栗太郎のブログ

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2021劇場公開映画 マイベスト10

2021-12-31 19:56:40 | レヴュー 映画・DVD・TV・その他

今では、このランキングをまとめるくらいしかブログを書かなくなって久しく。
劇場に足を運んでの映画鑑賞、コロナ禍の今年は合計109本。こうしてランキングをつけてみると、どうやら近年の傾向はミニシアター系ばかり。画面に出てくる若者に限らず、いい歳とってからこその役者たちの表情から読み解く感情の揺らぎに、とても心揺さぶられたような一年でした。


1.猿楽町で会いましょう

たまらなく切なくて仕方なかった。若い役者のみずみずしさ。見事な心理描写。かずかずの刹那的な言動は、けっこうクズの部類かもしれないけど、それは上昇志向の若者の欲望のよじれ。
小山田の、はち切れんばかりの下心の純真さ。そのやましさを自覚しているからこその自制心が、ある瞬間に外れ暴走しだす。その怒りをコントロールしようとする理性の痛々しさ。金子大地、見事だった。
ユカは、人を傷つけることの罪深さに鈍感でありながら、自分が傷つくことを極端に嫌う身勝手さ。そんなに可愛くはない。でもたまに、あれ?可愛いかも、と思うくらい。ちょうどよくいる地下アイドルレベル。そこが妙に日常的でリアルなのだ。そして時おり見せる様々な感情が、同じ人間か、と思わせるくらいに違う顔をしている。石川瑠華、見事だった。
そしてみんな、当たり前のことながら、相手に対する愛情や依存度によって違う、人間関係の濃さ。それが匂わんばかりの体臭を感じた。じっとりする湿気を感じた。ダレることなく描いた監督も、見事だった。
書きたいことあってもネタバレになるので伏せておく。こいつら嫌な奴だなと思いながら、それを自分がしたことはないか?と問われれば、一つくらいは心当たりがないこともない。でも、そこまでクズではないと言い返す。だけど。いや、どうだろう。ないよ、たぶん。あれ?自分が過去に恋愛で傷ついたと思っていたのは、むしろ傷つけていたのか?と過去を振り返ってしまう。そんな気分。


2.ボクたちはみんな大人になれなかった

ポケベルとかバブルとか、そういう世代に向けて作られた映画。そしてさらに、「今」を悩み、「過去」を後悔している人間の心をえぐる映画。
「ふつうがいい」かどうかは、20代、30代、40代、その時その時の自分にとって違うものだ。でも、そんなに「ふつうがいい」って、つまらないことなの?。そう思ったら泣けてきた。ふつうがつまらないとは思わないけど、そこを悩んでいる佐藤と、僕自身こそ、つまらない大人になったなと思った。なれないものにはなれはせず、今の自分が本当の自分なのだとつよく思い知らされた気分。
書きたいことはごまんとある。だけど、それはすべて自分の人生の言い訳のようで、なんか悔しくて書けやしない。この映画が刺さらないひとは、言い換えれば幸せな人生を過ごしているってことだろうね。
おまけに、さんざん本編でオザケンとかでノリノリだったのに、エンディングでキリンジの「燃え殻」を流してくる変化球がきた。原作者のペンネームもこれからとったのだろう。ヤスの歌声が、傷口に擦り込まれる塩のようにざらざらと耳にこびり付いて涙があふれた。
そして、耳元に一番好きだった人の声で、"そちらはどんな人生でした?"と聞こえた気がした。


