栗太郎のブログ

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2019 劇場鑑賞映画マイベスト10

2019-12-31 16:51:45 | レヴュー 映画・DVD・TV・その他

本年、劇場鑑賞した映画は170本。


1.最初の晩餐

スロースタートでじんわりじんわり物語は進んでいき、佳境に入ってもギヤはトップに入らない。時々ドタバタはあるが、総じて淡々と物語は進んでいく。その過不足のない匙加減が見事で、気が付くと琴線を刺激されていて、こちらはとめどなく涙がこぼれ出てこらえきれない。それはひとえに、役者陣の技量のたしかさゆえの心地よさ。そして出しゃばらないカメラの絶妙なるアシスト。演者とストーリーのみならず、制作側もいい仕事をしているゆえだろう。
ゆっくりゆっくりと明かされていくエピソード。最後に特大なのがいくつも。そのたびに、静かに静かに、役者同士の激しくも見えない火花がバチバチいっている。そのひた隠しの闘志のような熱意が、びんびんとこちらに伝わってくる。彼らが父の葬儀のわずかな時間に、大人のくせに急激に人間としての成長を見せる。特に、美也子と凛太郎が。美也子は夫と、凛太郎は恋人と、その関係が自分の心の持ちようによってかけがえのない絆で結ばれていくのが目に見えるようだ。
久しぶりにやって来たシュンは、演じる窪塚洋介が画面に出て来ただけで泣けてきた。そこまでストーリーを積み上げた監督がすごいのか、窪塚のその存在自体がすごいのか、もうなんだかわからないくらいに逞しく見えた。この時の窪塚は、全部持って行っちゃった感じだった。彼も二人の弟妹同様に嫁との距離は微妙なのかも知れない。妻が同行しないことで、この夫婦にも何がしかの問題を抱えていることが想像できるからだ。しかしシュンは、台所に立つ姿が父にかぶったり、病弱の父に穏やかに寄り添ったりなど、見事に長兄としての確かな役回りで仕切ってみせるのだから頼り甲斐がある。
アキコは、懺悔するように二人に過去を告白する。彼女が今までずっとその罪悪感を背負ってこの家で暮らしてきたと思うとたまらなかった。彼女の言動は、性格的な慎ましさではなくて、子供たちに対する背徳感からだったのだと思うと苦しくなった。「全部の責任をあの人が負ってくれた。」と言うが、いやあなたも一緒に背負ってきたでしょうに、って弁護したくて仕方がなかった。「でも私ね、あなたたちと家族になれたこと、後悔してないの。」と笑顔を見せる彼女に涙が止まらない。ああ、斉藤由貴を起用したわけは間違いなくここだなって思えた。
「俺たちは互いに知らないことだらけだ。」と凛太郎は独白する。そう、誰しも家族にさえ隠していることはある。むしろ、家族だからこそ隠してきたことがある。それは、自分を削ってまで守ろうとするからだ。それに気づいた凛太郎と美也子は、自分を見つめ直していく。素直な気持ちで。そうか、シュンはすでにその境地を乗り越えてここに来たのだ。だから達観したような振る舞いでいられるのだ。
この家族を演じた四人の役者はみな、バケモノだった。
最後まで何とも言えない感情が心の中を押し寄せる。すべてが世間に顔向けできることばかりではない。だけどこの、壊れかけながらも何とか取り繕うことのできたラストの清涼感はなんだ?そうだ、「鈴木家の嘘」と同質のやつだ。 美也子が、母さん、なんで?と問い詰めながらも、今のわが身と重ねると、その身勝手さに気付き、母の人生を思い返したときに感謝しか湧いてこない。そう、”あとみよそわか”を思い出したときに。これは幸田露伴が娘の躾の際に教えた呪文。アヤコもそれと同じくらい愛おしく美也子を見つめていたのだ。そう知った時に美也子が流したように、僕の頬にもまた涙がこぼれてきた。


2.愛がなんだ


こじらせてこじらせて、そこまでなんで好きなんだ?って最後の最後まで思わされて。でもね、人の恋は人のものなんだよなあ。いくら寂しくたって、そういう恋がいいならすればいいじゃん。だけど、自分が惨めだなんて言うなよな。それでいいって言うんなら、八つ当たりもしてくるなよな。それでもいいなら、いいんじゃないそれで。馬鹿だとは思うけど。だけど、ほんとに好きな人なんでしょ、そのロクデナシは。じゃあ、こっちに迷惑かけてこないならとことん好きでいれば? 好きになってもらえてるその男を羨ましいとは思わないよ。そっちじゃなくて、そんだけ誰かを好きになれてるアンタのことを、僕は羨ましいと思うよ。応援はしないけど。・・・そんな気分。
仲原の気持ちが一番響いた。


