栗太郎のブログ

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2020 劇場鑑賞映画マイベスト10

2020-12-31 19:50:17 | レヴュー 映画・DVD・TV・その他

今年は言わずもがなのコロナ禍による自粛、自粛、自粛。劇場で観る映画も減って、年間119本(前年比ー51本)。
他によく観たのはネット配信によるドキュメンタリーでした。来年もこの状況が続くであろう中、対策万全で楽しく映画を観たいものです。
ということで、今年のベスト。(もうブログではこれくらいしか書いてませんけど)


❶ 悪党 加害者追跡調査


2時間半、2時間半、の合計5時間ぶっ通し。当初の不安はどこへやら、ぐいぐいと引き込まれた。
タイトル、悪党。ゆえに、ずっと頭の中に”悪党”の単語がこべりつく。こいつか、こいつもか、一番はこいつか、こいつは違っていてくれよ、と悪党探し。見事に迷い込んだ。疑心暗鬼に駆られ、その反動で、悪党と決め込んでいた奴の独白と涙に胸をえぐられる。隙のない映画だった。
ドラマ全6話を3話ずつ、二部構成の映画に分けてある。それぞれのエピソードが深くて、重い。重大事件の加害者を追いかける探偵の話なのだから当然なのだが、東出ふんする探偵こそが負けず劣らずの重い過去を背負っているから余計に話が重くなる。が、その東出がもう抜群にいいもので、まったく辛気臭くなり過ぎない。これほどいい役者だったのか。プライベートから、演技から、声から、なにかとバッシングを受けることが多いようだが、やはりこの役者のポテンシャルはめっぽう高いのだ。やや姿勢を崩してヤツれた人物造形にはしているものの、元がスマートなだけにその佇まいは見映えがいい。なにより、佐伯になり切っている。もっとも、なり切れているのは、散々世間から袋叩きにあったからなのかもしれない。そこを擁護するつもりはないが、少なくとも彼の芸の肥やしにはなったんだろうと推察できるほど、この役が似合っていた。
そして、その東出の押し出しに負けぬ存在の松重豊。何この役者、「しゃべれども~」の頃はどこにでもいそうな長身役者だと侮っていたけど、硬派軟派変幻自在、主役脇役その立ち位置の絶妙さ、そんな近年の凄みたるや、同世代の役者陣の中では随一ではなかろうか。彼の扮する小暮所長が、対極の軟かなキャラとして存在してこそ、佐伯という人物が輝いている。
ほか、キャストの誰一人として欠かせぬ役者なし。とくに篠原ゆき子には、がっつり心を奪われた。一緒に叱って一緒に泣いた気分になれた。あ、山口紗弥加が崩れる場面もつらかったなあ。寛一郎もそれを言うか、って思ったものな。
映画が長いので、語りたいエピソードはごまんとある。その数だけ、この映画の良さもごまんとある。終盤が近づいてくると、これだけ佐伯がもがいてて、どんな結末が待っているんだよ?とだんだん不安が膨らんでいく。結末がハッピーなのか、バッドなのか、ハッピーアーなのかは明記しないけど、少なくとも、犯人に対する佐伯の落とし前の付け方は、過去の事件と決別するにふさわしいものと思えた。そしてこの映画の、ありきたりのような結末も、これでいいと思えた。


❷ 滑走路

中学生のパートと、成人してからのパートが入れ違いながら映画は進む。その成人後を演じる水川あさみと浅香航大がなかなか絡まなくてヤキモキしだした頃に、二人それぞれの委員長(須羽シュンスケ)の死との時間差で、この成人した二人は別々の時間を過ごしていることに気付かされる。そう、時間軸は全部で3つあった。委員長主観でいえば、人生が急転した中学時代と、当時の彼を取り巻く二人の友人がのちに彼の死を知ったことで変わっていく何か、とでも言おうか。

