蔵くら日記

人生最後の数年を田舎暮らしで。2004年4月、実現のための行動開始!それは思わぬ展開でスタート・・。今では安曇野三昧

4月4日

2011年04月03日 | 安曇野とその周辺
3月28日の予定が繰り下がったNHK連続テレビ小説「おひさま」が始まります。
私は「おはなはん」しか見たことがないので、この度はがんばって見よう・・・・。

おはなはんは第6作、1966年4月4日から翌1967年4月1日にかけて1年間放送された。
おひさまは第84作、50周年の記念的作品だそうです

そば畑の大町や、田園風景の松川・安曇野、松本市内がでてきますよ~

数年前に撮影の中山高原のそば畑。番組内ではすご~く美しいからね


若い俳優さんはわからないが、渡辺えり、樋口可南子は好きな女優さん。
「相棒」だけしか印象にない寺脇康文、重要な役でよかった!
しかし時代考証的にいえば、女優さんたち美しすぎる。エキストラはごく普通の・・・いえ。

根性無しで続かないかもしれないが楽しみに見よう。
安曇野に遊びにきてくれたみんな
「そういえばあんな景色あったね~」と思い出して見みてくださいな


余談:
丸山姓と相馬姓は信州に多い。
新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵は穂高出身です。彫刻家の荻原碌山は弟分として
少年期から親交が深かった。
串田和美さんは俳優で演出家で「まつもと市民芸術館」の芸術監督
などとちょっと知ったかぶり

おせっかい:
番組紹介

とりあえず安曇野ブームふたたびに期待か
コメント (2)
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矢吹町とサールナート2

2011年04月03日 | 2011東日本震災
※記事の展開が前後して分かりにくいね、すみません。
ひょんなことから縁を結んだ福島県矢吹町の高橋さんと、
メールを頂きながら小さな町の震災後をみつめています
福島県矢吹町1
矢吹町2
矢吹町3
矢吹町とサールナート1

2011年2月に学校と町をあげて取り組んだ、海外支援のコーディネーター高橋さんからのメールです。

『3月28日、矢吹町立善郷小学校の卒業式に参加させていただきました。
耐震補強のおかげで無事だった体育館で、余震を気にしながら
(式中、1回ありました。毎日余震の中で生活しています)
6年生80名弱と父兄だけの式でした。

安全第一、時間短縮のため後藤住職のメッセージを読み上げることができませんでしたが
校長先生が代わりに「インドからメッセージが届きました」と紹介してくださいました。
後藤住職のお言葉をプリントアウトしたものは、卒業証書と共に生徒さんに配っていただきました。
きっと、皆さんにとって大きな力になったことと思います。感謝です。

町を上げての国際支援は今年で2年目ですが、学校側から、
「新年度も続けます。今までは役場に送料を出してもらっていましたが、次回はどうにかして
送料も自分達で出す予定です」とおっしゃってくださいました。
被災されて大変な中でも、次回の海外支援の事を考えていると聞いて、大変感動しました。
私が国際支援の授業をする時はいつも、「もらう人の気持ちを考えてください。
貧しいからあげるのではないのです。必要としている人がいるからして差し上げるのです。
1してあげると100になって返ってくることが経験してわかっています。だからして差し上げるのです」
と言うことから始めます。

みなさん、初めはきょとんとしていますが、今回、自分達が支援される立場になって、
本当の支援の意味がよくわかった事と思います。
矢吹っ子の中から真の海外協力の逸材が出てくれたら、本望です』
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福島県矢吹町3

2011年04月03日 | 2011東日本震災

昨日近くのスーパーマーケットで買いました。風評被害をぶっ飛ばせ!


