福井旅つづき。
若狭神宮寺をあとにして、駅方面へ歩くこと約20分。
わーい到着。
若狭彦神社
若狭国一宮、式内社。 別称:遠敷明神。
「明神」とは、神社の社格・神格である「名神」が転化したとされる言葉で、
仏教側から見た、神さんの尊称です。
なので、「明神」という神号が残っている=神仏習合色が濃い。
また、明神号と同じく、権現号も仏教(密教)がらみの神号で、
権現とは、「神という仮の姿で現れた、仏」を意味します。
(神々は、仏や菩薩の権化であるという、本地垂迹思想に基づくもの。)
「若狭彦神社」を上社、「若狭姫神社」を下社とし、
二社を総して「若狭彦神社」と称します。
御祭神:若狭彦大神(彦火火出見尊)
一の鳥居を抜けて参道を進むと、
いい感じの杉が二本そびえていました。
おぉ。この杉が二の鳥居なのですね。
やーんステキ。
杉の鳥居から、一の鳥居をのぞむ。
静寂に包まれた参道を歩きます。
境内に、
こんな風に囲われていたり、
四方ぐるっと注連縄が張られている場所があったら、
それはもれなく祓所です。
その名の通り、お祓いをして清める場所。
(祭典の前に、神職さんが自身を祓うための場所であることが多い)
伊奈波神社や月夜見宮、石上神社、物部神社などのように常設されている場合のほか、
例大祭の時の熱田神宮や日吉大社みたいな、祭典時に出現するケースもあります。
ここや熊野大社みたいに注連縄張ってない祓所も含め、
とても神聖な場所なので、中へ入るのはやめときましょう。
神橋の先にある楼門。
あかん、めっちゃタイプ。
楼門(随神門)(県指定有形文化財)
1743年造営の、
入母屋造平入、桧皮葺、素木造の八脚門です。
左右には、それぞれ4軀の随神像が安置されていますが、
この随神は、御祭神の降臨時に随従した吉祥八人と伝わります。
要は、
若狭彦神・姫神(として崇められた権力者)とともに当地域に現れた、
8名の随従者(臣下)のことでしょう。
内側から。
見れば見るほど好みの楼門だわ。
そして、いつもの大好きショット。
社伝によれば、
若狭彦大神が根来村白石の鵜の瀬にある巨巌の上に降臨し、
次いで若狭姫大神が降り立ったといいます。
714年、白石に若狭彦神社が創建され、翌年に現地へ遷座。
旧社地には現在、白石神社(現:境外末社)が鎮座しています。
そもそも若狭へ来たのは、
ネットで見たこのアングルに一目惚れしたから。
石段と芝の組み合わせが最高に好きな自分には、
こんな基壇、好物以外の何ものでもない。
やっぱ直線とシンメトリー好きだわ~。
あ、基壇で思い出した。
大昔に訪れたメキシコのテオティワカン遺跡。
壮大なピラミッド群の姿が超好みだったんだけど、
アレって、基壇の積み重ねに見えなくもない・・。
(しかもシンメトリー&直線的)
あれから30年近く経って、しかもこんな所で
遺跡好きの原因の一つが明らかになるとは(笑)。
こーいう系に惹かれる気持ちは高校生頃からブレてないわけで、
ある意味、年季入った趣味趣向なんだな。
で、この6基の礎石を抱くこの場所が何なのかというと、
昭和20年の雪害で倒壊した、入母屋造平入の拝殿跡なんだそう。
幻の拝殿を見たかったと思うと同時に、
この光景が最高過ぎるんで、現状でもう十分幸せです。
↑基壇跡でダッシュするお子さん。
わかる、わかるよその気持ち。
人目さえなければ私もやりたかったよ。
神門(中門)(県指定有形文化財)
1803年造営の、
切妻造平入、桧皮葺、素木造の四脚門。
本殿(県指定有形文化財)
1802年造営の、三間社流造
本殿の屋根の上には、内削ぎの千木と10本の鰹木の姿が。
内削ぎ&偶数は、御祭神が女神の時に多い形状ですが、
こちらの御祭神は比子神。男神です。
外削ぎ&奇数=男神、
内削ぎ&偶数=女神
っていうセオリーが必ずしも当てはまる訳じゃないという、いい例ですね。
みな人の 直き心ぞ そのままに
神の神にて 神の神なり
宇多天皇の御子である敦実親王が、
若狭彦大明神から告げられた御神託、「四神の御歌」です。
本殿の右側に、
末社 若宮神社
御祭神:鸕鷀草葺不合尊
祭神のウガヤフキアエズ神は、彦火火出見尊と豊玉姫命の御子神であり、
のちの神武天皇の祖神ですね。
相殿神:蟻通神・大山衹命
大正年間に、蟻通神社・山衹神社を合祀したので、
その御祭神が一緒に祀られています。
蟻通神社と聞いてまず思い浮かべるのが、奈良の丹生川上神社の旧称でしょうか。
丹生川上神社から勧請されたと思われる同名の神社が、
和歌山や大阪にありますが、やはりこちらもそうなのかな?
