水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

真禅院 <岐阜県不破郡垂井町宮代>

2020-07-22 | ├ 岐阜(ひとり旅)

 

岐阜旅つづき。

 

 

 

 

 

 

目的地、到着です。

 

 

 

朝倉山 真禅院

 

 

 

真禅院は天台宗の寺院で、
かつて南宮大社の神宮寺でした。

 

 

 

寺伝によれば、
739年に行基により創建された宮処寺がその前身とされ、
740年には聖武天皇が訪れています。(by続日本紀)

 

 

宮処寺があったのは、現在の国道21号線あたりでしたが、
その後、790年頃に最澄によって南宮社(南宮大社)と宮処寺が習合され
寺号を南神宮寺に改め、南宮大社の社地に移転。

 

 

さらに、
1868年(明治元年)の神仏分離に伴い、
南宮大社から神宮寺が分離移転。
 
1642再建の三重塔、本地堂などが当地に移築されて、
真禅院と称するようになりました。

 

 

この移転・移築というのが大変な作業で、
約4年に渡る地元の人々の奉仕作業により、
実現したのだそう。

 

 

朝倉山の切り開き整地作業、
南宮大社境内や、南宮山中腹に建っていた、堂塔の解体・資材搬出、
そして移転先での建築に至るまでの全ての作業を、
村人総出で何往復もして行い、
4年もかけて完成させたとか・・。
 
 

 

 

廃仏毀釈による、容赦ない取り壊しやら宝物売り渡しやらが常だった中、
神社・神宮寺側の明哲さと、村民の信心によって円満に神仏分離が行われたという
数少ない例ですよね。

 

 

 

 

鐘楼(県重文)
)明治初年、南宮大社境内から移築・再建

梵鐘は国の重文で、美濃国最古の鐘といわれ、
奈良~平安時代前期に奈良で制作されたと推定されるもの。

 

 

 

本地堂(国重文)1642年建立。
)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。


参拝時は修復中だったため、こちらの案内看板にて・・。
(大修理事業期間:平成27年12月~平成30年12月)

旧:南宮大社本地堂で、入母屋造瓦葺き、妻入りの仏堂。

 

 

 

 

 

観音堂(旧:宝珠院観音堂(高山観音))
)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。
 
768年草創。
移築前は南宮山頂付近にあって宝珠院と称し、
南宮大社の奥之院でした。
 
 

 

 

弁財天堂
)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。

 

 

 

南宮大社と同様、
ヒグラシの鳴き声が響きます。

風も涼しくて、心地よさ倍増。

 

 

 

三重塔国重文)1642年建立。
)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。

 

 

高さ25.38メートルの、美しい塔です。 

 

 

 

 

 

 

護摩堂
※)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。

 

 

釈迦堂

 

 

 

薬師堂
※)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。

 

 

 

十王堂
※)明治初年、南宮大社境内から移築・再建。

 

 

 

 

 

本地堂、三重塔、観音堂、薬師堂、護摩堂、弁才天堂、十王堂、鐘楼・・・
 
さっきも書きましたが
ぜんぶ、村人総出で解体・搬出・移築したんですよね。
 
 
 
 
これだけの建物群の移転・移築を成し遂げるって、
並大抵の事ではないはずで・・・。
 
人々の信心と奉仕の心って、本当に尊い。
 
 
 
 
常々思いますが、
 
自分がどれだけ全国の神社仏閣が好きでも、
地元の人々の崇敬の念には、到底叶わない。
 
 
 

圏外の人間が気にする、
神社との相性がどうだの、庇護してもらえるかだのは、
氏子・檀家と、寺社との結びつきの深さや長さから見れば、
取るに足らないどーでもいいレベルの話。
 
神仏サイドからすれば、
相性云々なんて気にせず、失礼のないようにお参りしてくれりゃ
別に誰が来ようと構わないよーってスタンスだと思う。
 
 
 
 
なので、氏神さん以外のところへ参拝する時は、
いくら居心地良かろうが、癒されようが、
あくまで「部外者としてお邪魔させてもらってる」と思って、
そのへんは身の程をわきまえつつ、
楽しませて頂いております。

 

 

 

8月の猛暑日、
ヒグラシの鳴き声と涼風のおかげで、
随分と体が楽になりました。

 

 

それでは、最後の目的地へ向かいます。

 

 

 

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