その日の晩は、南三陸町にある、ホテル観洋に泊まった。
このホテルは、この地方では水産加工業大手の阿部長商店の経営するホテル。
震災後、この会社は800人の従業員を解雇しなかった。
雇用を守ることが、会社と地域にとってどれだけ大事かを知っていたからだ。
会社にとって、一度離れた人材は戻ってこないし、地域にとっては、住んでいるところに仕事があるということが活性化につながるのだ。
もともとこの会社は、創業者である阿部泰兒会長が行商からはじめて、ここまで大きくした会社である。
その会長はかつて、チリ地震のときに店舗と全財産を流される被害を受けた苦い過去がある。
そこから立ち上がってきた経験があるからこそ、今回の被災では、全部流されたわけではないとへこたれなかったという。
さすが、一代で事業を大きくした人は心の構え方が違うものだ。
なので僕は、この旅の宿はここにしようと決めていたのだった。
朝起きると、「観洋」の名に恥じることない眺望。曇り空なのが、なんとも残念な思い。
ベランダの手摺りにウミネコが数羽留まっていた。人間に対してぜんぜん警戒していない。
ホテルのロビーからは、志津川の港が眺められる。
これだけの水量を湛えた広い港も、津波の時は一斉に水が引き、港の底が見えたというのだから空恐ろしい。
ホテルを出た僕らは、南三陸の町へ向かった。
南三陸といえば、もう数え切れないほど報道された防災センターを、この目に納めておかねばなるまいと思っていた。
町の瓦礫は、ほとんどがどこかに片付けられていて、残っているのは、建物の基礎コンクリートと、鉄筋の骨組みばかり。
その中でもこの防災センターは、あの日の出来事とともに、ここを訪れる人の関心が強い。
実際、途切れることなくひっきりなしに、バスから吐き出されるように大勢の人がやってきては去っていく。
建物跡の前には、祭壇が供えられ、観音様が立ち、いくつもの千羽鶴が掛けられていた。
だけど、熱心に手を合わせる人が多いながらも、なかには談笑しながらぶらついている人もいる。
自分の意思でここに来たわけではないのがよくわかる。
惨劇の跡にいながらなにも感じないのだなと思いつつも、不謹慎だとは思えなかった。
感受性が鈍感なだけ。この人たちも、いざ自分や身内が同じ目にあえば嫌でもわかるだろう。
したり顔で相槌を繰り返し、愛想良く「わかりますぅ」と話をあわせてくる人よりも、すくなくとも態度に嘘がない分だけ、むしろ誠実なのではないかと思う。
この防災センター跡は、今後どうなるのだろう。(決定しているかどうかわからないのだけど)
震災の記憶の証言者として、モニュメントになって残すのだろうか。
でも、遺族の感情としては取り壊して欲しいというのが本音。
結論がどうなろうと、地域としての総意で決着できることが一番だと思う。
目の前の道路わきを流れる川は、あふれんばかりの水を湛えていた。水位は道路よりも高いかもしれない。
もうちょっとでブロックを越してこぼれてきそうで、内陸育ちの僕には怖く感じた。
もともと水位がこれだけ高かったのではなくて、地盤が沈下してしまったせいなのだろう。
かつての商店街の跡には、切り絵を模した看板がいくつも建てられていた。
たしかお盆のころだったか、イベントで作ったとTVのニュースでやっていたのを思い出した。
てっきり、この旅で訪れる頃には撤収しているものだと思い、忘れかけていた。
近づいてみると、それは紙製のものではなくて、塩ビのようなパネルを切り抜いて作られていた。
だから、破れもせずに残っていたのだ。
南三陸の人たちは、このパネルの文字や図柄を切り取りながらどんな気持ちだったのだろうと想像したら、胸がつまってきた。
山側に行くと、仮設でできた商店街がある。
僕らは、カマボコやお菓子などのお土産を買い込み、道中に食らうパンと飲み物も買った。
散髪もしようかと思いたったが、お店をのぞくと30分待ちといわれて諦めた。
どの店も、明るく振舞ってくれてうれしかった。
そのうちの一軒で話が盛り上がり、最後になにか言葉を掛けようと「がんばってください」と、つい口にしてしまった。
その時のおばさんの、はっと目が醒めたような表情を今でも僕は忘れられない。
「さっきまでの話で、私らがじゅうぶん頑張ってきているのはわかってるでしょう?」と言いたげな目で。
ああ、いらんことを言ってしまった。自己嫌悪に落ちた。
戻り道、不自然に思えた小さな坂道の頂上に車を停めた。
まっすぐに延びた盛り土でわかった。ここは線路の上だった。
この町に限らず、三陸の町々はこれからどんな復興計画を立てるのだろうか。
海に近い、この平地を捨てて山へ移住するのだろうか。
もっと高い防潮堤を拵えるだろうか。
この線路跡の盛り土が埋もれるほどの土砂をどこかからもってきて、埋め立てをするのだろうか。
当事者全員一致の意見はありえず、事が進まずに手付かず、という日々が当分続くのか。
僕は、ずいぶんと湿気こんだ気分で町を出た。
海沿いの国道を走ると、山の向こうに瓦礫の山がいくつも連なっていた。
震災による瓦礫は、日本の西半分に存在する自治体は言うに及ばず、関東でさえも、受け入れを拒否している。
その行く当てのない瓦礫は行き場もなく、どこの町に行っても、こうして町の外れに積み上げられている。
復興がままならないばかりか、それ以前に、この処理がままならない現実がとても歯がゆい。
【南三陸町】 人口 17,382
浸水範囲人口14,389
死者 514
行方不明 664
建物倒壊 3,311
地盤沈下 0.69m
国道を走る僕は、気は滅入る一方。
そのせいで、口数も少なくなり、車の中は沈黙が続いた。
と、そんなときに視界になにか黒いものが飛び込んできて、ぱっと後ろに流れていった。
そのとき僕が「んん!!」と、うなったものだから、太郎ちゃんは「どうしたの?」とびっくり。
引返してみると、そこには観音様が立っていた。
僕には、そう見えた。
以前、TV番組「なんでも鑑定団」でみた、本郷新の『キリスト像』が脳裏をよぎった。
火事にあったそのキリスト像は、木炭と成り果てながらも原型をとどめ、期せずして『受難者』というタイトルそのものになってしまった。
この海沿いの立木もまた、津波という災難に呑み込まれながらも、こうして踏ん張った。
まるで、数知れぬ矢を受けながらも立ち往生をした弁慶のごとくに。
その姿はまさしく、受難した観音様にしか見えなかった。
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