栗太郎のブログ

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チベット巡礼の旅(5) 大昭寺とふたたびバルコル

2019-05-07 01:09:46 | 見聞記 箱根以西

さて、ラサで最古刹の寺院、大昭寺へ。別名、ジョカン寺。
門前、市をなす賑わいの参道で、漢方薬の店先で目に留まったものがあった。真っ赤なさやえんどうを干したもの?それにしてはデカいぞ?と思っていると、察したNさんが「ヤクのおち〇ち〇」と耳元でささやく。こんな長いの? 強壮剤にでもなるんだろうなあ。「ヤクは、全部使います。肉も、皮も、角も、おち〇ち〇も。ふふ」。Nさんはちょっとはにかんだ。



さて、正面右手の検問を過ぎて、



広場へ。



2008年3月、チベット人による民衆蜂起はここから始まった。その過去を繰り返すまいとする当局の監視下の元、広場の隅には軍隊の10人ほどの小隊が控えていた。僕が気付かずにパシャパシャ写真を撮っている前をその軍隊が過ぎようとした瞬間、「グンタイ、ダメデス!」と言って、スマホの前を遮るようにNさんが手をかざした。その緊張感に、いまだチベット人の暴動の根は絶えていないのだなと痛感した。


大昭寺は、7世紀ソルツァン・ガンボ王に嫁いできた中国人王妃・文成公主が招来した釈迦十二歳像を祀るために建立した。ちなみにその複製はポタラ宮の展示室にあり、「お釈迦さまはご自分のその像を見た」と伝わっている。偶像崇拝を諫めたお釈迦さまがそれを認めるはずはあり得ない、と思ったが、ややこしいのでスルーした。
本堂前では、所狭しと五体投地をする信者の方たちであふれている。



昨夜は暗かったのでよくわからなかったが、正面には、工事中の養生幕が張られていた。
見ることはできないがこの中には、お釈迦様の髪の毛から生じたという柳の木と、18世紀に流行った天然痘の根絶を願った「痘痕碑」がある。



その左横には、「唐蕃会盟碑」がある。
821年、チベットが唐と和平を結んだ記念に建てられた。まあつまり、この時点でもともとチベットは独立国として、漢民族と対峙してたわけで、「チベットは以前から中国の一部」という当局の主張は成り立っておらず、武力にまかせて併呑したに過ぎない。



さて、Nさんが「入りましょう」と促してきたが、僕には所持金の不安があったので、先にお土産を買うことにして、クレジットカードが使える店に案内してもらった。ずいぶんと日本人観光客に慣れた様子のその店で、ちょっと高めのマニ車や、ポタラ宮で気になっていたトルコ石やヤマサンゴの宝飾品を選んだ。やはり安い。このあと、コートのようなチュバや、小さくていいから絨毯も見てみたい、と物欲がわいてきていた。と、その時、レジではなにやらトラブル発生の空気。どうやら、僕のマスターカードが何度やってもエラーになるらしい。店員も慌てていたが僕のほうが血の気がひいた。え?日本じゃ普通に使えるのに、これ買えないってこと? 高山病の治療費で現金は減ってはいたが、カードが使えるのならとヤムドゥク湖にも行ってしまったし、こうなるんだったらもう少し現金持ってくればよかったなあ、と思いながら、社長室に案内された。別に詰問うけてるわけじゃないのだが、大変な状況にはなっていた。カード会社に連絡してもつながらないし、そのうち日本時間で17:00は過ぎるし、明日は日曜日だし、、、。アリペイやらも段取りしてもいっこうにうまくいかないし、それにしてもどこに電話しても手立てなし。しかもこの日に限って充電器をホテルに置いてきたので、「充電15%」から減っていく数字がカウントダウンに思えてくる。Nさんはカード大丈夫、って言った手前、気前が悪そうだった。結局、諦めた。時間の無駄である。残念そうな社長さんに手を尽くしてくれたお礼を言いながら店を出た。
ちなみにこの時、たまたま日本人のツアー客が店内にいた。顔つきをみただけで、あこの人たち日本人だ、とわかった。久々の日本人との遭遇だった。添乗員の方に、なにかアイデアはないかと尋ねると、表情も一切変えずに「お金の相談はできかねます」とけんもほろろ。いや、貸してくれとは言ってないのよ、こういうトラブルが以前なかったか、その時はなにか方法はあったのか、を聞きたかっただけなのに。それにつけてももう少し言いようがあるでしょうに。この旅で一番冷たかったのは中国人でもなくチベット人でもなくこの人だった。

