栗太郎のブログ

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三陸ふたり旅(1) 普代・田野畑

2012-10-21 21:07:18 | 見聞記 東北編

お彼岸の二日間に、僕は久しぶりにどこかに旅に行こうとしていた。
その旅先を三陸に決めたきっかけは、新聞に載っていた一枚の写真だった。
それは、気仙沼の陸上に、津波によって打ち上げられたままの大型船。
振り返れば、震災から一年と半年。
この時点で、東日本大震災による被害者は全国で、死者15,870人、行方不明2,814人。(9月12日 警察庁発表)
その爪痕はいまだ癒えず、いやむしろ、後世までそのまま残るであろう爪痕も多い。
そんな震災の地に、去年はまだ行く気にはなれなかった。
被災者からすれば野次馬にしか見られないだろうという後ろめたさがあった。
ボランティアという手もあるが、僕にそんな時間と金のゆとりがあるのなら、なにも夜のバイトなどはしていない。
募金だって、その使途不明瞭不可解な現状はよく知られているところで、どうも盗人に駄賃をくれてやるようにも思えて不満だった。
とにかく、とかなんとか言い訳を並べ、ずっと僕は三陸に背を向けていたのかもしれない。
新聞の写真が目に止まったのはいい機会なわけで、現地を旅してお金を使うことは復興へのささやかな手助けになるはずだ。
いつもひとりの旅だけど、ふと思い立ち、太郎にその週末の予定を尋ねると「空いている」という。
どうせ太郎が一人では行けるところではない。
詳しいことを知らなくてもいい。行って、見て、何かを感じるだけで、彼にとってもいい見聞になるだろう。

「よし、三陸に行こう」即決だった。


出発当夜。
夜中12:30に家を出て、朝5:00すぎには盛岡についた。
そこから太平洋沿岸の田野畑村までおよそ100km、2時間。
作家・吉村昭が、何度も通ったであろう道だ。
僕は、『梅の蕾』に描かれるその僻地度を、直に走って感じることからこの旅をはじめたかった。

 盛岡から山道に入り盛岡の街を見下ろすと、雲海が広がっていた。

ようやく着いた田野畑の村役場周辺は、海岸からは上ったところの内陸にあり、津波の害が及ぶようなところではない。
まずはここを素通りして、北に隣接する普代村へ。
ここの市街は、低地にありながら、見たところ主だった被害はなかった。
それは海の入口に造られた水門のおかげだった。
水門付近は、一見何事もなかったかの様子だが、水門脇の崖の樹木は、ある一線から下がみな枯れていた。

 水門

 下方、ある一線から枯れている

それは、その高さまで津波が押し寄せた証拠で、実際、津波は高さ15mの水門を超えている。
ただ僕ら二人は、それを目撃しただけではまだ津波の実害にピンと来ず、とりあえず海岸線を南下した。

  【普代村】 人口       3,071 
         浸水範囲人口 1,151 
         死者         0 
         行方不明      1 
         建物倒壊      0
        
        ※人口は、平成23年3月1日総務省発表のもの。
        ※死者・行方不明者・建物倒壊数は、平成24年3月11日消防庁災害対策本部発表のもの。
        ※以下、このあとに記述する数字は同じ出典によるものです。
        ※なお、数字の相違があるかもしれません。正確なデータは各機関等でご確認ください。



海岸線近くを走り田野畑村に入り、まず北山崎の景勝地を見学した。
さすがリアス式海岸の断崖、の絶景。
しかし今は、それだけの景観をつくりだすほどに、ここ三陸の地は太古より大自然の猛威にさらされていたのだと感じている。

 北山崎

さらに南下し、羅賀の集落に近づくと、崖の向こうにホテル羅賀荘が見えた。

 羅賀荘

このホテルは、『梅の蕾』にも出てくる早野氏が、村長の時代に観光の目玉のひとつとして建てられたものだ。
津波は、海岸べりに建つこのホテルの4階部分にまで達したという。
今は営業再開に向けて、工事中だった。

