栗太郎のブログ

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六月の津軽の旅(6)  長寿の林檎の木と、しゃこちゃんと、立佞武多

2011-08-02 02:54:42 | 見聞記 東北編

司馬さんも訪れた、日本で一番古い林檎の木を見ようと向かっている。
走れども林檎農園ばかりが広がる岩木川中流の、つがる市柏桑野木田(旧西津軽郡柏村)。
司馬さんが「北のまほろば」の最後の締めくくりとして選んだ場所だ。
その林檎農園の場所は、めっぽうわかりづらい。途中、案内看板が気がむいた時だけある、そんな感じ。
駐車場さえないその現場は、「ここでいいのか?」と疑うほどの、いたって普通の林檎園だった。

 看板はある。

間違っていないか、おそるおそる声をかけてみると、「ここですよ。」と和やかなご婦人の答え。
僕の中では、お土産物売りのテントや小屋があって「歓迎!日本一長寿の林檎の木へようこそ!」みたいな立看板とノボリがたなびく、
そんな風景をイメージしていたので意外だった。
ご婦人はどうやらここの奥さんらしく、
「本来観光地ではありませんからね。ですけど、見学者はバスを数台仕立ててやってくるんですよ。」と、
自慢するでもなく、嫌がるわけでもなく、にこやかに笑っていた。



現在、農園内は部外者立ち入り禁止。わざわざバスの乗ってやってくる見学者でさえ、柵の中へは入れない。
それというのも、枝の広さと同じくらい、地下には根っこが延びているらしく、大勢の見物人がその根っこの上を踏み固めてしまっては、
木の生育に良くないかららしい。
でも、今回は、たった僕一人。奥さんの「どうぞ」の一言が嬉しかった。

明治11年(1878)に40~50本植えた林檎の木のうち、いまだ3本の木が現役でいる。
品種は紅絞(ベニシボリ)が2本と、祝(イワイ)が1本。樹齢なんと133年になる。これらが日本最古の林檎の木。
紅絞のほうは柵で囲われ、祝にはしめ縄が巻かれていた。

 紅絞


 こちらが、司馬さんも本で書いた、祝。


一般に、林檎の木の寿命は80年という。まるで人間の一生と似ている気もする。
それが、133歳の長寿となれば、まるで仙人でしょう。こうなりゃ立派な守り神で、しめ縄が似合うはずである。
正面の紅絞は、周囲3mもある太い幹で、枝の延びる広さは15~20mにもなるという。
だから、広く張り出した枝はその重さに耐えれるように、つっかえ棒がいくつも施されている。

 つっかえ棒で支えてる。

 手入れも大変そうだ。

 実はまだ小さかった。


ただ、この3本だけが異常に生命力があったわけでもなく、他の農園だったら、新しい品種や人気の品種に植え替えられていただけの話。
大事に大事にされて、この3本は、青森で林檎が栽培されだした明治のはじめからここに根を張っている。

司馬さんは「北のまほろば」で、林檎についての含蓄を披露した最後、小学生の作文で本編を締めくくっている。
その文集の名は『リンゴの涙』。
それは、平成3(1991)、県内の林檎園に壊滅的災害をもたらした台風19号の被害を未来に語り継ぐべく、
弘前大学人文学部が募った作文集であった。
たとえば、そのひとつの抜粋はこう。

  「 ぼたぼた ぼたぼた
    りんごの落ちる音は
    お母さんのなみだが 落ちる音だ 」

母親と子供の心情が伝わってきて、悲しくなってくる。

リンゴの話から離れて、それとは別に、こちらはつい先日のこと。
文藝春秋から8月臨時増刊号『つなみ 被災地のこども80人の作文集』というものがでた。
岩手・宮城の被災各地の小学生から高校生まで、80人の作文が紹介されている。
高校生の現実を受け入れる冷静さには頭がさがり、小学生の拙い文章には、その健気さに胸打たれた。