いったんホテルに帰って、身軽になることにした。
昼間の路地も、趣きがあっていい。ここだけ見ると、地中海沿いの港町の路地じゃないか?と勘違いしそうだ。行ったことはないけど。



日本では見かけない軽車両が多数、路地に入り込んでいる。ちょと可愛い。



どこでも走る電動バイク。



三輪タクシー、別名「輪タク」。観光客に大人気の様子。



さっき、本堂の前で五体投地をしていた人たちが敷いていたのがこのマットか。



念のため、近くの中国銀行(もちろん、広島が本店の銀行ではありません)のATMでキャッシングに挑戦したが駄目だった。
がっかりしながら、ホテル入り口扉のデザインに見入る。



Nさんとはここで別れた。病院に寄って、診断書をとってきてくれるという。

さあ僕はまた、バルクルに戻った。
もう自分がここに居ることに違和感を感じない。信者と一緒になって歩く。



となれば、手持ちが少なかろうが欲しくなるのはマニ車。皆の手元をみると、デザインが多種多様。当然、良いなあと思うものは髙そうだ。
結局えらんだのは、80元の赤いもの。時計回しにぐるぐると、真言を唱えながら歩く。が、これが案外むずかしい。時計回りというのが厄介で、重しは上下にばらつくし、気が散るときれいに回らない。マニ車に神経がいくと、真っすぐに歩くことを忘れてしまう。これでは、雑念を持った者だとすぐに見分けられてしまうわ。まあ慣れるまでゆっくりゆっくり。




店にはいろんな土産物が売られていて、雑貨類をはじめ、衣装や帽子や、絨毯や。



黄色い建物がやけに目立った洋服屋さん。西洋風でありながら、バルコルの風景に溶け込んでいる。



バルコルの1階はたいてい店舗だが、2階3階は食堂か旅館になっているとか。
大勢でやって来た信者が泊まるそうで、大部屋になっていて、4~5人で来れば一人当たり50元ほどで済むらしい。ただし、外国人は
NGなんだと。残念。



周りをマニ車にぐるっと囲まれたお堂。皆、参拝を済ませるとお堂を一周マニ車を回してから去っていく。



お堂から出てくる信者は老若男女。よたよたしたおばあさんもいて、ゆっくりながらしっかりした足取りに、つい目が離せなくなっていた。



五体投地をしながらお布施をもらっている少年がいた。



目に留まった人が次から次へ近づいて行き、少額のお札を渡して去っていく。そのお札を、少年は手に握りしめた札束の中にガサガサと紛れ込ませる。



写真を撮らせてもらった手前もあるので、僕もわずかでも、と歩み寄ろうとして向こうに立つ二人に目がいった。新婚なのか、記念写真を撮っている幸せそうなカップルだった。はっとして、目の前の少年に視線を戻すと、彼はお札をきれいに揃えながら数を数えていた。まるで、ちょっと客が引いた後にレジの売上を確かめているような素振りに見えた。たぶん今の僕よりお金を持っているであろう少年に1元札を一枚差し出すと、彼はぶつぶつと数えたままサッと受け取った。
そのあとの少年の様子を見ていると、束ねた札を握ったまま道端に向かって歩き、そこでタバコをふかしながら腰を掛けていた親方風の親父に束を差し出した。そしてまた少年は自分の持ち場に戻ると、子供にしては野太い声で五体投地をはじめた。
向こうのカップルと、こちらの少年と。このふたつの人間模様が交差している光景に僕は複雑な気分になった。



寄り道もせずに歩くようになったので、一周あたりの距離を測ってみた。一周だいたい10分そこそこ。そして、ほぼ1,000歩! 万歩計の誤りかと思ったが、数度測っても毎回1,000歩。大股で歩いていたので、700m以上800m未満か。


