栗太郎のブログ

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三陸ふたり旅(2) 田老・宮古

2012-10-28 05:02:57 | 見聞記 東北編

ずいぶん以前の、旅行雑誌か大衆週刊誌のちいさなコラムに、田老の防潮堤の記事が載っていた。
内容はたしか、過去の津波を教訓に大金を投じられて造った、おらが村自慢のギネス記録の大きな防潮堤、といった感じであったろう。
「津波太郎(田老)」「万里の長城」という形容詞も間違いなくあった気はする。
そしてなにより、そのコラムに添えられた一枚の写真だけはよく覚えている。
下から見上げる構図で、防潮堤の上に立った少年が誇らしげに両手を広げていた。
こんなコンクリの塊が自慢かと正直、嘲笑し、反面、彼のふるさとには世界一があるのかと羨ましくもあった。

ここ宮古市田老地区は、かつて、明治29年の津波で、1戸残らず住宅が流失し、住民の8割以上が死亡した。
昭和8年の津波でも、9割近くの住宅が流失、住民の3割以上の911人が亡くなっている。
それだけに、悲劇を繰り返してはいけないという決意の下、当時の田老村の関口村長の尽力もあって、資金難による数度の中断を乗り越えながら、防潮堤は完成した。
X字状に出来上がったそれは、総延長2433m、高さ10m。
これが、のちのチリ地震による津波の時に威力を発揮し、押し寄せる波にびくともせずに一切の被害を食い止めた。
人間が大自然の猛威に打ち勝った瞬間でもあったのだ。
しかし、今回の津波は、その防潮堤を軽々と突破するのみならず、580mにもわたって粉砕した。
地区の住民4434人のうち、200人近くの死者行方不明者を出したという。


 防潮堤から山側

 防潮堤から海側


車から降りて、ふたりして防潮堤に昇ってみた。
内も外も瓦礫はもうほとんど片付けられていて、背の高い雑草が生い茂っている。
家の基礎のコンクリと、区分けされた道路が、人々が暮らしていた名残りを知るにすぎない。
「向こうの堤もこの堤も、ばぁーって津波が乗り越えてって、こっちの家をみんな押しつぶしたんだね」とざっくり説明すると、同行の太郎は無言だった。



太郎が、なぎ倒されそうになりながらも、防潮堤にしがみついて残ったパイプを見ながら「・・・すごいね」と言うので、
僕は、「でもね、ここの人たちは、津波が来ることは知ってて住んでいたんだよね」と返した。

他所者が結果から言うのは失礼ながら、安易に「万里の長城」に依存しすぎていたのではないか、と感じたのが本音であった。
たしかに、防潮堤があったからこそ、津波の威力は軽減された。
だけど、「これがあるからもう大丈夫」という神格化に近い信頼は、気休めの怠惰にすぎなかったのだと事実が示している。
眺め渡している僕の中で、あの日、その暮らしが根こそぎもぎ取らてたことに対する恐怖は、もちろん津波に対して感じた。
しかし、先人が何度も苦難にあった過去を知っていながら、また、山口弥一郎や吉村昭など何人もの研究者や文筆家が警鐘を鳴らしていながら、またもや災難を繰り返してしまった苛立ちを、ここに住んでいた人に持ったのが偽らざる僕の心情だった。

と、思いながらも、じゃあ自分がここの住人だったらどうだったろう、やはり、そう滅多に大きな津波は来ないし、来たってこれがあるし、と言っていたんだろうな。
自分だってそうじゃないか、そう思って、凹む。
凹んで無言になり、雑草が生い茂る町の跡をただ眺めた。
たぶん、僕はずいぶんと不機嫌そうな顔をしていたんだろう、太郎は僕に話しかけてこなかった。



ふと正面にあるお寺に目を向けると、黒い御影石がよく目立つ真新しいお墓がいくつも並んでいる。
多くの喪服の人が手に花束と桶を持って歩いていた。
ああ、今日はお彼岸だった。
あの写真の少年は、今どうしているのだろう。
花束を持って墓参りに来ているのだろうか。
それとも、お墓に名前が刻まれているのだろうか。



南に向かい、宮古の市街地に入った。
港を通り越し、浄土ヶ浜へ。
と言っても、浄土ヶ浜の景観を鑑賞するのではなく、幕末の宮古湾海戦の地を見たいと思っている。
旧幕府軍が、新政府軍の装甲軍艦「甲鉄」の奪取を狙い、湾内に停泊中の「甲鉄」に奇襲を仕掛けた戦いである。
湾の北側にある臼木山には、海戦の解説碑がある。





