広場からタクシーを拾い、ノルブリンカへ。
タクシー代は10元、とにかく安い。先に腹ごしらえをしようと西安料理の店に入る。日本ではお冷というところ、こちらでは温かい粥汁がでてきた。味はついてない。玉子麺を頼んだ。一杯17元。これまた安いよ。
そこから歩いて、ダライ・ラマ法王の夏の離宮、ノルブリンカ。
中では、林に囲まれた芝生の上で幼稚園児が散歩の最中。緑が少ないラサ市内にとっては格好の緑地。ポタラ宮からそんなに遠くもないのに避暑とはいかに?と思っていたが、たしかにここは涼しいわけか。
そこから先は入場料60元で、ここが、ダライ・ラマ14世が好んだノルブリンカ宮殿だ。インドに亡命した際も、ここから脱出した。ポタラ宮が堅牢な城郭としたら、ノルブリンカは御殿のよう。名の意味はノルブ=宝、リンカ=園だという。確かにその印象を受ける。しかし、主のいない宮殿は味気なく、きれいに手入れの行き届いた庭園にやって来た感しかなかった。
敷地内にあるチベット風の建物。太枠の窓が白に映えるなあと見つめていると、Nさんが、この台形の窓はヤクの角を模しているのだと教えてくれた。ヤクの角は魔除け。壁の白は、観音菩薩(慈悲)、枠の黒は、金剛(力)、アクセントの赤は、文殊(知恵)を示すとか。この形と色彩がちょうどいい安定感を与えてくる。この先もさんざんこの窓を見かけることになるのだが、ここでその理由を聞いておいたおかげで、目にする景色が断然素敵にみえたことは言うまでもない。
次にラサの北の郊外、セラ寺までタクシーで向かう。
呼び方は、でら?じ?どちらかわからなかったが、Nさんは「せら・じ」と言っていた。
道路を走る車とバイクと人の流れを眺めていると、基本譲り合いで成り立っている。ラサ市内でよく見かけるバイクは電動バイクが多い。なんと、ナンバーなし、免許不要だ。夜などライトをつけずに走るし、逆走もするのだから規制するべきだとも思う。Nさんも苦い顔をしながら、事故が多いですというのだが、実際にはこのあとも含めて事故を見ることはなかった。地元地元でその土地にあったちょうどいいルールが出来ているのだなあ、と感心した。
ようやくセラ寺。遠いのだがお代は30元ですんだ。やはり安いなあ。Nさんが車を持たないのもわかる気がする。
セラ寺は、河口慧海が素性を隠してチベット仏教を学んだところ。そのあとも、多田等観がここで学んだ。最盛期には5,500人もの僧侶が修行に励んでいたが、中国政府の手が入ってからはその規模は格段に縮小した。
境内は、ゆるい上り坂が続く。女性の参拝者も多い。道沿いには店が並び、門前町の様相だ。
さらに上がっていくと、版木で刷ったお経がたくさん売られていたりする。山積みのその経典をみれば、なるほどラサが仏教の学府であることを思い知らされる。
砂マンダラも展示されていた。映画『セブンイヤーズインチベット』で、侵攻してきた中国軍人が”ふん、こんなもんがなんだって言うんだ”って勢いで足蹴にした、あの色鮮やかな曼荼羅図だ。目の前にある1m四方の曼荼羅でさえ、制作には、数人の僧侶で数か月かかるという。ほう、それは気が遠くなるわ。そう思った瞬間にNさんが、出来上がると瞑想しすぐに壊してしまうんです、とささやいた。それを聞いた僕はNさんの顔を見た。おそらく目が点になっていたはずだ。Nさんは僕を見つめ返しながら、無常を表すのです、と言った。なにも言葉を返せなかった。
本堂にあたるツォクチェン(大集会殿)の中は誰もいなかったが、大勢の僧侶が明朝ここでお勤めをするらしく、脱いだエンジ色のコート(なんというのか?)が、脱いだままの形でいくつも置かれていた。そうだ、ドテラを羽織ったままコタツに入っていてちょっとトイレに行くとき、ちょうどこういう形で残るなあと思い出してちょっと笑った。たしかに、あの片腕もろだしの姿では、冷えるラサの朝は厳しいだろうよ。
お堂をでると、Nさんは裏手に控える山を指して、あの向こうではいまでも鳥葬が行われていると言った。
あ、そうだその風習を、旅行前に観た映画『最後の語り部たち』のあとに声をかけて来た御婦人が僕に、「見てみたいのよ」と言っていたのを思い出いた。いわく、鳥葬は信者にとって最高のお布施だという。ハゲワシは神の化身なので、できることなら皆それを望むのだとか。しかし執り行うには鳥葬師や数人の僧侶に依頼しなければならず、けっこう費用が掛かる。遺体はバラバラにしてハゲワシが食べやすいようにし、骨も砕く。ただ、毒や病気で死んだ人はダメで、清らかな肉体でなければハゲワシに害を与えてしまうかららしい。いや、毒ってなによ、いまでもそんな殺され方するの?とビビる。ただ、興味本位の外国人が見たがってしまうので、今は観光できないようだ。
御婦人、無理だそうですよ!
