下らずに、西向きに向きを変えた。その道は、国道348号を通って小滝峠を越えて白鷹町に抜ける。 たどり着いたここ置賜(オキタマ)地方は、かつての米沢藩北部。 西に新潟県境の朝日岳を望む盆地である。 山形県内陸部は、山形市を中心とする村山地方にしても、ここの置賜地方にしても、南北に伸びる盆地の河川沿いにいくつかの町が連なっている。 例えば、信州伊那 . . . 本文を読む