旧幕府軍の人物紹介はもちろん土方歳三。総司令の荒井でも、戦死した甲賀でもないが、ここは知名度的に仕方あるまい。
しかし、新政府軍で紹介された東郷平八郎はいかがなものか。
のちの元帥も、この時は一介の一兵卒。まるで、土方と東郷が交えたような印象に不満は残る。
戦いは、新政府軍の圧勝におわり、死傷者20以上をだした旧幕府軍は敗走。
そもそも、接舷作戦自体に不備があったし、3艦で敢行するはずが「回天」1艦での決行という時点で、ゴリ押し感が強い。
機を逃さずという焦りもわかるが、結果として、旧幕府軍の弱体化を進めることとなった。
この戦、吉村昭「幕府軍艦回天始末」に詳しい。
ちなみに、回天とは、端的にいえば起死回生をねらうこと。
つい、太平洋戦争時の人間魚雷を想起してしまいそうだけど、もちろん違う。

碑の近くから、湾を見下ろしてみるが、生い茂る樹木で視界が遮られて、雰囲気程度しかわからなかった。




山を降りて、港からあらためて湾内を眺めてみた。
穏やかな水面は、100年以上もむかし、ここで戦があったとは思えないのどかさ。




しかし現実にもどると、僕の立つ港付近は津波の被害が酷い。
市街地方面に向かう途中に、残されている大きな倉庫の壁に目が止まった。
津波の高さ(8.5m以上という)に汚泥の跡がある。よくこれで建物が残ったものだ。

 


市街地に入ると、浸水した形跡は残るものの、見た目では損傷のない住居が目立つようになってきた。
宮古駅にまで来ると、なんの被害もなかったようだ。

 手前、JRの駅。

 その先に、三鉄の駅。

ここ宮古は、第3セクター三陸鉄道(通称、さんてつ)北リアス線の発着駅。
今回の震災で、線路も駅も大損害をこうむり、いまだ全線の開通は出来ていない。
で、このさんてつ復旧に向けて、社員一丸の活躍苦悩を描いた漫画があり、これがいい。

さんてつ: 日本鉄道旅行地図帳 三陸鉄道 大震災の記録 (バンチコミックス)
吉本 浩二
新潮社

漫画家本人が現地に入り、インタビュー取材を基本としたルポ形態での内容で、漫画家自身の震災地体験や葛藤もリアル。
どれだけ、社員が知恵を絞ってこの鉄道を守り、地元の足として生活に根ざし、鉄ちゃんに愛されているかを感じてしまう。
ついつい、さんてつを応援したくなるのだ。
車移動なので乗れないが、ここ宮古駅構内にはグッズ販売コーナーがあるので、おせんべいを買ってわずかながら売上に貢献。
がんばれ、さんてつ。


町を流れる閉伊川を越えた国道沿いにある観音堂には、幕軍無名戦士の墓がある。
宮古湾海戦のあと、ここから海にでたところの藤原埠頭に、首無しの戦死体が流れ着いたという。
おそらく回天士官・大塚浪次郎か新選組隊士・野村利三郎あたりと見当はつくものの、表立っての供養は、政府軍の手前、はばかられたのであろう。

 観音堂




国道を走ると、湾の向かいにある重茂半島の月山がよく見える。



海戦以前、土方に指揮された新選組隊士が、宮古に入る政府軍の動向を逐一偵察していたのだが、彼らが潜伏していたのがこの山だった。
当時、三陸の良港であった宮古の町はおおいに栄えていて、花街もあった。
男という生き物はエエカッコしたがりなので、ついつい裸の付き合いの最中にポロリと機密を漏らしてしまう。
おまけに、戦地となる場所の住民の感情は、のちの戦後処理などで影響は大きいものだ。
ここでの旧幕府軍の評判はよかった。もともと徳川幕府に対しての印象が良かったこともあるが、函館行きの途中に寄った時の彼らの振る舞いが、紳士的で金払いも良かったからだ。
たいして、海戦直前停泊中の新政府軍の規律といったら、不遜でめっぽうだらしなく、すこぶる評判が悪かった。
なにしろ、新政府とはいえ、にわかに官軍となって思い上がっている田舎百姓がほとんどなのだ。
花街の姐さんがたにも相当嫌われていたらしい。
それに、新政府軍内は、どこに行っても薩摩と長州の意地の張合いばかりで統率も取れていなかった。
そのため、指揮権争いに気がいってばかりで、ここから南に山を超えた大沢湾に旧幕府軍が機会を狙って身を潜めていることさえ気づかなかった。
その点、京都でさんざん活躍した土方は、情報の必要性をよく知っていた。
作戦の不手際さえなければ、旧幕府軍の勝機は十分にあった。


  【宮古市】 人口      58,917 
         浸水範囲人口 18,378 
         死者        420 
         行方不明     107 
         建物倒壊     4675 (県内最多被害)



(3)へつづく



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