3.あのこは貴族

東京の、無機質なビル群の風景を見ているだけで、なんでこんなに悲しいのだろう?
街を行き交う人の姿が、なんでこんなに愛しいのだろう?
自分とははるかに階層の違う華子の生き方が、なんでこんなに共感するのだろう?
社会にはミルフィーユのように階層がいくつもあって、例えば幸一郎は最上部の階層で、華子はそのすぐ下の階層で、美紀はといえば下は下でも真ん中くらいで。だけど幸一郎と華子の階層差より、華子と美紀の階層差は著しくかけ離れていて。そんな美紀より下の階層さえも、まだいくつもあって。たぶん、無限に。
同じ東京にもいくつもの階層の人間が生きている。「みんなの憧れでつくられていく、幻の東京」、そうまさに。そうなのだよ、ほんとに。だけど、みんなそれに寄り縋って生きている。それを本物だと信じることで、自分の存在を確かめている。地方民である自分でさえ、外部は外部なりの階層がある。
そう意識していた時、「事情は分からないけど・・最高の日もあればそうでのない日もあるよ。それを話す相手がいれば十分じゃない?」の言葉に、滝に打たれるような感覚を覚えて泣いた。たぶん、かつて勤めていたオフィスが、二人が見上げている東京タワーとほぼ同じアングルだったせいもあったのかもしれない。孤独を感じていた華子にとって金言であったように、僕にも響いた。
嫌味なく押し寄せるさざ波のような悲しみに襲われる気分に満たされながら映画館を出て、誰一人知り合いのいない新宿の街にたたずんだ時、華子が最後の手にした解放感を味わいながら、この映画が、公開してずいぶん経っていながらも武蔵野館の客席が満席になる理由がわかったような気がした。


4.くれなずめ

じつは、吉尾がどうなっているのか、その大事なことを知らずに観た。途中、みんなにかき消された告白で「おや?」と気付き、確信を持った時には泣いていた。
なによ、このくだらなさ。このどうしようもなさ。どこにでもいるどうでもいい連中が、半端に歳とって、はっきり主張もしなくて、世間に流されている感が画面から駄々洩れしている。
なのに、なんで俺は泣いているんだろう?
なんでこんなにこいつらが愛おしんだろう?
なんだか分かんないシーンもあって冷めるときもあるけれど、何度も、声を殺すことに苦労するほど笑い転げ(ちんちんに失礼、幸せになれよ、滝藤を認知した瞬間等々)、息が一瞬止まるほどに咽ぶことを堪えた。最後、これが今生の別れだと重々分かった上での「またな」の切なさったらなかった。そうだよ、未練がましいのはどっちだかわからないけど、引きずっていけよ、いつまでも。引きずるほどの過去があることに後悔することはない。それは宝だ。俺はこいつらとは他人ではあるけれど、こいつらは俺の分身だ。


5.由宇子の天秤

天秤。その言葉を意識するおかげで、なにか問題を解決しようとするたびに、終始"あなたの良心は?"という問いかけがかぶさってくる。それはちょっかいを出してきた悪魔の声。もしくは、ニヤついた天使の声かも知れない。いつも道が右と左に分かれている選択を迫り、どちらを選ぶかの判断の基準は、司法であり、社会的モラルであり、本人の立場であり、我欲であり、偽善であり、体裁であり、、、。ああ、それを言い出しているうちに、部外者のはずの自分が、なぜだか代わりに言い訳してるような気分になってきた。その判断と行動の正解は、たぶん、ない。いろんなしがらみが絡み合っていれば、結論がベターと言えることはあっても、ベストとはなかなか収まらない。そう、「正論が最善とは限らないんです。」と由宇子が言うように。
さて、目の前の由宇子は、こじれにこじれた、いくつもの難問を抱えて、どう決着をつけようとするのか。それは、うまくいくのか。それは、褒められることなのか。それは、ズルいことなのか。ああ、このまま全部を正面から受け止めてたら、潰されるよ、耐えきれなくて逃げちゃうかもよ、って画面に食らいついていると、突き放すかのようなあのラスト。
はあ、そうきたか。いや、監督はそういうふうにこっちにぶん投げてきたか。天秤を抱えて、選択と行動を試されているのは、なんだか俺じゃないのか?って、背中に冷や汗を感じた。うまいなあ。二日経ってもずっと引きずっているよ。どうしたって誰かを傷つけそうで、当然、妙案なんて浮かばない。
この映画は、観た各自が結論を、ましてや正解を出さなくてもいいんだと思う。ずっと、このテーマを引きずって暮らしていくことのほうが、意味があるような気がしてならない。