3.ジョーカー


たまたまこの数日前の深夜、TVで「ダークナイト」を観た。バッドマンを翻弄するジョーカーの小面憎いことったらなかった(と言うものの、基本的にアメコミ映画は観ません。ヒーローの万能っぷりや勧善懲悪のステレオ描写が嫌いなので)。 個人的には、バッドマンの苦悩なんて興味はない。水戸黄門然り、大岡越前然り、どうせちょっとやっつけられるパフォーマンスを見せた後にガッツリ叩きのめすプロレスなのだから。それなら僕は、雲霧仁左衛門や河内山宗俊の物語にこそ強く心惹かれる質だ。美学を持つ悪人や、世の中が作り出しだした道化にこそ、人間の本質が深くにじみ出る世間を見ることができるから。歳をとると、そういう物語にこそカタルシスやシンパシーを感じてやまない。 そしてこの映画には、そんな切なさがあふれていた。
アーサーはコメディアンを目指していながら、笑いのツボが分からないなんてすでに滑稽な悲劇である。どうやら読み書きも満足ではないらしい。もしやLDなのかも知れない。たぶん、子供のころからずっといじめられっ子だった気配がある。clownを職に選んだのだってもしかしたらペイントをして顔を隠せるからなのかも知れない。違う自分になれる快感を得たこともあったろう。 そんなアーサーが、もともと脆かった彼の心を壊すには十分なほどの事実を知ってしまい、精神までも壊れていく様はみじめな弱者でしかない。人生を諦観していたアーサーが、とうとうやけっぱちになって「狂ってるのは僕?世間?」と問うまでに乱れ、やがて自らが秩序の破壊者へと変貌していく。なんと悲しいことだろうか。
そんな堕ちてジョーカーと化けていくアーサーを、怪優ホアキン・フェニックスがものの見事に体現していた。この役者、その役作りには敬服する。「her」や「ビューティフル・デイ」などの彼も素晴らしいが、このアーサー役の彼もまた格別の存在感を成している。鏡の前の彼も、走って逃げる彼も、痩せ身で不健康な彼も、限りなく、役に没入しているように見える。メイクした「道化師の涙」でさえも本当の涙を隠すためとしか思えなくなった。だから、アーサーじゃなくてホアキン・フェニックスに手を差し伸べてあげたくなるような気分にさせられてしまう。
クリームの「white room」が堕落していくゴッサム市に融け合い、「send in the clowns」のメロディがジョーカーの人生を笑える悲劇へと導いていくようなラストを観ながら自問する。 で、この映画を観ている自分はどっちだ?と。


4.岬の兄妹


問題作だ。これほどきついテーマをまっ正面から押し付けてくる。そこにあるのは自分とは無縁の世界、いや、知っていても知らんぷりしてきた世界。「万引き家族」が心暖かなホームドラマに思えてくる。 スクリーンの中にいる兄妹は自分ではないのに、まるであの段ボールで目隠ししたボロ屋に一緒に住まわされているような感覚が芽生える。そう、ヨシオが目をひん剥かれんばかりに妹の行為を見せつけられていたあの気持ちのように。そして、友人の警官のように、気遣いをみせているようでやはり他人事としか見ていない自分の目の前に、等身大の鏡を立てかけられて、この映画を見ている自分を見せられているような嫌悪。そりゃあ生活保護を受けろよ、という意見だってあるだろう。だいたい、そこに考えが至らないのかもしれない。でもその発想が起きる前に、もがいてもがいてしがみつくような生き方しかできないこの兄妹の、薄汚いド根性に激しく心揺さぶられるしかない。


