栗太郎のブログ

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六月の津軽の旅(5)  津軽平野の稲作

2011-07-18 22:53:44 | 見聞記 東北編

802年のこと。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷平定を成し遂げ、今の盛岡市の近くまでを朝廷の支配下に組み込んだ。
桓武天皇が今の京都に遷都して平安京がはじまったのが794年。その数年後のことであった。
平定の是非は別問題として、田村麻呂はここより北には攻め込むことはやめた。
一説には、この先では稲作ができなかったからとも言われる。
このとき京都にあった朝廷は、稲作や製鉄とともに日本にやってきた渡来人がつくった大和朝廷(個人的にそう思っている)の流れ。
だから、稲作不毛の地には興味がなかった。
おまけに、同じ陸奥とはいえ、阿弖流為たちのいた地と違って鉱物資源の金が採れるわけでもなく、地続きでありながら無視した格好となった。
司馬さんも、「田村麻呂は攻撃の終末点を知っていた」と語っているように、田村麻呂は胆沢、志波までを手に入れ終戦とした。
その先の津軽の地に住む、中央政権にまつろわぬ「都加留」の民との交戦をしてまで版図を広げる意義が見いだせなかった。
実際、間延びした戦線拡大が自滅を招くことは、第二次大戦時、南方戦線の日本軍を見れば想像ができるというものだ。
田村麻呂は賢明だった。

とにかく、津軽では米がとれなかった。
日本全体が弥生時代に突入した時代でさえ、北緯40°以北の寒冷地である東北北部には、縄文の伝統そのままの「続縄文時代」が存在していたと考えられていた。
江戸時代にいたっても、ケガツ(飢饉)の地として貧困の極みだったのだ。
それが、昭和にはいった頃までの常識だった。

ところが、である。

昭和の半ば、その常識が覆された。
かつて弥生時代には、津軽平野では米が取れていたという証拠が発見された。
それも、北九州から始まった稲作が関東平野に伝わるよりももっと早く、その手前の名古屋あたりがはじめた、その頃には米を作っていたらしい。
距離的には断然遠いはずの津軽だけど、稲作文明の伝達は陸路のはずはなく、日本海側の海運の良さを連想させる。


その資料が展示されているのが、弘前市から東方、黒石市近くにあるここ、田舎館村埋蔵文化センター。



発見の経緯はこう。
まず、1958年(昭和33)11月のこと。
ここ田舎館、垂柳の地で初めて発掘調査がされたとき、200粒以上の炭化米が発見された。
それこそ、この地で稲作がされていた証拠ではと思いきや、もしかしたら、南方の温暖地から交易でもたらされたものなのでは?という推論も考えられた。
とにかくこの時点ではまだ定説を覆す説得力はなく、もっと決定的証拠がほしかった。

それから23年後、1981年(昭和56)、国道102号線のバイパス工事の際のこと。
なんと、2000年前(弥生中期)の水田遺跡が見つかった。
そして驚くことに、その水田の跡には古代人の足跡がたくさん残されていた。
現代人よりも土踏まずが発達していて、指が大地をしっかりとつかむことができる足だった。
翌年、県教育委員会は、調査会を組織して本格的に発掘調査を開始。
そしてさらに、翌1983年(昭和58)。畳2疊分の小さな水田が656枚も大量発見された。
ようやくここに、津軽平野にも弥生時代があったと証明することができたのだ。


 水田の空撮写真パネル

 一辺2mあるかないかの大きさ


足跡や畦まで残った水田が、なぜ地下から綺麗な姿で現れてきたかという理由は、じつは火山の噴火にあった。
その火山は、東に20kmちょっとの位置にある八甲田山。
その時降った火山灰が、弥生人が暮らすムラを覆い尽くし、2000年もの間、地層の下に保存されていたのだ。
前日訪れた十三湊の幻の大津波とはうって変わって、今度こそ、ほんとに日本版ポンペイがここにあった。








ここは、それだけスゴイとこなのである。
何十年も、地元考古学に携わる人々の熱意が感じられる展示だった。
保存処理も現物を損なわないように最先端薬品を使い、そうとう手間をかけている。
それだけスゴイのに、埋蔵文化センターの観覧者は、僕の他に誰もいなかった。
この時、この北側に隣接する道の駅では、フリーマーケットにやってきた人出で賑わっていた。
また、東側にはJRAの場外発売所があって、駐車場は満杯だった。
だから、別にここの交通の便が悪いわけじゃない。
なのに、僕一人だけだった。至極もったいない。
まあ実際、その実情は館内のおざなり感にも反影されているようで、発掘はすでに過去の偉業という印象。
我が地元だったら、これみよがしに大宣伝をして、ゆるキャラの「弥生ちゃん」とかつくりそうな、そんな価値ある遺跡なのになあ。




さて、次にやってきたのは村役場。
ここ田舎館村には、有名な野外アートがあって、役場の展望台から見ることができる。
展望台は天守閣を模してある。



最上階から見下ろすと、今年のデザイン「竹取物語」が、うっすらとわかる。
残念ながら、まだ植えて日が浅いため、水面が透けて見える。





展望台から見下ろしながら、弥生時代にここに住んで稲作に励んだ弥生人の遺伝子が現代に蘇っている!と、僕はそう感じた。
このアートを主催している人たちと同じように、弥生の人々も、あんがい稲作を楽しんでいたのかもしれないと。
お~い、はじめるぞ~!とか騒ぎながら、ずらりと一列にならんで苗を植えていたんじゃないかなあ。
で、作業のあとは、みんなで酒盛り。
ああそれこそ、良き日本のムラ社会、田園風景の原型ではないか。

あれ?
ところで、その垂柳の弥生人は、火山灰をかぶった水田を捨てて、どこに行ったのだろう?

稲作を捨て、山に入ったか?
それとも、ほかの土地で新たに水田を耕し、集落をつくったか?
それにしては、そんな遺跡の話は聞かない。
いやいや、まてよ。
まだ見つかっていないだけかもしれない。
なにせ、垂柳の水田でさえ、2000年経ってようやく日の目をみたのだ。
結論は、あと数十年待っても遅くはないだろう。



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