水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

吉野 千本桜③ ≪中千本-金峯山寺~吉水神社≫

2018-04-18 | ├ 奈良(ひとり旅)


吉野つづき。 

 

 

  

 

 

 

金峯山寺 仁王門 (国宝)

1456年に再建された本瓦葺の楼門で、
吉野山では最古の建造物

あいにく修理中。

 

 

 

蔵王堂 (国宝)

金峯山寺の本堂です。

 

 

金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺

7世紀後半の白鳳年間に役行者が金峯山を開き、
平安時代に蔵王権現像を安置したといわれています。
 

本尊の蔵王権現は修験道独自の神で、
他に、愛宕権現や若一王子なども独自の神さんになります。

 

 

本堂は平安時代から焼失と再建を繰り返しており、
現在の建物は1592年頃に完成したもので、室町末期を代表する建造物です。

高さ34メートル、四方36メートルという、
東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築。

個人的に、めちゃくちゃ好みの建物です。

 

 

この数年、神社巡りを繰り返してよーくわかりましたが、
私が本能的に惹かれる建造物には、
いつも「神仏習合」「修験道」「室町」といった言葉が、もれなく付いてくる。

「尾張造り」に端を発した、“惹かれる理由探し”だけど、
たぶんそ
の辺りに起源があるんだろうと
徐々に分かってきました。

 

 

 

四本桜

蔵王堂の正面にある四本の桜で、
1333年、北条方から攻められた大塔宮護良親王が、
吉野城の落城寸前、この桜の前で最後の酒宴をしたと伝わります。

 

 

 

愛染堂

 

 

蔵王堂の西側には吉野朝宮跡があって、
現在は妙法殿(写真中央)が建っています。

南朝の天皇4代(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇)が、
政権回復を目指して行宮を置いたところです。

 

 

 

先ほども書きましたが、
やっぱり修験道系にかなり惹かれるんだなって
吉野に来て再認識しました。

 

 

修験道は、
古神道に山岳信仰・仏教が習合して、
さらに密教(天台宗・真言宗)的な要素も加わって
確立した、日本独特の宗教。

山岳修行により超自然的能力を得て、
その力で神仏の加護を得て民衆の救済をするというもの。

 

 

流れ的には、

 

・古来より、山は神々が宿る神聖な場所とされていたが、
奈良時代に仏教が伝来し、山中での修行者が増える。

平安時代、密教の諸派が山岳に寺院を構え山伏が増加。
平安末期には、修験道場(霊山)の出現で山岳霊場が発達。

江戸時代までには、以下の二派に分かれる。
当山派(真言宗系)
本山派(天台宗系)--吉野・熊野が拠点

明治の神仏分離・修験禁止令により修験道は廃止され、
里山伏は、還俗するか天台宗・真言宗の寺院に属すなどした。
 

・・・ということで、
現代では、奈良の金峯山寺、京都の聖護院・醍醐寺三宝院などを拠点に、
信仰が行われているそうです。

 

 

 

東南院

 

 

 

開基は役行者と伝わる、
金峯山修験本宗別格本山です。

 

 

多宝塔

手前のしだれ桜が見事でした。

 

 

 

東南院のほぼ正面に、吉水神社の鳥居があります。

 

 

銅の鳥居~吉水神社鳥居までは、
徒歩で10分かからない距離。

 

 

 

吉水神社

 

 

 

明治初めの神仏分離で吉水神社と改められるまで、
ここは「吉水院(きっすいいん)」と言う、金峯山寺の修験宗の僧坊でした。

吉野に潜幸した後醍醐天皇によって南朝の皇居とされたことから、
現存する唯一の南朝の行宮となっています。

 

 

また、1594年に豊臣秀吉がここを本陣として、
南朝を偲び盛大な花見を催しました。

武将ら総勢5000人で催され、吉水神社に5日間滞在したといわれます。

 

 

年月を 心にかけし吉野山

花の盛りを 今日見つるかな」  豊臣秀吉

 

 

主祭神:後醍醐天皇

配祀神:楠木正成、吉水院宗信法印

 

 

 

今回は時間の都合で中に入りませんでしたが、
隣接する書院(重文)は、初期書院造りの傑作といわれる建築で、
世界遺産にもなっています。

義経潜居の間、弁慶思案の間、
後醍醐天皇玉座の間、太閤秀吉花見の間など、
次の機会にぜひ拝見してみたいです。

 