河口慧海『チベット旅行記』に鳥葬の詳細な描写がある。
「死骸の料理 まずその死人の腹を截(た)ち割るです。そうして腸を出してしまう。それから首、両手、両足と順々に切り落して、皆別々になると其屍(それ)を取り扱う多くの人達(その中には僧侶もあり)が料理を始めるです。肉は肉、骨は骨で切り放してしまいますと、峰の上あるいは巌の尖(さき)に居るところの坊主鷲はだんだん下の方に降りて来て、その墓場の近所に集るです。まず最初に太腿(ふともも)の肉とか何とか良い肉をやり出すと沢山な鷲が皆舞い下って来る。 もっとも肉も少しは残してあります。骨はどうしてそのチャ・ゴエにやるかというに、大きな石を持って来てドジドジと非常な力を入れてその骨を叩き砕くです。その砕かれる場所も極(きま)って居る。巌の上に穴が十ばかりあって、その穴の中へ大勢の人が骨も頭蓋骨も脳味噌も一緒に打ち込んで細かく叩き砕いたその上へ、麦焦(むぎこが)しの粉を少し入れてごた混ぜにしたところの団子(だんご)のような物を拵えて鳥にやると、鳥はうまがって喰ってしまって残るのはただ髪の毛だけです。」 (※こちら、青空文庫で読めます)
髪の毛しか残らない、か。なんとも無残に思えるが、チベットではこれが最上の葬礼なのである。
ちなみに弔い方として鳥葬のほかに、火葬、樹葬(たしか)、水葬、があるらしい。火葬はおもに貴族や僧侶の一般的なもの。それは焼くには燃料代がかかるからだ。樹葬とは樹木葬のようなものだろうが、もちろん遺体は焼いたりはせず、西の方にある原始林の中に葬ってくる。水葬は、罪人の葬り方で、生まれ変わった時にまた悪いことができないように両手両足を切って川に流すのだそうだ。だからチベット人は魚を食わない、そんな話をしながらふたりで坂を下りだした。
慧海によるとほかにも土葬があるが、これは天然痘で亡くなった人を葬るやり方で、チベット人は嫌うらしい。ハゲワシの供物にできないのはもちろん、川に流すのも伝染病のもとになるからだとか。それが今はどうなのかはNさんに聞いていない。というか、聞き返すには僕はもう歩き疲れていた。
あとで、なにか物足りない気分がしていた。そうだ、身体いっぱいに表現しながら問答をする修行の様子を見学するのを忘れていたのだ。中庭で行われるというその問答修行は3時すぎかららしい。もう少し待てば見れたのか。そうだ、慧海が学んだ学舎にはなにか展示があったはずだった。今度来るときは忘れずに行ってみよう。今度の時があればね。
朝から歩き通しだったので、今日はもうホテルに帰ることにした。ベッドに横たわると、疲れているのでいつの間にか寝てしまっていた。気付くとすでに日は暮れていたが、20:00近くでさえ、やはりまだ薄青い空だった。そうだ、今晩はバルコルへ行ってみようと思いついた。
そして、ホテルの裏路地に潜り込む。
裏路地の屋台でやけに旨そうな鶏肉煮を見かけた。量り売りなのはわかっていたが、店主に「イーガ(1個)」と言って人差し指を立てた。僕が観光客なのを見止めた店主は、しょうがねえなって顔で苦笑いをしながら、1片をつまみ上げ、指で2を示した。ニコリと礼をしながら2元札を渡し、頬張りながらまた路地を行く。
テントの脇をすり抜けようとしたとき、ふいに呼び止められた。暗がりで目を凝らすと警官の制服だった。なんと言っているのかわからないのでスマホを取り出して翻訳しようとしたところ、彼はそこに映し出された文字を見て「リーベンレン(日本人)」と隣の同僚にささやいた。同僚は「通してやれ」の仕草。日本人が信用されているのか、僕の人相が善良に見えたのか。2、3歩進んでから振り返るとそこは検問所だった。そうだこの先は警察が治安に気を配っている寺院だった。それも大昭寺はかつて暴動が起きたところなのだし。