6.ノマドランド

旅をしながら、行く先々で仕事をする。そのたびに新しい人と出会う。その繰り返し。
観ながら、大前研一の言葉が浮かんできた。人が変わるには3つの方法があって、それは、時間配分を変える、住む場所を変える、付き合う人を変えることだ、という言葉だ。(ついでに言うと"決意を新たにする"は意味がないらしい) ファーンは、そのうち"場所"と"人"の2つの条件は確実に満たしているし、"時間"もそうかもしれない。そうか、ファーンは自分を変えたかったのか、と思った。
"じゃあ、何を?"彼女に対してその疑問が付きまとう。だけど、それは不満にはならない。むしろ、どこかいたわってあげたくなる気分になってくる。常識はあるし、人付き合いはできるし、仕事もしっかりとこなす。なのに、何が彼女を"高齢漂流労働者"にしてしまうのか。美しい自然美は、その哀愁を際立たせている。
ノマド提唱者(?)ボブが言う。「この生き方が好きなのは、サヨナラがないから。またいつか会えると思っているから。」と。そこで気付いて想像したのだ、亡くなった夫が彼女にとってどれほど心の拠り所だったのだろうと。すると、彼女の生き方がまるで、亡くした者(失くした物でも)にもう一度出会うために、自らが成仏できない精霊となって彷徨っているように見えてきた。だから、たとえ相手が快く迎えてくれようとも、ひとつの場所に留まることなんてできないのだ。
そしてまた、"またどこかの旅先で"出会えると信じながら旅を続けていく。そうやって新しい年を何度も迎えながら、これからもずっと彼女は生きていくのだろう。


7.街の上で

どんな映画かと問われれば、今泉監督の若葉竜也愛にあふれた映画、と答える。サブカルであふれた下北沢を舞台にしたゆるい青春群像劇。時に流されるように生きる青も、別れた後にフッた男の良さに気付く雪も、どこか幸薄そうな古書店員も、求めているのは友達なのか恋人なのか曖昧なイハも、自主映画にのめり込む女監督も、いそうなのだあの町に。でもあの町のたいていの住人が得られるものは100%の満足感ではなくて、ぬるっとした「こんなもんかな」感。そんな雰囲気が、役者陣の自然体の演技とその辺で撮っているような日常感とでうまく融合していた。
で、監督の上手いとこは、姪っ子好きで悩む警官のシーンを入れたり、成田凌を有名俳優役で登場させたり、ストーリーをダレさせないところ。突拍子もないシーンに思わせといて、ちゃんと伏線を用意している。かみ合わない会話の応酬からは、惰性で生きてるようでいながら、恋愛だけはちゃんと本気で感情をさらけ出せる熱さ。そう思うのは、自分の年齢のせいなんだろうけど。
そして思い出してしまうのは警官のセリフ。「やっぱ言わないと次いけないっていうか、どう思う?」なんでだろう、ここで僕は泣いてしまった。今泉監督の術中だな。