明治のはじめ、戊辰の役の終盤のこと。
岩手県沿岸部では、宮古湾をはじめ、函館を根拠にした旧幕府軍と新政府軍との海戦があった。
その史蹟が幾つか残っていて、そのうちの一つ、ここ羅賀は、旧幕府軍の軍艦「高雄」が座礁した浜なのだ。
そして、羅賀荘には「高雄」の碇が展示してあったなずだった。
入口近くに車を停めて、通りすがりの漁師のオジサンに、
「軍艦高雄の碇が、このホテルに置いてあったって聞いたんですけどご存知ですか?」と尋ねると、
「ついてきな」と言い捨て、どんどん工事現場に入っていった。
監督らしき人を捕まえて、
「この人がな、見たいもんがあるんだと」と、臆面もなく願い出ると、
困惑顔の監督は苦笑いを浮かべながら「じゃあ立会いのもとで」と了承してくださった。
「前はなあ、このへんにどんと置いてあった」と漁師のオジサンがいう場所には、建築用の資材が積まれていているだけで、
どこかに流されてしまったとしか思えなかった。
その脇に、無造作に転がっているコンクリ片があってよく見ると、「高雄」の記念碑だった。
かろうじてこれは流されずにすんだようだ。
ホテル再開時には、これも修復されることだろう。

 軍艦「高雄」記念碑

戻りながらオジサンに、
「村長だった早野さんてどうゆう人だったんですか?」と聞くと、
「ううん、やり手だったねえ」と遠い目をした。
「じゃ、吉村昭って作家は知ってます?」と聞くと、知らない、と返ってきた。
「たしか、名誉村民のはずですよ」と付け足したが、興味がないようだった。
ちなみに、その吉村昭『三陸海岸大津波』では、明治29年にこの羅賀の集落に押し寄せた津波に記述があって、
高台およそ50mの位置まで、津波が俎上したらしい。

 羅賀荘からみた羅賀の集落



ここから南に行った島越の集落は、壊滅的な被害だった。なにしろ、駅がなくなっている。
ローターりーがあったような植え込みの残骸のおかげでようやくそこが駅だったと気付いたのだ。

 駅のあと

視線を、その「駅」があったであろう空間の延長線上に向けると、たしかに右にも左にも、双方の山にはトンネルの出口がある。
だけど、その二つのトンネルをつなぐ線路も、駅も、ぽっかりとなくなっている。
その後ろにあったであろう住宅も、あとかたもなく、もともと駅の向こうがどうなっていたのかの想像さえもできない。
ここに宮沢賢治の詩碑があったはずなんだけどなあと、工事用フェンスに近付き、間近まで行って初めて存在に気づいた。

 賢治の詩碑

詩『発動機船 第二』が刻まれ、マントを羽織った賢治のシルエットがその隣りにあしらわれている。
ここ、島越は観光船の発着所でもあるわけで、賢治もその船に乗りこの詩を書いている。
しかしせっかくの詩碑も、この惨状のなかで、なにか虚しく佇んでいた。
ちなみに、賢治は明治の津波のあった年(明治29)に生まれ、昭和の津波のあった年(昭和8)に亡くなっている。
なにか、因縁めいたものを感じずにはいられなかった。


南に行くと、鵜ノ巣断崖の景観。

 鵜ノ巣

ここは、吉村昭『星への旅』の舞台。太宰治文学賞をとった作品で、彼の出世作となった。
ただし、集団自殺の筋書きなど僕個人としては好みではないが。(レヴューあり)
で、その断崖までの道すがら、吉村昭文学碑がある。

 吉村昭文学碑


  【田野畑村】人口      3,831 
         浸水範囲人口 1,582 
         死者        14 
         行方不明     15 
         建物倒壊     270


南に隣接する岩泉町の小本の集落は、昭和8年の津波で118名死亡、77戸流出という被害があったのだが、
この震災では少被害ですんだ。
とはいえ、人が亡くなっていることにはかわりはない。

映画『ツナグ』で樹木希林が、依頼者と死者の取次ぎに悩む松坂桃李にいう。
「人は、見ず知らずの他人の死には鈍感なのよ」と。 (多少の記憶違いはあるかも)
そう、僕自身も他人の死に鈍感だった。
どれだけメディアで惨状を伝えていても、わが身に置き換えるというイマジネーションに欠けていた。
この旅で、そうであった自分をいやというほど思い知らされることになる。

  【岩泉村】 人口     10,597 
         浸水範囲人口 1,137 
         死者          7 
         行方不明       0 
         建物倒壊     200




旅から帰ってきてすぐは、なにかを話そうとしても、堪えきれない感情が胸につまってしまいどうしようもなかったけど、
なんとか今はもう大丈夫になってきた。
こうして僕はようやく、ひと月が過ぎようとする今頃になって旅日記を書き始めています。


(2)へつづく



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