栗太郎のブログ

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三陸ふたり旅(8) そして旅の最後に 

2013-03-16 03:28:42 | 見聞記 東北編

女川を出て石巻に向かった。
この旅、あとはもう、太郎の行きたいところに行くだけとなった。
特撮ものと戦隊ものが大好きな太郎にとって、とりわけ「ゴレンジャー」の産みの親・石ノ森章太郎は憧れの存在。
その石ノ森章太郎の作品をじっくり見ることができる「石ノ森萬画館」という施設が、石巻市街にあるのだ。
ただ、石巻市内も津波の被害が甚大で、このとき館は、傍目には建物自体何事もないように見えても、浸水の影響で営業不能状態だった。

あてづっぽうに国道を走り、そろそろ石巻の市街地か、と思わしき橋を渡った先の左手に、その萬画館が現れた。



このあたりの建造物は、結構残っていて、マスコミでいう石巻の被害がどこなのか、正直わからなかった。
浸水による被害がどれほどかはわからなかったが、少なくとも流されずにすんでいたからだった。
あとで確認してみると、この写真の奥にみえる小さい山が日和山で、あの山の向こうの住宅が根こそぎ津波にかっさわれたのだった。
おそらくこのあたりは、日和山が防波堤の役目を果たしてくれて、水の勢いをとめてくれたのが幸いしたのだろう。(ちがっていたらごめんなさい)
ただ日和山の向こうの住宅群は無残で、今渡った川(旧北上川)を逆流する濁流の勢いに押しつぶされ、多くの住宅が内陸方面へと流された。
そして、橋の欄干に堰き止められて、ごっそり引っ掛かり、粉々に砕けていた。
このときの僕らは、まさかそんな光景が震災のときにここで起きていたことも知らないままだった。
太郎といえば、萬画館の中を見ることはできないとしても、目の前にあるということだけで彼のテンションは急上昇したのは言うまでもない。

近くにマンガロードの案内板があった。




とりあえず、街中を流せば、どこかでキャラクターの像に出会えるだろう的な流れで車を走らせる。

 赤レンジャー


 009


駅前近辺は、津波の傷痕も見当たらず、キャラクターと記念写真を撮っていると震災のこともふと忘れてしまいそうになる。
でも、駅前商店街の多くがシャッター通りとなっているのは、震災前からなのか、震災後からなのか、が気になるところ。


【石巻市】  人口       160,336
        浸水範囲人口 112,276 
        死者         3,182
        行方不明       553
        建物倒壊     33,378





さて最後に、石巻から内陸の地、登米市中田町へ向かう。
そこは石ノ森章太郎の生まれ育った町。生家の近くにも、石ノ森章太郎の展示館があって、ここは営業しているのだ。

この町にも、いくつものキャラクターが街道沿いに展示してあった。


 仮面ライダー


 さるとびエッちゃん


町の中心地にある「石ノ森章太郎ふるさと記念館」。



この日。
ゆとりをもって廻れるつもりでいたので、女川の秋刀魚収穫祭でついついのんびりしすぎてしまい、ここに着いたのは閉館近く。
見学できる時間は短かったのだけど、それでも太郎は不満も言わずに、うれしそうに館内を見てまわる。
さらりと見終えた僕は、休憩目的で、最後にビデオシアターに腰をかけてアニメ『小川のメダカ』を観ていた。
内容は、石ノ森章太郎がふたりの息子を故郷・中田に連れて帰ってくるというもの。
田舎の原風景を期待してやってきた子供たちが見た父の故郷は、自動車が行き交う騒音やネオンの輝きなど、都会と変わらない風景だった。
ふたりは、なんだお父さんが言っていた景色はなくなっているじゃないか、と残念がる。
石ノ森章太郎自身も、かつての小川でメダカを追いかけた田舎ではなくなっていることに失望を感じる。
だけど、ひとつだけ昔のままのものがあった。(それまで書いてしまってはマズイだろうから、知りたい人は観てきて下さい)
そのことが、せめてもの慰めとなって、まだあの田舎は残っているのだと、気持ちを新たにする石ノ森章太郎だった。

さて、僕がこのアニメを観ている最中といえば、正直、特に感じるものはなかった。
どちらかというと、古い昔のキャラクターがストリーテラーとなって石ノ森所太郎の生い立ちを紹介するとか、
もしくは未発表のヒーローものの限定公開とか、そういうものを期待しながら観だしたので、物足りない印象を受けたのだった。
それが。
館を出て車に乗り込み、空が夕闇に染まりだした頃、なんだかさっき見終えた『小川のメダカ』の世界が、
とても哀愁たっぷりに心に引っかかっている。
そのせいか、じゃあこれからもう宇都宮に帰るだけだってなったところで、僕の気分が急変した。
太郎に、君が一番来たかったのはここだったのにゆっくり観れなくてゴメン、と謝ると、いいよと優しく笑ってくれた。
来れただけでもうれしいとまで言う太郎の人の好さに、
ああ、もう太郎とふたりで出掛けることは当分ないのだろうな、そう思い立ったところで今まで味わったことのない
寂寥感に襲われたのだった。
その顛末が、旅から帰ったあとにようやく書き留めた日記だった。