青森の林檎農園で育った子供たちも、岩手・宮城の津波被害を受けた子供たちも、悔しさに唇噛んで、懸命に踏ん張っている姿が浮かんでくる。
どちらも、東北人。蝦夷が住んでいた頃からずっと、明治維新も含め、喜びよりも我慢のほうが多かった地方である。
我慢こそ、彼らのエネルギーだとも思える。
東北人気質の源泉が、そこにある。
東北地方を愛する司馬さんが、子供たちの詩を紹介して、この旅の終わりとしたのがよくわかるような気がした。

 紅絞。






木造の駅に来た。読み方は、きづくり。



たぶん、日本で一番エキセントリックな駅舎だろう。
この近く、亀ケ岡遺跡で見つかった、遮光器土偶そのままの姿なのだ。

写真をとっていたら、目玉のところがピカピカしてきた。
おおお!と興奮しながら慌てて駅に近づいてみると、やはりちょうど電車がホームにやってきていた。
たしか、子供が泣き出すのでやめているって聞いていたような気がしたんだけど?

駅前で客待ちをしていたタクシーの運転手に、
「今でも電車のたびにひかるんですか?」と聞くと、
「あんれえ?ひかってたがぁい?」と、案外無関心のようだった。
他所者には珍妙な風景も、地元の人間には日常のようで、特段気にもならないらしい。
待合室にいた若者に同じ質問をしてみても、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら去っていった。
あ、なんだかこれって、三厩のダザイみたい!
彼らの気はずかしさに、階段をかけ降りるダザイの背中を見た思いがして、やけに嬉しくなった。
ちなみに、帰ってきてからJR木造駅の時刻表を調べると、上下とも平均1時間に1本以下。
この時を逃したら、前後1時間は電車は来ていなかった。この旅、なにかとすごく間がいい気がする。

で、このあとカルコに行こうと思ってたけど、もう時間がケツカッチンなのでやめた。




それよりも優先したのは、五所川原の立佞武多の館(タチネプタ、ノ、ヤカタ)。
現代の津軽人の情熱が見たかった。
毎年8月4~8日の5日間、ここ五所川原で開催されるねぷた祭り。
ほかのねぷた、ねぶたにくらべて、ここのは高さが異様に高く、22mもあるのだ。
重さにしても18tもあり重厚。毎年、3基の立侫武多が出揃い、祭りを盛り上げる。
その勇壮な立侫武多も、もったいないことにそれぞれ3年で解体し、新しいモチーフに作り替える。
だから、毎年どれかひとつは新しい立侫武多がお出ましになるという循環になる。
その立侫武多を、通年収蔵しているのが、この館なのだ。







こちらは義経。依然として東北の義経人気は根強い。

 


ここは、収蔵庫であり、展示館でもあり、そして、新作の作業場でもある。
ちなみに、1基製作する費用は1200~1300万円(使い回しをする台車は除く)。
とても、地元の熱意がなくては出来たものでない。
ただでさえ、かつて津軽平野のターミナル駅として栄えていた五所川原の駅前は、
都市計画という名目のもと、末期の外科手術を施されているかのような街の様相だった。
他人の想像を押し付けるようで気は引けるが、この工事が、この街の再生の手助けになるとは思えない。
不況が恒常化してきた昨今、分不相応の再開発は、住民の新たな負担にしかならないからだ。
むしろ、殺風景に様変わりした知らない家に住まわされる、尻の座りの悪さを感じはしまいかと要らぬ心配をしてしまう。
それでも暑い夏が来れば、この五所川原の人々は、自分たちの誇りを守り続けるために、ここで燃え尽きるのかくらいの情熱で躍動するのだろう。
セミの地上の一生よりも短い真夏の5日間のためだけに、残りの一年を頑張れるのだ。
そう感じながら、僕はエレベーターを何度も往復しながら、立侫武多を眺めていた。








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