5.ギルティ


警察にかかってくる緊急電話を受け付ける部署だけで進む緊迫の90分。はじめ、仕事に不熱心なアスガーが、おそらく警察官を志した頃に持っていた本来の正義感がふつふつと湧き出てくる。 ただ、そんなありきたりの筋書きでは終わらない。 事件を解決しようするアスガーが、こちら側の想像力を試すように刻々と変化していくのは見もの。画面から伝えられる情報は、アスガーの姿と態度。綺麗に散髪された清潔感はむしろ潔癖に見えて、異質を毛嫌いする性格が垣間見える。指にはめる指輪は未練か。じゃあテーピングは怪我か?、、見える情報は、むしろ雑音にも思えて、見えているものこそが間違っているのでは?と疑心が生まれる。そう、電話から得られる事実に関しては、けして間違ってはいなかったのだから。 残り数分の驚愕。見終えてどっと疲れが襲ってくる。なにごと、信じ込むな、とアスガーに言いたい。遅いか。


6.わたしは光をにぎっている


中川監督の映画は、つねに迷える若者が登場する。それは、躍起になって成功しようとする挑戦者ではなくて、今の自分の立ち位置のたわみに不安を覚えながらも、靄の張った行く先に戸惑い立ち往生している若者たちだ。この映画にも、そんな彼女が登場する。けして、晴れやかな成長を見せるわけでもない。だけど、周りにいる人には、あれ?こいつ何か変わったぞ?って気付くちょっとした変化はある。そんな小さなステップを一つずつ上って、人は人生を生きていく。そんな少しの時間の過程を、美しい映像とフレッシュな音楽で彩る上手さ。毎度見事な監督の手腕だった。
ようするに、自分の人生は自分自身のもの。 流されず、流すことなく。 目の前にあるもの、人、時間、、しっかりと見て、聞いて、それが何であるか自分の体の中に落とし込む。すると、自分にとって大事なものものかどうか自然とわかってくる。その正体がぼやけていても、なにかしら「これは大事なもの」ってことをなんとなく感じてくる。真面目に真剣に、とまで堅苦しくなく、ただよく見て、よく聞く。自分のために。 そのとき自分の握っている拳の中には、光がある。まちがいなくある。ただ、それは握っていないとこぼれてしまうもので、しっかりと握っていないとどこかに行ってしまう。もしかして、実は何もないかも知れない。こうして堅く握りしめた拳骨は、ただの石かも知れない。だけど、この中には光がある。自分でつかもうとしている未来が。今見てしまったら霧散してしまうものが。だから今は、歯を食いしばって、光をにぎっている自分を信じて、生きていこう。離すなよ、光を。 そう言われている気がして。そのことに20代で気付いていればと後悔しながら、でも今だからこそそのことを噛み締められるのだと思い直してみて。

参考までに。
 山村暮鳥「自分は光をにぎっている」(詩集「梢の巣にて」)
  自分は光をにぎっている
  いまもいまとてにぎっている
  而(しか)もをりをりは考へる
  此の掌(てのひら)をあけてみたら からっぽではあるまいか
  からっぽであったらどうしよう
  けれど自分はにぎっている
  いよいよしっかり握るのだ
  あんな烈しい暴風(あらし)の中で 掴んだひかりだ
  はなすものか どんなことがあっても
  おゝ石になれ、拳 此の生きのくるしみ
  くるしければくるしいほど 自分は光をにぎりしめる


7.カランコエの花


あっという間に終わりがきた。まるで、花言葉を頭の中で反芻しながら後悔しているツキちゃんが、時間を後戻りすることができない現実に戸惑っているのと同じように。 あの終わり方はずるいよな。反省する暇も与えないんだもの。尺がもともとそうだというのは別問題として、むしろあの尺だからこそ、僕の心に、やり残した気持ちを植え付けられてしまった。 たぶんツキちゃんは、避けてしまった自分を責めているかもしれない。守ってあげられなかった自分を。あそこは「違う」というんじゃなくて、肯定する別の言葉じゃなきゃいけなかったと悔やんでいやしないだろうか。今も。


8.ザ・プレイス 運命の交差点


「希望はそこにある。受け入れるかどうかは君次第だ。」そう言い放つ、ずっと店に居座っているこの男は、何者なのか。 「神を信じるか?」と問われれば「皆に1人いる。」と煙に巻く。 「お前は誰の味方だ?」と問われれば「俺の味方だ。」とそっけない。 まさか、ただのコンサルタントではあるまい。 まさか、ダンディな笑ウせぇるすまんでもあるまい。 まさか、お告げ師のたぐいでは馴染むまい。 まさか、神ってわけはあるまい。 ヒヤヒヤでギリギリでスレスレの要求を与え、いつのまにか絡み合って、なんとなく皆が納得してしまう。そんなスジに違和感を覚えるならしょうがないが、僕にはしっくりときた。こんな何者なのかわからない人間が、すぐ近くにいたっていいじゃないか、と思えた。
あのラスト、あれがいい。あれでこそ、あの女の存在が活きる。そう、あの女こそ何者なのだ?と。