誘導として、はじめ、カウンセリングに通うくらい仕事に行き詰っている若手官僚(浅香)が出てくる。勉学優秀だった委員長が成長した姿だと思った。イジメを克服して、国を動かす側の階段を上っているのだと思った。それが、途中であれ違う?と気付く。登場人物を名字と名前とあだ名で言い分けていたので、こちら側がうまいこと騙されていたのだ。この裏切られ振りが巧妙で、その分、委員長の自死の衝撃が増してくる。それまで過程をそれなりに知った後だからこそ、ああ、彼は負けたのだと思った。だけどそのあとに、いや、彼は彼なりに懸命で優しくて純粋であった、なにより逃げなかったのだと思い直す。そして気付くのだ。そんな彼だからこそ、自分の尊厳を守るべく死を選ぶしかなかったのだと。
彼の死を知ったあとの鷹野と翠も、その純心さを思い出し、今の自分を不甲斐なく思ったのだろう。だから、二人もそれぞれ、今の立ち位置から前へ前へと飛び立とうと密かに決意するのだ。委員長に恥じない自分であろうとするかのように。孤独な友人の死を知らず、何もしてあげらなかった自分を悔やむ二人を観ているのに、なぜかこちら側の気分が晴れやかな感情に包まれているのは、二人の思いに贖罪の感情ではなく、"借りを返していく決意"のようなものを感じたからだろう。そうだ、委員長は二人が前に進むための"滑走路"を用意してくれたのだ。
永六輔もいう。「生きているということは誰かに借りをつくること。生きていくということはその借りを返してゆくこと」と。二人だけでなく、僕自身も、「ああ、自分は今、誰かに生かされている」と気付かされた。


❸ 静かな雨

中川龍太郎監督の映画には、いつも慎み深い若者が出てくる。それは、遠慮なのか、卑屈なのか、諦めなのか、どこか精気の薄い印象から始まる。そしていつもそれとは異質の他者に触発されて、歩みだす。けして派手ではない。他人からしたらたいした進歩もみえないようなこともある。だけど、本人の内面は格段に成長を遂げている。心が豊かに。その静かな過程を見届けているこちら側の心を、たっぷりと温かな水で満たしてくれるように。
中川監督は、”過ぎる”演出はしない。そこは観客が自分の世界を作り上げるところ。だから、なぜ行助が足を患っているのか、こよみが鯛焼き屋を営んでいるのか、は不要。そのおかげで劇中の気づきのたびに、はっとする。時には胸が苦しくなるのだ。

まだ知り合ったばかりの行助が階段の下でサヨナラをしたのは、その足のせいだったのだろうか。僕はそこに彼の自尊心を見た。この人には蔑まれたくないという虚栄を。そしてそのとき、静かに雨が降り出したのだ。そこがうまいんだよなあ(ここは原作と描写が異なっていた。個人的には映画のほうが好み)。これで、毎朝聞いてくるこよみの問いかけ「ここユキさんち?雨、上がったんだね」が活きてくる。切なく、狂おしく。おまけに母親の「ああいい天気やなあ。何があっても、晴れるんやなあ。」までも脳でリフレインされて、餡子に足した絶妙な塩味のようになっているし。じゃなけりゃ、フライパンにポタっと落とした二つ目の卵で泣けるか?って思う。そして僕だったら、行助のように、また、いちから繰り返される日常に耐えられるのか?って自分に問いかけている。
”シーシュポスの岩”のような日常を受け入れていた行助。昔の恋人は忘れることがないのに、自分との思い出は毎日リセットされる苦痛が彼を襲う。それは屈辱でもある。だからあれほど感情をあらわにしたのだ。苦労を嫌がったのではなく、こよみの世界の中に自分が存在しない虚無感が、彼の心を荒らしたのだ。そこで目にしたブロッコリのメモが、リスの貯食行動とリンクされる。それはこよみの、行助の嗜好を忘れまいとする努力と、それが成さない無力。行助でなくたって胸が苦しくなってくる。それと同時に、隠し味のザリガニの話も老人の日記の話も、一緒に頭の中で煮込まれていく。そこに、ドローンでバーンと住宅街の向こうに現れる朝焼けだ。それはまるで、未知でまだほの暗い二人の未来。スクリーンに圧倒されて、眼を見開き、画面をも吸い込んでしまうかのように、大きく口を開けて息を呑んでしまった。落ち着いた僕は、大丈夫、二人の世界は同じじゃなくても、しっかりとお互いの世界にお互いは存在しているよ、と声を掛けたい気分だった


