京都つづき。
永観堂から蹴上駅へ戻り、祇園四条駅で下車。
ここからは徒歩で。
人混みをかき分けるように四条通りを東へ歩いていくと、
社頭が見えてきました。
(あの中高生と中・韓観光客の多さはなんなのーー)
八坂神社
西楼門 (重文)
1497年造営
角あり狛さんがお出迎え。
今日はお祭り的な何かだったのかしら。どうりで人いっぱいだわ。
境内から見た西楼門
手水舎
舞殿
この日は雲がとてもきれいで、
それだけで何だかうれしい。
そして、神社でいちばん好きな舞殿。
奉納された提灯がいっぱいです。
きれいだなー。
夜は確かライトアップされるんでしたっけ。
それにしても大勢の人。
とても賑やかな境内なのですが、不思議とゴチャゴチャした印象は受けません。
むしろ賑わいの似合う神社というかんじ。
人の多さに負けない強さを持っているような気がします。
舞殿の北側には本殿 (重文)。
1654年造営で、「祇園造り」と称される建築様式です。
主祭神:
[中御座]素戔嗚尊
[東御座]櫛稲田姫命
[西御座]八柱御子神(素戔嗚尊の御子神8柱の総称)
配祀神:
[東御座]神大市比売命、佐美良比売命
[西御座]稲田宮主須賀之八耳神
本来、かなり習合色が強い神社であるため、
明治時代の神仏判然令前の主祭神は以下の3柱。
牛頭天王(素戔嗚尊と習合)、八王子 (牛頭天王の8人の王子)、
頗梨采女 (牛頭天王の后神で、櫛稲田姫命と同一視)。
「牛頭天王」は行疫神(疫病神)とされた外来神で、
のちに、同じく行疫神とされたスサノオと習合しました。
本地垂迹の考えの下、
スサノオの本地(実の姿)であり、
薬師如来の垂迹(仮の姿)とされたのです。
この牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたため、
八坂神社は、明治までは「祇園社」と称していました。
今でも、祇園さんの名で親しまれていますよね。
ちなみに、
“日本三大祭り”の一つとして有名な八坂神社の「祇園祭」は、
明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれていました。
(御霊信仰については、こちらの記事をご覧ください。)
それから、創祀については、
社伝によると・・と書きたいところですが、
諸説あるようでいまいちハッキリしないかんじ。
さてそろそろ日も傾きかけてきたので、
駆け足で境内をまわります。
そうそう。
神社にある建築物以外では、
こういった祓所(はらえど)がとても好きです
その2へつづく・・。