9.洗骨


まず先に誤解を解かなくてはいけないのは、この映画が宗教色の強い物語ではないということ。とても崇高で、人の生と死を身近に体現する風習であること。間違っても、どこかの宗教団体の手がける映画などとは別物であること。敬遠せずにおススメしたい。 とにかく、素敵な映画。 監督のゴリさんの才能に感心する。コメディのような笑いではなく、ほっこりとしてちょっと涙も誘うような心地の良い笑いが散りばめられている。それぞれが抱えている悩みを包括しながら進むストーリーはどこか気高く、なにより信子おばさんの存在が抜群に良い。かっこいいのだよ。好きになってしまうな。 腐ったものも干からびた頃の四年後、また死者と再会する。その時、死者の骨を洗ってあげながら死者の思い出に浸り、自分を見つめ直す。椿油をなでるように塗り付ける様は、まるで化粧を施しているようだ。この風習、「自分を洗っている」なんてつよく同感させられた。沖縄の音楽に癒されながらのラストに涙。ぜひ、くどくど考えずに、感じてほしい映画です。


10.惡の華


「僕を理解できる人間がこの街に何人いる?」と、自分は特別な何かと勘違いしている文学少年の春日は、まるで厨二病そのものだ。そこに突然のように悪魔に変貌した仲村が現れる。人に明かされては一大事の秘め事を黙っているかわりに”契約”を交わす二人。
はじめ、随分と度を越した、変態中学生の学園コメディだと思ってた。ド変態のSに課せられたミッションをこなすうちにド変態のMに変貌していくお笑いだと思ってた。 しかし、見落としていた。原作が押見修造だってことを。「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」なんて素晴らしかったもの。だから、やはり最後には泣かされていた。前半の時点では、まさか涙が流れるラストなんて想像ができるわけがない。快楽的なベチョベチョの変態女子が、糞まみれの生ごみみたいな男子を弄んでるイジメでしかないのだから。だけどなあ、だんだん切なくなっていくんだよなあ。いままで仲村は、どんな気持ちでこの町で暮らしてきたんだろうって想像したときに。一緒に”向こう側”に行ってくれそうな春日を見つけたことが、どれほどの喜びだったんだろうって想像したときに。たぶん、ほんとうは春日はずっと普通人間だったのだ。仲村に毒されてタガが外れただけなのだ。もしかしたら仲村を憐れんで、アムステルダム・シンドロームのような心理状態になっただけなのかも知れないのだ。だけど、夏祭りでの二人は、間違いなくシンクロしていた。春日は仲村と一体だと信頼していた。だけど。仲村はそうじゃなかった。ある意味、彼女は冷静だった。だから春日を・・・。 ああ、かつてあんなトランス状態を共有した二人と、それを理解できる常盤とのラストシーンは、なんて美しくも儚いのだろう。相手を分かり合える嬉しさと、一緒にはいられない悲しさとが、三人の意識の間を、刹那刹那で交差していくのが見えるのだよ。だから、泣いてしまうのだ。そしてまたどこかで人知れず、小さな惡の華は咲き続ける。傑作だよ、この映画。その証拠に、さっきamazonで漫画全巻とボードレールの詩集を買ってしまったもの。そのくせ満点ではないのは、端正な伊藤健太郎じゃ感情移入しきれないってとこか。岡山天音あたりなら良かった気がするなあ。
はたと思いだす。 そういやクラスにいたなあ、何考えてるんだかわかんない女子が。ほとんど声を聴いたこともない。いつも、本を読んでるか教室の隅で外を眺めていた。あれは「仲村さん」だったんだろうって今はよく分かる。男子は皆、彼女を変わった奴って敬遠してたけど、たぶん当時の青臭い僕らは、彼女から変態の認定を得ることさえもできない程度のクソムシだったのだ。もしも僕が真性の変態だったなら、彼女に”向こう側”へ行こうと誘ってもらえてたのかな。あの子、今どうしているんだろう。どこかの寂れた町の食堂で、普通のおばさんの振りをしながら店員をしていてもおかしくないかもな。やる気のない態度で、不愛想に。そうあの子、何て言ったかな名前。あれ?ヤバいな、覚えていないじゃないか。


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