 

1336年、京から密かに行幸した後醍醐天皇は、
吉水院の宗信法印の援護を受け、この部屋を「南朝の皇居」と定めました。

しかし夢に見た王政復古はかなわず、
1339年にここで病に没します。

 

 

日本史にそう明るくない私でも、
後醍醐天皇と聞いて浮かぶのが
「南北朝時代」と「建武の新政」でしょうか。

 

 

公家と武家の対立が深まった中世、
王政復古を理想に掲げた後醍醐天皇は、
討幕計画の失敗で隠岐の島に配流されてしまいます。

しかし後醍醐天皇の討幕運動に呼応した楠木正成や、
皇子の大塔宮護良親王らが幕府軍に抵抗。

1333年に隠岐の島から脱出した後醍醐天皇は
幕府軍から寝返った足利尊氏・新田義貞らの力も得て、
幕府を攻撃

鎌倉幕府は滅亡します。

 

 

京へ帰還した後醍醐天皇は、
1334年に「建武の新政」を行い、天皇親政(天皇中心の政治)を再開。
朝廷の政治復権を目指しました。

しかし1336年に足利尊氏が武家政治の再興を目指して挙兵し、
湊川の戦により、京で第二代光明天皇を擁立。
(=北朝成立)

後醍醐天皇は吉野に逃れここを皇居と定めます。
(=南朝成立)

 

京都の朝廷「北朝」(武家)
吉野の朝廷「南朝」(公家)

朝廷は二分され、
南朝4代、北朝6代にわたり南北両朝が並立した
「南北朝時代」が始まります。

 

 

南北朝時代はその後60年近く続きますが、
1338年、征夷大将軍となった足利尊氏による室町幕府の成立を経て、
3代将軍の足利義満により、1392年にようやく統一されました。

 

 

最終的に、悲願の王政復古叶わず没した後醍醐天皇。

でも、
何だかんだあっても、足利尊氏は天皇の菩提を弔うために、
天龍寺を造営してるんですよねー。

明治になって、皇統は南朝が正統だとされてるし・・。

 

後醍醐天皇の思いも、少しは緩和されてるといいのにな。

 

 

花にねて よしや吉野の吉水の

枕のもとに 石走る音」  後醍醐天皇

 

 

また、さかのぼること百五十年前の、1185年。

頼朝に追われた源義経が、静御前や弁慶とともに
ここ吉水神社に5日間潜居しました。

 

女人禁制の大峰山に向かうため義経はここで静御前と別れることなりますが、
愛する人を置いていく辛さと、見送る辛さ。
どちらの哀しみも同じくらい深いよね。

 

 

吉野山 峰の白雪ふみ分けて 

入りにし人の 跡ぞ恋しき」  静御前

 

 

 

さて、ちょうど12時になったのでこのへんでお昼にします。

 

 

吉水神社の鳥居右横に隣接しているお店があったので、
入ってみました。

 

 

いただいたのは、
柿の葉ずし、ごま豆腐、葛きり、お吸い物がセットになった定食。

とっても美味しかったです。ごちそうさまでした。

 


(お店からの眺め)

 

 

勝手神社 式内社

もとは「吉野山口神社」「勝手明神」とも称された由緒ある神社で、
創建は不明なれど、一説には紀元前386年とも。

御祭神:天忍穂耳命・大山祗命・久々能智命・木花咲耶姫命・苔虫命・葉野姫命

神社境内は、
義経と別れた静御前が追手に捕えられた際に、
舞いをさせられた場所と伝わります。

また、大海人皇子(天武天皇)が境内で琴を奏でたところ、
神社後方の袖振山から舞い降りた天女が舞い踊ったという
伝説もあります。

なんか、すごいわ。

 

 

しかし残念ながら、社殿は2001年に不審火により焼失し、
境内には何もありません。

 

 

本来なら、こんな素晴らしい社殿があったのに・・。

社寺に対する不審火とか悪戯って度々耳にするけど、
とんでもない話です

言葉を選ばずそのまんま言わせて頂くと、

 

 

ふっっっっざけんな!!!ヽ(`Д´#)ノ

 

ってところでしょうか。ええ。

 

 

では、その③へつづきます。