水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

長野県 1 諏訪大社(上社 本宮-3) <長野県諏訪市中洲宮山>

2015-05-14 | ├ 長野(ひとり旅)

 

諏訪大社つづき。

 

 

 

 

 

『布橋(後述)』の前にある数々のお社に近寄っていいかどうか分からず、遠目で眺めていると、
そばでくつろいでいた方が「そこ行ってもいいんだよー」と親切に教えてくださいました。

というわけで安心して寄らせていただきます。

 

 

額堂絵馬堂

明治、大正、そして文久・・・。堂内には奉納された絵馬や額が、ところ狭しと並んでいました。

 

 

御柱祭のメド梃子も。

 

 

次の御柱祭は来年ですねえ。

リアルで見てみたいなぁ。

 

 

つづいては三十九所摂末社遙拝所)です。

文政11年(1828年)造営。

ずらずらーっと境外末社の扁額が並んでいます。

 

 

昔は『十三所用遥拝所」とも称され、上・中・下で各13所ずつ、
計39社の摂社・末社を遥拝する場所だったとのこと。

現在、摂末社は95社にも及んでおり、これらの神々をこの社を通して朝夕遥拝しているそうです。

 

 

ここで、ちょっと変ってるなぁーと思ったのが、
なんで 「摂末社を遥拝」 する場所があるんだろう?ってこと。

 

 

遥拝所というのは、
遠く離れた神社や御神体、神域などの方向にむかって拝むための場所のこと。

拝む対象となるのは、基本的にそこと同等か格上のお相手・・のはず。

(お伊勢さん遥拝所とか、里宮から本宮を遥拝するとか。)

 

 

なおかつ摂末社って、
よその神社の神さんを吸収し合祀した時点で、オリジナルのほうは消滅することが多い。

でも、この計39社の摂社・末社は、今もちゃんと現地に鎮座している。

 

 

じゃあさぞかし立派な神社なのかとググってみると、その多くが小さな『石祠』で、
素人目には残しておく意味がつかめない。

しかも、本来の遥拝所の目的である「御神体の方向にむかって拝む」に添うならば、
計39社の摂末社はみな同じ方向・・『神居』か、その先に無ければいけない事になる。

でも摂末社の所在地みるとそうじゃないんですよねえ・・。

 

 

おそらくは、これら摂末社の多くが建御名方神が入る前の先住の神々であり、
諏訪大社の上社本宮にあって崇め奉るべき、尊い存在なのだろうと想像する。

地元の方いわく

「この神社で一番重要なのが、この道なんだよ。」

というその場所が、『四脚門』(オレンジで囲った部分。※後述)へとつながる階段です。

 

「重要な神事では、大祝だけがここをのぼって硯石へ向かった。」のだそう。

その先には『神体山』と書かれている。

ミシャグジ神の祭祀をする洩矢神(洩矢氏)の神奈備山、『守屋山』のことでしょうか。

 

では『神居』とは何でしょう。

御神体を拝するための拝殿がそちらを向いていることからして、
主祭神である建御名方神の居る場なのですよね?

 

 

ハイ、ここから妄想入りますが、

摂末社遙拝所』それ自体がもう摂末社(先住の神々)と同等であり、
その先にある『神居』(に鎮座する建御名方神)を鎮めている、と。

となると、権力争いに勝って最高位の神となったはずの建御名方は、
土着の神々によって封じなければいけない存在・・『祟り神』ということになっちゃいますが、
トップに立ったかにみえた建御名方神も結局はただのお飾りの傀儡政権で、
実質的権力者は変わらず先住の神々(有力氏族)だったりした可能性も、無きにしも非ず。

あるいはその『祟り神』は、
建御名方神に投影した物部守屋(の一族の残党)だったのかもしれない。

個人的には、建御名方神=長髄彦(もしくは建御名方の子or一族が、長髄彦)なので、
饒速日命がらみで物部が出てきてもおかしくはないわなと。

鎮めなければいけない程に強い存在でないと、中央(大和政権)への牽制にはならないとか?