そうこう想像してる間に、目の前が、ぱっと明るくなった。その光景に息をのんだ。なんだ、ここは。この明るさは映画の撮影でもやっているのか?本気でそう思った。
さっきの路地では、ちらほらしか人がいなかった。しかももう21:00になろうとしているのに、多くの人々が右から左へと濁流のごとく流れていく。よくみると、時計回りに歩く信者たちだった。ああここがバルコルか、と気付いた。まるで、鎮守社の祭礼の参道を行く参詣者の波のようだ。いや、それだけじゃなく何かが違うと思えた。そうだ、空の色が青すぎるのだ。青色の蛍光灯で照らされた間接照明のような、いままで見たこともない夜空なのだから。その色と、ライトアップされた建物とのコントラストに圧倒されている僕を尻目に、オンマニペニフン、オンマニペニフンと真言(マントラ)をぼそぼそ唱えながらマニ車を回して歩く信者の群れが目の前を歩き去っていく。そして何の違和感もなくカン、カン、パタンパタン、ザサー、、、ザサー、、、、と繰り返しながら音だけ残していく五体投地の信者。
やばいわ、ここ。ドキドキが止まらない。ラビリンスかよってつぶやきながら、僕もこの波に乗ってゆっくりと歩き出した。
そのうち、だんだん空は暗くなっていった。最果タヒの詩集に、映画にもなった『夜空はいつでも最高密度の青色だ』というタイトルのものがある。そうだ、真っ暗に見える夜空も、たくさんの青が重なって重なって重なりあうことで黒くみえているだけで、黒単色ではないのだ。世の中も同じで、いろんな人間が交わりあうことで多様な世間が出来上がっている。こうして歩いている信者たちと、そこにたまたま居合わせた僕もその理屈から外れてはいない。だから今ここにいる僕さえも、この風景の一部なのだ。そんな気分になっていた。
何度も立ち止まっては、行き交う人の波に見惚れてしまう。よく見れば観光客の数のほうが多そうなのだが、誰もがわずかでも信仰心というものを持ち合わせているような、そんな雰囲気に満ちている。
いつのまにか、大昭寺の正面に来た。
さらに歩く。おや、さっき出てきたとこだ、と気付く。こうして大昭寺の周りを信者はぐるぐると時計回りに巡礼しているのだなあと喜びの実感がわいてくる。
もうしばらく歩くと足元に、下駄か? いやいや五体投地の手にはめるアレだ。横に目をやると、前掛けをした青年たちが談笑していた。なんか、こうね、こういう風景ほほえましいなあって嬉しくなってくる。
それを潮に、僕はホテルに引き上げることにした。
部屋の戻り、持ってきたスケッチブックにポタラ宮を描きだした。多少描いて気が済んだので、今度は本を出した。それは『雪を待つ』というチベット文学の本。
チベット文学の新世代 雪を待つ | |
星 泉 | |
勉誠出版 |
僕は旅先で、その土地が舞台となっている小説を読んでシンクロ感を味わうのが好きだ。単行本なのでちょっと大きくて重かったが、わざわざになってでも持ってきたかった。そして今日は満月の夜。ラサのホテルで、満月の夜に、チベット文学を読む。粋じゃないか。この本を選んだのも正解だった。元の文章も良いのだろうが、言葉の選び方にセンスがあって瑞々しい。そのせいもあって、物語はするするっと心に沁み込んでくる。
一息ついてお茶を淹れ、カップ片手に部屋の窓を開けた。空を見上げて探し当てた満月は、とても澄んでいた。
(つづく)
言うまでもないことですが、僕は踏みつけられている餓鬼のほうじゃなくて、世の中を正すために踏みつけている四天王のほうだということを、くれぐれもお間違えなく。