8.光を追いかけて

いやあ侮ってました。なんですか、この子供たちの瑞々しさは。時にハッとさせられる驚きは。そして、秋田が嫌いと秋田が好きがぐるぐるとこんがらがっている、地元愛は。
スレたりグレたりするほど熱いものを持っているわけでもなく、ただ惰性のように親と一緒に秋田にやってきた彰。同年代とは話も合わずに孤立している真希。ふたりは"惹かれ合った"というよりは"共鳴"のような関係だろうか。
ファンタジー要素もありながら、その正体をスクリーンで見せない巧妙さ。観客は、真希たちの視線の先を信じるしかない。本当か?という疑問は、大人たちも同様に見ていることでようやく納得する。
そこで思う。観客である俺たち(つまり世間一般の大人たち)は、何人の子供が言っても信じることができないことも、複数の大人がそれは事実だと言えばすぐに認めてしまっていないか?と。それは、日常でもそうじゃないか?と。真希は、そんな大人たちや、同じようにクラスメートたちに、失望したのか自ら敬遠したのか離れてしまったのだなあ。クラスメートとの確執の元は、親の負債がらみの世間の冷たさも起因してるだろう。子供はけっこう残酷だから。それに拍車をかけて、歌を歌わなくなった両親を見、おざなりに接してくる担任教師や容赦なく取り立てる債権者たちを見、そんな大人たちに囲まれた生活に息苦しくなり、すこしでも澄んだ空気を吸うかのように、屋根に上っているのかなあ。そういう下世話なフィルターなしで自分を見てくれる彰に心許すのは、当然だわな。
そして改めて子供たちの演技。やっかみがいる。ひねくれもいる。ちょっとのズルや怠けさえも許さない潔癖(ポカリの子だね)もいる。どうでもよく流されやすいのもいる。むしろそのほうが大勢だ。そいつらが、空中分解して飛び散ってしまうかと思えたそいつらが、一つのことをきっかけに、まるで突風が全部巻き込んで勢力を増して一気に何かに向かうような、そんな一体感を見せつけてきた。なのより、彼らの表情の真剣で柔らかで清らかなことったらなかった。まいった。窓の外を見るひとりひとりの顔が、キラキラしたいい顔をしていた。
でも、どのいいシーンよりも一番ハッと驚かされたのは、急に真希が歌いだしたとこ。ポロっと涙が出ましたよ。追いかける光は、べたに言えば君たちの未来。ぼやけているのものを真実にするのは、君たち次第。


9.かそけきサンカヨウ

こういうのって、やはり今泉監督だなあって思いながら観ていた。
か弱さ。はかなさ。いじらしさ。思いやり。気遣い、、、、。人として、およそ"優しさ"と形容される感情が、いっぱいつまっている。それはこの中に出てくる誰にも。たまに人間関係が煮詰まってしまうけど、それは優しさと優しさがぶつかり合ってしまう時だから。だから、胸がぎゅっと締め付けられる。そっと抱きしめたくなる。柔らかく背中をとんとんしてあげたくなる。
その中心に陽がいる。時に弱々しい困り顔で、時に強い意志を持った硬い顔で、時にあどけなく、時に大人びて。透明ではかないサンカヨウ、その姿そのものじゃないか。その陽を演じた志田彩良の存在感の確かさ。この子の前に立ったら、身を律せねばと思わせるくらいの屈強なる純真さ。そのくせ、まだ成熟しきれていない脆さをもチラリとのぞかせる演技巧者。今後、期待大。
なお、「かそけき」とは、幽けき(または、幽き)。今にも消えてしまいそうなほど、薄い、淡い、あるいは仄かな様子を表す語、と辞書にある。
「かそけきサンカヨウ」かあ。はじめただの記号にしか見えなかったタイトルが、抜群にお似合いのタイトルであったことに気づかされた今、暖かい気持ちになっている。


10.サマーフィルムにのって

ずっと口の端を緩ませながら観てた。時代劇オタクの女子高生が尊くて、何かに夢中になってる姿が眩しくて、伊藤万理華が『お耳に合いましたら』の美園のまんまで。
読みかけの本『時かけ』をちらつかせてくれることで、タイムトラベル要素のSFに抵抗感なく入り込ませてくれる。金子大地は、今回は教官でも同性愛者でも金髪のカメラマンでもなく、未来からやってきた、ハダシ信者。その当の本人のハダシは、王道の青春学園ものの高テンションで突っ走り、それを暖かく見守りながら手を貸す仲間たちも微笑ましい。結局、どこにも悪役はおらず、皆のあえてのクサイ演技も徐々に嵌ってきて、最後になぜだか涙を流してしまう。
そう、その映画のラスト、ずっと悩んでたよね。悩んで、悩んで、そして、ひらめきのように出したラストがそれかよ。最高のクライマックスじゃないか。青春がはじけてるわ。武士の青春が、いや、ハダシたちの青春が。


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1 コメント

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Unknown (知青)
2022-06-11 12:57:20
フォローさせていただきました。
今後も、貴ブログの更新を楽しみにしています。
よろしくお願いします。
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