❹ 朝が来る

突然目の前に現れた、あまりにも落ちぶれたヒカリ。夫婦は、彼女を立ち直らせようとあえて突き放したのか、と、はじめ僕はそう思った。だけど違っていた。あまりにも姿を変えて現れたヒカリを本人と気付いてさえいなかったのだ。だから、まったくの恐喝と信じて、朝斗を守ろうと対峙した。なぜなら夫婦にとって朝斗はかけがえのない宝物なのだから。二人はこれまで、朝斗の真実と向き合ってきた。朝斗に対しても、真実を隠さずに接してきた。朝斗を大事に大事に育ててきた。この先だってそうだろう。「これからも読み聞かせます」なんてとてつもなく強い意志を感じた。その勢いに、ヒカリは屈したのだ。
だけど、僕はヒカリを責める気分にはとてもなれなかった。ちょっとしたつまずきから、順調に行くはずだった人生を中学生やそこらで転落してしまった彼女の人生を目の当たりにしたあとだから。顔を落とし、目線を合わせる気力もなく、不良のような風体に見えた彼女だったのに、彼女の人生を追いかけたあとには違って見えた。”なんでもできる”ジャンパーを着て、勇気を振り絞ってやって来たことが痛いほどわかるから。
ヒカリを追い払ったあとに見つけた、消してしまった「なかったことにしないで」の言葉。ヒカリは、産んだことを後悔はしていなかった。むしろ、会いたいくてやって来たんだ、とサトコも、そして僕も気づいた。ずーん、ときたなあ。

河瀬監督の演出にも毎度堪える。
太陽の光を巧妙に使う。柔らかく降りそそぐ優しさにもみえて、揺れる思春期の戸惑いの心にもみえて、見通しの利かない不安な未来にもみえて。
劇中に若い二人が歌う歌も、センチメンタル。夫婦と、朝斗と、ヒカリに寄り添った見事な楽曲だと思えた。
そしてテロップで見つけた曲のタイトルは「アサトヒカリ」。 ここにも巧妙な仕掛けがあった。いく通りにも解釈ができて、エンディングを見ながら、監督の言いたい意味を探っていた。
そこまでかと思ったところに、ぼそりと聞こえた「会いたかった」。
だめですよ、そんなに僕の心を乱しちゃ。


❺ はちどり

なによりも、主人公ウニの心情描写のみずみずしさが見事で、震えがくる。
自分が学歴社会の落ちこぼれのくせに、子供をけしかける父親。家庭の事情で勉学を諦めて平凡な男と結婚した母親。鬱屈したストレスを弱者である妹にぶつける兄。ただ同じ時間を過ごしているだけの友達。そんな人間に囲まれた日常に現れた塾講師ヨンジの柔らかな存在感は、窮屈で居場所の不確かなウニにとって、ひとつの指標のように思えた。闇夜の山中で見つけたほのかな人家の灯りのような。
全編にわたり何かを示唆・代弁する表現に胸がざわついて仕方がない。タイトルは未成熟者の足掻きだろうし、耳の下のしこりはウニの心のしこりだろうし、呼びかけても応えのない母はウニの将来への不安や疎外感の表れだろうし、ヨンジの歌う歌は抵抗すれど成せぬ無力感だろうし、崩壊した橋は当時の韓国社会の暗示なのだろう。時代設定が漠然とでなく1994年と明示する意味もそこにある。

劇中、ヨンジがウニに問う。「知り合いは何人いますか?その中で本心まで知っている人は何人いますか?」と。黒板に書かれた「相識満天下、知心能幾人」は、”相知るは天下に満つるも、心を知るは能く幾人ならん 知っている人は何人もいるけれども、心から分かり合える人は沢山はいない”という意味。ちょうど今のウニに響いたのだろうなあ。なんでみんなは私をわかってくれないの、って。でもウニ自身も他人をわかってあげれていないって気付いたのかな。だから、手術や事故を機に、実は父も兄も心が弱く脆いのだと目の当たりにしたとき、お互い仲が悪いと思っていた家族の愛を知ることができたし、その感情は蔑みではなかった。