 

 

いや、実際は案外もっとシンプルで、

大祝=神(現人神)という点を基準にして考えると、
本宮は大祝の先祖である建御名方神を祀っている場所。すなわち大祝の祖霊を祀るところ。

対して、前宮は先住の有力氏族が土着のミシャグジ神を祀るところ。

 

「大祝が神職として神事を行うのが前宮で、

子孫として先祖(祖神/祖霊)を祀っている霊廟(陵)が本宮。

神(御神体)=大祝だから、本宮には御本殿なんかいらない。」

っていう、単純な話だったりしてね。

 

大祝自身が御神体なら、祀るべき神奈備山も本殿も必要ないもんねえ・・。

(ただし後世、『生き神』だの『現人神』だのが複数いてはまずい時代となって、
祭祀対象としての神体山(宮山)が生じたのかもしれない。)

なんやもう複雑で訳わからんので、妄想終了。

 

 

・・ここまで好き放題かいてて何ですけど、

要するに、単純に好きなんですよね~諏訪社。

理由もなく惹かれる。 まあ縁はあるんだけど。

 

諏訪の人々にとっては何千年たとうが外来の神、影のうすーい神である建御名方さんも、好き。

中央にとってまつろわぬ民である、先住の人々や神さまにも肩入れしてしまう。

ついでに中臣(藤原)よりは、物部びいき。

 

そんなわけで、話もえらく長くなってしまったのでした。

諏訪神の系譜や諏訪の歴史はちょっと片足突っ込んだ程度じゃ到底理解できないので、
深く考えるのはこれぐらいにしときます・・。

 

 

摂社

大國主社(御祭神:大国主命(建御名方神の父神)

 

 

こちらは砲弾の碑。

 

 

 

日露戦争の勝利記念として奉納されたようですが、
本物の砲弾なのか、石なのか青銅製なのか、ぱっと見わからなかった。

でも本物(鉄製)ならサビてるだろうしねー・・?。詳細不明です。

 

 

本宮のなかで、いちばん心ひかれた場所がここ。

 

 

勅使殿と、それに連なる五間廊です。

 

 

勅使殿

元禄3年(1690年)造営で、安政年間に大修理を加えたもの。

数々の神事が行われた場所です。

 

 

「神門戸屋」、「帝屋」とも称され、
建武2年(1335年)の大祝即位の際には神事が行われたほか、
元旦の蛙狩神事や御頭受神事なども行われました。

 

 

当時の勅使殿は、現在の神楽殿の前あたりにあり、
拝殿としての性格をもっていたそうです。

 

 

五間廊

安永2年(1773年)造営。

神長官、禰宜太夫、権祝、擬祝、副祝の五官が着座した場所とのこと。

 

 

 

入口御門

文政12年(1829年)造営。

 

 

 

ここから、長い回廊(布橋)がつづいています。

 

 

正面で睨みをきかす龍と、奥には鳳凰。思わず見入ってしまうなー。

見事と言うほかありません。

 

 

子連れの獅子もいました。

 

 

左側にも龍。

 

 

右は亀です。

 

 

布橋

古くは布が敷かれ、大祝(諏訪氏)のみが渡れたところ。

こういう回廊ってなんか好き。

やっぱり、舞殿のように柱があって四方が解放されている建築物が好きなんだな。

 

 

回廊の終わりあたりに、拝殿へと向かう場所がありました。

(もちろん一般人は通れません。)

 

 

四脚門(重文)です。

天正10年(1582年)の兵火により焼失したものを、
慶長13年(1608年)に徳川家康が大久保長安に命じて建立させました。

 

 

先述のとおり、かつては最上段にある硯石へと登るために大祝だけが使った重要な門で、
現在は重要な祭事においてのみ開かれるとのことです。

 

 

この写真の右奥にある社殿の屋根のむこうに、ちらっと見えているの白っぽいのが硯石で、
『諏訪七石』のひとつに数えられる磐座です。

境内の最上段にあり、神が降臨した磐座として信仰されたもの。

 

 

別角度からの写真。

 

 

拡大してトリミングするとこんなかんじ。

(実は現地ではこれも気付かなかったんですけどね)

 

 

神がご覧になるための神楽殿から、
四脚門硯石守屋山 と一直線に並んでいるところを見ると、
やはり守屋山の重要性が大きいような気がします。

 

 

さて、この本宮には本殿がない代わりに2つの「宝殿」が存在します。

 

西宝殿

 

東宝殿 ※造営地)

 

宝殿とは、神輿および御神宝を奉安するための御殿で、一般の神社の本殿に相当します。

寅年と申年ごとに新しく造り替えられるため、現在は上の写真のようになっています。

 

二殿あるので仮殿へ移す必要がなく、新しく造られた宝殿にすぐ遷座できる。

「家の改築をするあいだ、仮家を作ってそっちに移っとく(=遷宮)」という手間が省けるわけですね。

 

 

それにしても、ほんとに新緑がまぶしい。

 

 

 

この時期の神社って最高かも。

 

 

あ、こんなところにも御神紋。

 

 

橋の出口。

ここまで来るのにかなり時間かかってます(笑)。

 

 

その④へつづく・・。

 

 

 


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