人生において、何かの出来事に際して「これがはじめて」というのはそのときにわかる。
だけど、「これが最後」というのは、往々にしてあとになって気付くものだ。
でもこのときの僕は、あとになってではなく、旅の最後に気付いてしまった。
その感情を言葉にするならば、「後悔」だった。
なんで今までもっと一緒にいろんなところに行って、いっぱい遊んで、いっぱいしゃべって、もっと多くの時間を
過ごしてこなかったのだろうと後悔したのだ。
たぶん、世間のほかのお父さんの中で比べてみれば、息子と一緒に過ごした時間は長い方なのだろうけど、
そんな相対的な話はどうでもよかった。
このときの僕にとっては全然満足できるものではなかった。だから後悔の念が胸を押しつぶしてきたのだった。


昨秋のドラマ『ゴーイングマイホーム』のなかで宮崎あおいが、失踪した夫を探し当てて、訪ねていった場面がある。
出て行ったことを夫は、後悔していないと言う。
その言葉を聞いた宮崎あおいは、けな気にも迷いを吹っ切ろうとする。
そのことを父・西田敏行に話すときに、フィンランドの諺を引き合いにだすのだ。
「後悔しているということはそこに愛があったから」と。後悔してないんじゃ、もう愛はないのだと。
だからもう、愛のない人を追いかけても仕方がないでしょうという。
この場面を見ているときの僕には、「後悔」という言葉と、「愛」という言葉が、つよくつよく心に響いた。
旅の帰り道にとてつもない後悔の念に襲われたのは、僕の中で太郎に対する愛があふれていたからだったのだ。
それに気付いたとき、ようやく救われた気がしたのだ。
ただし、それは帰ってきてからしばらくしてからのこと。
このときの僕は、まだ打ちひしがれたままだった。


高速を飛ばしながら、隣りでは太郎が寝息を立てて眠っていた。
ラジオからは、昨日今日何度も耳にした、山下達郎の『希望の光』が流れてきた。
歌詞の中で言う。

 『 運命に負けないで
   たった一度だけの人生を
   何度でも起き上がって
   立ち向かえる力を送ろう 』  と。

その歌声を聴くたびに、さっきまで見てきた被災者の立場を思うにつけ、胸が苦しくなった。
歌はそのあと、あなたに、僕に、そしてすべての人の人生に希望の光が照らされますようにと繰り返す。
自分や誰かにだけじゃなく、あまねくすべての人へと願う歌詞に、胸を締め付けられた。


かつて、ジョン・レノンは、天国や地獄がないことや、国境がないこと、宗教もないことを想像してごらんと歌った。
今、世間は想像することが足りないんじゃないかと思う。
もし突然子供と別れることになったら、家がなくなったら、そう想像すればするほど、何でもない日常が
どれだけ幸せなことだろうかという実感に包まれるのに。


詩人・茨木のり子には、『自分の感受性くらい』という詩がある。(検索すれば出てくるので全文引用します)

 『 ぱさぱさに乾いてゆく心を
   ひとのせいにはするな
   みずから水やりを怠っておいて

   気難しくなってきたのを
   友人のせいにはするな
   しなやかさを失ったのはどちらなのか

   苛立つのを
   近親のせいにはするな
   なにもかも下手だったのはわたくし

   初心消えかかるのを
   暮らしのせいにはするな
   そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

   駄目なことの一切を
   時代のせいにはするな
   わずかに光る尊厳の放棄

   自分の感受性くらい
   自分で守れ
   ばかものよ     』

三陸を旅した帰り道、自分の感情をコントロールしきれずにもがいていた僕の脳裏に浮かんできたのが、この詩だった。
助手席では、疲れた太郎が眠っていた。僕はこの子に、いままでなにをしてやれたのだろうか。
車を南に向かって走らせながら、僕は誰かにばかものよ、ばかものよ、と何度も叱られているような気持ちになり、
うちに着くまでずっと泣きっぱなしだった。




  


  


  






そして。


我が家版『希望の地図』を終えてから、およそ半年がたった。
できるだけ太郎やカミさんと過ごしてきた半年だった。

さっき、ワゴン車に荷物を詰め終えた。
ふたりが我が家を去る前に、なんとか三陸の旅を書き終えることができた。
あした、太郎とカミさんは引越しをする。



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