自分がちっぽけで、何者でもなくて、何をなすこともできない、なんて諦めることはない。ヨンジの言うように、指を動かせるって些細なことさえも「神秘」なのだから。ウニの可能性は、むしろ何も書いていないまっさらなスケッチブックのようなもの。そう、僕の好きな歌に「何も持っていないことは、何でも持っていることと同じ」という歌詞があるのだが、ウニはまさに、今それだ。
ヨンジとの最後をどう受け止めて自分のものにしていくかは、ウニ自身だ。そう思えたとき、ヨンジの言葉が頭に浮かんできた。

❻ サヨナラまでの30分

冒頭の疾走するようなカメラワーク、一気に時間を共有させるその演出の上手さ。
「おれ、幽霊?」あたりでは、コメディ路線で行くのか、シリアス路線で行くのか半信半疑。ネガティブ思考の颯太と、超ポジティブ思考のアキの対比はありきたりで、熱量の高すぎる青春ものか?との懐疑心も、颯太が歌いだしたときに吹っ飛んだ。なに、こいつ歌うま!!って。それも、へえって微笑むくらいの上手さじゃなくて、涙がこぼれてくるほどだった。曲もキャラにあっていた。
展開は王道ゆえの安定感、そこにバンドメンバーの見事な成りきりぶり、ちょくちょく挿し込まれる切なさの予感。
いやがおうにも感情が高ぶっていく。

アキってウザいなあと思わせといて、「上手くいかなかったら、上手くいかすんだよ。」の台詞で引っ張っていく。
このご時世にカセットテープ?とこちらが失笑しそうな設定を、「あったかいだろ!」で納得させる。
アキの心情や、ストーリー展開を「百万回生きたネコ」の絵本や、曲のタイトル「真昼の星座」で暗示させる。
アキとカナの心の通い合うシーンを、"トロイメライ"でロマンチックに彩る。もしかして、かつて亡命していたホロヴィッツが何十年ぶりに帰ったモスクワで演奏した、あの名演を想起させようとしているのであれば心憎い。

颯太の身体を借りることで起こり出す肉体と感情のすれ違い。アキと颯太が交互にカナと積み重ねていく新しい思い出は、カナにとっては、アキとのものではなく颯太とのもの。颯太のなかにアキを見つけて、颯太に心を許すということは、アキを忘れていくということなのだ。そこにお互いが気付いた時、徐々にお互いに対して嫉妬を覚えだす切なさもいい。
これじゃあどっちかが身を引く辛い結末が待つのか、と焦れながら、なるほどだからカセットテープなのか、デジタルじゃなくアナログなのか、って納得させる道筋は見事。ちょっと匙加減を間違えば嫌味になるところを、三人とも確かな終着点を見つけることができたラストはここち良かった。


