美保神社つづき。
神門
この先にある拝殿と同様、檜材・杉板柿葺きの屋根で、昭和3年造営。
注連縄の直径は50センチほどある立派なもの。
ちょうど神職さんが通りかかったので少しお話を伺ったところ、
5年に一度ほど張り替えると言うことでした。
なお、神門右手の入り口には、
今にも動き出しそうな狛さんたちがいます。
これが、いわゆる「かまえ型(出雲型)」の狛さんなのですねー。
感激。
神門に下げられた大幣(おおおぬさ/大麻)。
このようにぶら下がっている姿は、あまり見かけないので新鮮です。
拝殿
昭和3年造営。
檜造りで、柿葺きの屋根。
船庫を模した独特な造りだそうで、壁も天井も無いのが特徴です。
独特な構造と周囲の山々により、
優れた音響効果をもたらしているのだとか。
ぱっと見、私の大好きな切り妻・四方吹き放しの、舞殿タイプ拝殿なのだ。
拝殿前に座する狛さん。
文政13年(1830年)生まれの、焼き物の狛さんです。
そういえば、豊田市の灰寶神社にも、こんなかんじの子いたなあ。
あちらと同じく備前焼かな。
とても広くて開放的な拝殿です。
いいなぁ。
この中で一日過ごしてみたい。
神紋は「二重亀甲に三の字」。
中からみる神門。
この回廊も、神門と同じく昭和3年の造営。
境内に有る、あらゆるものの造形が素敵すぎて、
やっぱりなかなか先へ進めない。
先って言っても、あとは拝殿背後に回るだけなんですけど、
この時点で、神門くぐってから30分が経過。
一の鳥居からだと既に50分経ってます(笑)。
では、あらためて拝殿前から本殿へ。
はい、こちらが本殿です。
この本殿は、
大社造りの二殿(「左殿」「右殿」)を、「装束の間(末社3つ)」でつないだ特殊な形式をしており、
美保造(比翼大社造)と呼ばれています。
1813年再建の、国指定重要文化財。
向かって左側が、「右殿(二御前)」で、御祭神は事代主神。
その右隣にちらっと見えているのが、
向かって右側にある「左殿(大御前)」で、御祭神は三穂津姫命です。
背後から。
この「左殿」と「右殿」をつなぐ「装束の間」には、以下の末社が鎮座しています。
神役社(御祭神:神屋楯比売命、沼河比売命)
姫子社(御祭神:媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命)
大后社(御祭神:稲脊脛命)
さて、御祭神の事代主神と三穂津姫命について。
三穂津姫命と言えば、事代主神の義母ですし、
えびすさんの総本宮を謳っているだけあって、主祭神は事代主さんかなーと思いがちですけど、
どうやらそうでもないかんじ・・。
まずは御祭神の位置からも、その序列が窺えます。
事代主神:「右殿(二御前)」、三穂津姫命:「左殿(大御前)」なのですが、
古来、神様から見て左座(参拝者から見ると向かって右)のほうが尊いとされているので、
事代主神(右殿) < 三穂津姫命(左殿)。
さらには、左殿を「大御前」、右殿を「二御前」と呼んでいることからしても、
古くは三穂津姫命がメイン(主祭神)だったんだろうと推測できます。
実のところ、
『出雲国風土記』によれば、「美保郷」の名は当地に「御穂須須美命」が坐したことに由来するそうで、
元々の地主神・御祭神は、御穂須須美命一柱のみだったと思われます。
※この御穂須須美命(みほすすみのみこと)は、
大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の御子であり、
建御名方神(諏訪神)と同神とする見方もあります。
古くは御穂須須美命を祀ってたものが、
のちに、中央政権による記紀神話の影響から、御祭神が三穂津姫命&事代主神となり、
さらに時代を経て、事代主神メインな感じになっていった。
こんなところだろうか。
時の権力者の影響による祭神の変更や同化などは、
古来より明治に至るまで、幾度となく行われてきたことで、
特に珍しくもない。
建御名方神も事代主神も好きだから、個人的にはどっちでもマル。
それでも、
かつて祀られていたのであろう御穂須須美命に思いを馳せると、
何とも言えない気持がこみ上げてくるのでした。
その3へつづく・・。