20:00過ぎ。さんざん歩いて、茶店に寄って一休み。



ヤクのホットミルクを頼んだ。小さなカップで22元。ふつうの牛乳よりちょっと濃いかな?くらいの味。



せっかく来ているのがもったいなくて、まだまだ歩く。
いろんな思いが浮かんできたり、いつの間にか無心になっていたり、そうこうしているうちに日が暮れてきた。



やはり、昨晩の青が異様なのではなく、ラサの夜は世界中どこにもない別格の青だ。



人が少なくなったときは、五体投地の信者がよく目立つ。真ん中の白い石畳の上を進んでいく。



石畳を横から眺めてみた。白も黒もテカテカとなめらかそうに光っていた。真ん中の石を撫でると、磨かれたようにツルツルしている。次の五体投地の信者の邪魔にならないように、僕は少しナデナデしていた。



歩きながらふいに、バルコルはおおきな回転扉だと思った。もしくは、自分の足で歩くメリーゴーラウンドかと。大勢で跳んでいるおおきな縄跳びに合流するような感覚ですっと混ざって、好きな時に脇路地へ出ていく。しかも、ペースは自分の思い通りでいいので、その流れを川に例えれば、淀みや岩にはじける流れや、鉄砲水や、ほんと思い思いの人の流れ。おまけにどんだけ歩いても終点は自分で決めるので、真っすぐな直線の通りのように「ああ、ここで終わりか」というものがない。気に入ればいつまでも歩いていればいい。自分自身が、百万遍のお数珠の玉のひとつになったような気分だった。

21:00頃、ようやく空も暗くなってきた。その分、照明の明るさが余計目立つ。



辺りには紅い国旗が無数にたなびきながら、遠くに、ライトアップしたポタラ宮が見えた。



もうあそこは、観光施設でしかないのだなあと感慨が深まる。そしてここラサは、どんどん中国に染まっていくのだろう。
チベット人の容貌はどこかでみたような既視感があったが、アメリカインディアンだな、と考えた。その時、いくらダライラマがアメリカに助けを求めようとしても、インディアンとの過去があるアメリカには手を差し伸べる大義はないのじゃないか、と冷めてしまった。

もう21:00をまわっているのに、まだまだ観光客と信者がいなくならないのがすごい。もしかしたら、夜通しいるんじゃないか?って思えたが、確かめるには僕はもう疲れていた。
廻る周数は奇数がいいと聞いたが、もう何周歩いているのかなんて覚えてやしないので、切りのいいところで上がることにした。




晩飯は、初日にガイドさんに紹介してもらったホテル近くの広東料理店。遅くまでやっているのはありがたいが、結局中華料理になる。



厨房から顔をだした青年が、「ニーヨウシェンマ?」と聞いてきたので、メニュー表を開いてセットメニューを指さした。



頼んだのは、腊味保仔飯。42元。
Rice With Sausage In Clay Potとあるので、ソーセージの炊き込み土鍋ご飯、か。
薄切りソーセージ、猪肉、小松菜、ブロッコリー茎、ご飯もコンソメ味かなにかで薄く味付けしてある。疲れた身体に染み込んでいった。帰り際、お代を払いながら「ヘンハオチー」と声を掛けると、不愛想だった親父がニコリと笑って、当然さとばかりに軽くうなずいた。

思い返せば、ラサで会う漢民族はみな優しかった。慧海が感じた、横着で計算高いと言った印象は、僕には与えてこなかった。寺院は別として、ラサの街で出会う人々はほぼ漢民族で、チベット人を見かける(肌の色や服装ですぐわかる)のは随分と少なかった。看板から言葉から街中の食堂まで、中国政府の肝煎りでどんどん中国化している。かつて「世界一不潔な町」という不名誉な称号をいただいたラサも、道端には人糞犬糞はもちろんゴミなどもなく、もちろん乞食も(見かけないだけ?)もいない。
真白き絵の具も、少しの赤でも混ぜればすでに白ではない。ましてや、赤の量が半分以上を越しているのであればもう白とは言えないのだ、と強く感じた。


ホテルの部屋に戻った時は22:00を回っていた。窓から覗いた十六夜は、雲にかかりながら東の空に上ってきていた。



本日の万歩計、16,000歩を記録。
一日の最後に所持金を数える。254元(およそ4600円)と、日本円の小銭936円。これであと二日、か。




(つづく)



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