❼ タイトル、拒絶

半端ねえな、この映画。女優陣の本気度が高すぎる。"底辺"の人間の鬱屈したエネルギーが沸々とたぎっている。それはデリヘルに身を落とした彼女たちだけじゃなく、伊藤沙莉演じるスタッフ・カノウの「私は、カチカチ山のタヌキです。ウサギじゃなくてタヌキ。」と自嘲する台詞にも表れている。そもそも伊藤目当てでこの映画を観た。「ホテルローヤル」の中の伊藤もその役割を見事に演じ、存在感抜群だったが、メジャー作品よりはこちらのほうが彼女の味が出ると期待したからだ。はたして、その期待以上のパッションはあったし、この役は現状、彼女こそ適役であろうと思えた。
しかし、もっとも目を引いたのは恒松演じるマヒルだった。小さい頃から容姿を武器にした生き方を身に着け、笑顔で男を手玉にし、今も器用に生きている。いや、生きているように、見える。その笑顔は、つくられた笑顔だ。(そう思わせるのだから恒松は演技巧者なのだが)。それは仮面で、自分を守る盾で、金を稼ぐ道具なのだ。自分は「ゴミ箱」だと言い切り、感情をフラットにして仕事に徹し、他の女の子とも阿らない。それはけして彼女の矜持からくる行動ではなく、そうでもしてないと何かの拍子にぶっ壊れてしまうからなんじゃないか?と思えた。彼女は自分を社会不適合者だと自覚していながら、それでも自分は社会のなかでしっかり役割を果たしてきたことを知っている。セックスワーカー(労働者)として。だから、労働にはそれなりの対価を要求するのは当然のことだ。使い捨てられちゃたまらない。そう、点かなくなったライターのようにポイ捨てされたくはない。点かなくなったって、東京を燃やすくらいの熱量はまだ体の中に仕舞っているよといわんばかりに。だから、彼女が屋上で何をするのか、声を殺して見入った。そして、ああ、そうするのか、と見届けたときに、彼女が生身の人間に見えた。

「私の人生に、タイトルなんて必要ないんでしょうか?」とカノウは言う。タイトルなんてなくたっていいよ、別に要らんよ、と僕は思う。だけどそれぞれの人生の主役は自分なのだ、とは言ってあげたい。そう、平日の昼間に1人で映画を観ているような社会不適合者である僕自身に向けても。


❽ ウルフウォーカー

中世のアイルランド、キルケニーの町。イングランドに征圧される属国の現状、文明にごり押しされる自然界の行く末。この時代の文明はまだ不完全で未発達で、しかし悪いことに、それでもそれが良き未来だと信じられた。たぶん、当時の人々(支配者側)の心情は、映画に映し出されるどこか人間の心の闇を滲ます暗さなどなく、輝かしい未来を期待する明るいものだったろう。逆に侵略される側はその影として、鬱屈したひがみの感情を潜ませていたことだろう。それは東西を問わず、日本でも古代、中世、そう変りもない歴史をたどっている。
そして、それぞれの地で根付いていた古来よりの自然崇拝は、文明という重機に撫で切りにされていく。この映画のなかの森やオオカミたちも、その歴史のひとしずく。ただ、それだけでこの映画に惹かれたのではなく、その舞台がアイルランドだからだった。司馬遼太郎の紀行文を読んで、W杯のドイツ・アイルランド戦を観戦してからの僕は、ことのほかアイルランド贔屓で、その舞台がそこであるだけで観る理由には成り得た。伝説多いケルトの世界観は、どこか奈良朝あたりの陸奥に似た印象も強く、強者に蹂躙される弱者に肩入れしたくなる気分にもなるからだ。

この映画は、手描きのところがいい。先日、TVで「未来少年コナン」の再放送が流れていた。それに見入ったのは、懐かしさだけでなく、画の柔らかさから滲む温かみなのだろう。そこがデジタルでない創作物の素晴らしいところ。昨今の日本のアニメ映画やディズニーに興味が薄れた訳は、第一にそこなのだ。たいしてこの映画は、とってもとっても温かい。線や彩色、文様、それに安野光雅を思い起こさせる構図から感じるこの映画の画が、とても柔らかいからだろう。
話のスジには当然のように家族愛、友情がある。しかしそれだけでは綺麗ごと。その対比としての喪失や献身(その点では敵役である護国卿もそう)が、いっそうその感情を呼び起こす。護国卿はまるで、レ・ミゼラブルのジャベール。彼は彼の正義を貫き通す。ゆえに、憎らしさよりも悲哀を漂わしていた。それがこの物語も深みにもなっている。おそらく日本人には気付かない、キリスト社会の不文律や象徴や暗喩だって、いくらもあるのだろう。

 

 