夫婦杉。
同じ根から生えた二本の杉ですが、このような相生の杉は神社でよく見かけます。
夫婦和合の霊験あらたかな御神木として崇められていますね。
とても立派な杉です。
手水は、「伏水の幸」と名付けられた御神水です。
決して涸れることなく湧き続ける水なんだそう。
ご神紋「宝珠に波」
宝珠は、潮の満ち引きを自在に操る珠で、
山幸彦(彦火火出見尊)が龍宮で手に入れた潮盈珠・潮乾珠にちなんでいます。
誰もが一度は見聞きしたことがあるであろう、
山幸彦と海幸彦の神話。
要約すると、
①猟師・山幸彦(弟)と、漁師・海幸彦(兄)が、
互いに猟具を交換。
ところが魚釣りに出かけた山幸彦は、
借りた釣り針を失くしてしまう。
②塩椎神のアドバイスで「綿津見神宮(竜宮)」へ行ったところ、
海神(大綿津見神)に気に入られて娘の豊玉姫(=若狭姫神社の御祭神)と結婚。
③竜宮で3年のあいだ楽しく暮らした山幸彦は、
失くした釣針と「潮盈珠・潮乾珠」を姫にもらい、
和邇(ワニ=鮫)に乗せてもらって地上へ帰還。
攻めてきた海幸彦を玉の力で懲らしめ、忠誠を誓わせた。
④その後、豊玉姫は陸に上がって、
御子(鵜草葺不合尊)を産むが、
出産の際に姫の正体が八尋和邇だと知った山幸彦は、
怖くなって逃げ出してしまう。(←なんてヤツ。)
子供の頃は、日本昔話的なお話なのね~とか思ってたけど、
これ、天孫族が隼人族(熊襲)を平定・服従させた闘争劇の神話化なのね。
日本には、勅撰の正史である日本書紀や、
最古の歴史書とされる古事記などがありますが、
古事記は神話的要素が強くておとぎ話っぽい印象ですよね。
でも、ほのぼの~(or残酷)なお話の裏には、
実は歴史が隠されていたりするわけです。
ただ、国家が公式に作るものは、おおかた歴史の勝者が編纂するので、
当時の権力者目線の、都合のいい話になっちゃってますけど・・。
隼人族:海幸彦(火照命〈古事記〉/火闌降命〈日本書紀〉)=隼人の阿多君の始祖
天孫族:山幸彦(火遠理命〈古事記〉/彦火火出見尊〈日本書紀〉)
若狭姫神社の御祭神でもある豊玉姫の正体は、八尋和邇(やひろわに)。
和珥氏(和邇氏)は、おそらく同じ海人族の安曇氏と同族で、
祖神が綿津見豊玉彦命。
その娘神である豊玉姫命も、和邇族。
そういえば、若狭神宮寺で戴いた鈴、
その名も「ワニ鈴」と言います。
『神体山で鈴の音が7日間も鳴り響いていたため、
若狭神宮寺の開祖が天神に祈った。
すると金鈴が振ってきたので、
これを当地の地主神の那伽王(ナガ王)として祀り、
御神体とした。』
その金鈴を模したのが、ワニ鈴なのだそうです。
八尋ワニの豊玉姫(海人族)と、山幸彦(天孫族)の結婚は、
「異類婚姻譚」の典型であり、
異部族どうしの政治的結び付きを意味します。
いわゆる「見るなのタブー」を犯した結果、別離や不幸に向かうのも、
大物主さんの蛇婿入り伝説と同種。
とすると、ナガ王が降りたという金の鈴「ワニ鈴」は、
単に豊玉姫の八尋ワニから命名したかもしれないけど、
もしかしたら、
渡来した 新・権力者(若狭彦神)に随伴した巫女(若狭姫神)とナガ王との、
婚姻ないしそれに準ずる関係を象徴するものだったりして・・とか考えてみる。
若狭彦神と山幸彦(火遠理命/彦火火出見尊)をイコールにするのは無理があるので、
新・権力者が彦火火出見尊系列の誰かだったのか。
単に、
明治の廃仏毀釈で明神号を大っぴらに使えなくなった時に、
祖神の名を担いだだけなのかもしれませんが、
他部族による侵略時において、
先住の部族が和合を受け入れて帰順すれば、
異類婚姻話や地主神として名を残してもらえたりします。
他方、抵抗して滅ぼされると、熊襲だ土蜘蛛だといって貶められる。
若狭彦神が何者であるかは別として、
ナガ王は大人しく帰順した前者だったのかな・・。
ナガ(ナーガ)は龍蛇神ですし、
ワニ族の龍蛇、鰐信仰と被るんで、いずれにせよ、
地主神(旧統治者)も、若狭の神(新統治者)も、
どっちも海人族だったってことで。
正体を夫に覗き見られ、ブチ切れて育児放棄しつつも、
妹を養育係に寄こしたり歌を詠み交わしたりする豊玉姫神・・。
その神話の裏側にあるのは、
夫婦ゲンカという名の、
天孫族と海人族の軋轢なのでしょうか。
ということで、健気な姫神に会いに下社へ向かいます。
つづく・・。