❾ 本気のしるし

「なんだこの女は?!」それが、浮世に対する当初の印象だった。いつからだろう、この女の行動を理解するようになり、その環境を憐れみ、そして物語が急展開のあとからは、この女を応援していた。おそらく、ここからの役柄を踏まえての土村芳なのだろう。これが桃井かおり的(例えにだす女優が古くて恐縮だが)キャラだったら、お前の自業自得でしょうが、と感情移入はしづらかったことと思う。
「お前はずるいね」そう思いながら、辻を見ていた。人を本気で愛することができず、けして距離を縮めることもない。たぶん、愛されることなく、裏切られるほうが多い人生を生きて来たんだろう、そう思った。
辻が浮世に惹かれたのも、たしかに「自分でもわからない」ことだったのだろう。脇田の言うように、いい女だから放っておけなかったのは確かだろうが、他者に対する興味がなかった自分がなぜか浮世が気になって仕方がないことは自覚している。でも、それが性的対象ではないと自分に鎖をつなぐように、抱くことはしないのだ。ほんと、面白くない(脇田)。ただし、その「面白くない」があるからこそ、この二人の行く末が気になってしまう。どんな地獄をみるのだろう?と。そう、脇田のように。

この映画、ひどい奴ばかりが出てくるじゃねえか、と思う人にはホントつまらない映画だろう。けっこう、みんな狡いので、見ていて厭になってくるだろうから。でも、みんな悪人になり切れない。それは人を助けてあげようという優しさではなく、自分可愛さゆえの言い訳のような些細な罪滅ぼしでもある。だけど、そんな人間の浅ましさは、誰にでも持ち合わせているものではないか?自分がこいつの立場になってみたら、どう感じるよ?
・・・・そう、こいつの立場になってみたら。
そのとき、あれ?あれ?こいつら、立場がズレてっている...。それに気づいた時、ぞっとした。立場が逆転ではなく、ズレ。スライド、とでもいうか。でも、当の本人たちにはその自覚がないようだ。ああ、なんて悲しいのだろう、人の心というものは。寄り添おうとする人間を、いともたやすく突き放す。それが無私の心情であろうがなんであろうが、自ら心を開かない限り、二人が分かり合うことはない。そんな人間関係の悪しきループをながめながら、涙がこぼれてきた。


❿ ミッドナイトスワン

切ない。そして、儚い。草彅剛の演技はどうかと聞かれれば、どうも男が抜けていない、と感じた。例えば肩が張った歩き方とか。でも、まったく女にしか見えないトランスジェンダーを演じ切るよりもリアリティはあった。そこに、世間からゲテモノ視されながら生きている悲哀が漂っていたからだ。
そんな、一人で生きてきたナギサの目の前に、一人ぼっちにされてきたイチカが現れる。どん底同志の二人ながら、一人は夢を自らの手で掴んでいき、一人は我が身を捧げながら朽ち果てて行った。でも、二人とも同じ思いだろう。幸せかと言ったらそうでもないだろうけど、少なくともお互い自分の出来ることに精一杯向き合い、結果としてイチカの夢を叶えられた(ようとしている、が正しいが)のだから。だから、僕にはハッピーエンドに思えた。

主演はもちろん草彅剛なのでストーリーはナギサを追いかけるのだが、これをイチカ視点で物語を進めてみてはどうだろう?とも思った。・・・笑顔が素敵で、社交的とは言えずとも凛とした、NYで成功した日本人バレリーナがいる。さぞこれまで恵まれた環境で英才教育を受けてきたのだろうと周りは才能と出自を誉めそやす。しかし、彼女はその過去を語らなかった。そんな彼女の成功の陰には、身を削って尽くしてくれたトランスジェンダーの親戚のオジサン(!)と、イチカの人格すべてを愛してくれながらも失意のまま去っていった友人の存在があった。的な。イチカの華やかさだけでなく、人間そのものの強さが際立つと思う。
それにつけても、イチカとリンの二人のキャスティングの絶妙さ。草彅の存在はもちろんながら、この映画のクオリティは、この二人がいてこそだと言って過言ではない気がする。

正直、トランスジェンダーの方々の本当の気持ちなんてわからない。むしろ、わかっているっていうのは偽善だと思っている。だけど、それで生きている人がいることの事実はわかっている。そして彼ら彼女らが、苦しみながら生きているということも。



その他のレヴューはこちら→https://eiga.com/user/92050/review/


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