さて
高橋さんには、自宅が解体される直前に新しい運命がおとずれました。

3月20日のメール
『昨夜、急遽新築平屋建ての家に移り住む事ができるようになりました。倒壊寸前の中で余震に怯えながら眠る恐怖から解放されました。

一昨日、横浜に住む長女が、書留と孫の写真を送ってくれたことが事の発端です。
更に「ひ孫の顔を見てほしいから、体を大事にしてね!」と母に電話をしてくれたことがきっかけで、
固くなだった心が、ほろっと和らいだようです。朝になって「アパートでも探そうか」と言い出したのです。
早速、私は町中を車でリサーチしに出かけ、アパートではなく母が懇意にしていたお花とお茶の先生のお宅にヒットしました。
先生は去年亡くなったのですが、数年前に建てられたその数寄屋造りのお宅は、屋根瓦が少し落ちているだけで、これといった外傷は無さそうでした。

早速、母に言って、今の持ち主の先生の弟さんに当たり、トントン拍子に借りられることになりました。

中は全く損壊がなく、すてきで、地震の恐怖にさらされてきた私たちにとって、まるで夢を見ているみたいでした。
救う神仏はいらっしゃるのだとつくづくおもいました!
昨夜はみんなぐっすりでした・・・ご心配ありがとう!

家の引越しが一段落したら、災害ボランティアをするつもりです。

今はきっと活動しておられるでしょう。
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矢吹町とサールナート1

2011年04月03日 | 2011東日本震災
福島県矢吹町の善郷(ぜんごう)小学校生徒と町の皆さまとご縁ができたのは今年2月。

小学生達が貧しい子どもたちのために文具、衣類、タオルなどを集め、2月5日郵便局から船便で発送して下さった。
送り先のひとつインドは、サールナート法輪精舎日本寺あてに。


町上げての取り組みに地域紙2社が掲載した

そして震災3月11日をはさんで、25日サールナート日本寺に到着した。

『3月28日(月)急拵えの善郷小学校卒業式が行われる運びとなり、ぎりぎり皆さまに到着の報告ができました。
今矢吹町ははしんどい状況だけど、以下のメッセージが心を一つにする何よりの支援につながる』と高橋さんはいう。

早速サールナートの日本寺・後藤住職からお礼のメッセージ:
『初めに災害のお見舞いを申し上げます。
25日お荷物を拝受いたしました。誠に有難うございました。

インドの学校制度では、10年生と12年生には国家試験があり 今年から私の学校が試験会場に選ばれ、
いま一般生徒は休みです。学校が始まりましたら生徒配ります。
特に貧しく学校に行けない子供たちのための日曜学校でも活用させて頂きます。

災害に遭われまして大変でしょうが 昔から日本には『災いを転じて福となす』という伝統の精神があります。どうぞ頑張ってください。  
私の小学生時代に戦争に負けて 東京は焼け野原になりましたが 日本人の勤勉さによってまもなく復興し 
戦前より良い国になりました。 
災害を乗り越えて、よりよい町になりますように、生徒のみなさまも協力して頑張ってください。
印度からお祈りいたしております。

誠にありがとうございました   後藤 恵照』


震災後、荷物の品々は被災者にとってのどから手が出そうなほどの貴重なものとなりました。

私事ですが
ささやかなご支援を申し出ましたが、「町役場、学校サイドで不足している物品リストを現在作成中です」とのことだった。

ボランティアは「必要としている人がいるから出来る人がお手伝いをする」
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福島県矢吹町2

2011年04月03日 | 2011東日本震災
矢吹町の高橋さんは、始めたばかりのそば処「閼伽」もご実家も失いました。

割烹食堂を営むご実家は店と住まいが隣接していましたが、まず店部分が損壊し、
その後住まいも取り壊しとなりました。

上左:お店部分が取り壊され その後住まいも壊し失いました 
上右:住まいの玄関。余震ごとに亀裂が大きくなってきます
中左:階段から上はすべて瓦礫と化しました 
中右:二階の廊下です。二階部分の部屋は全て壁が落ち、奥は突き抜けました。
下左:父の寝室です。父は昨年、私がお店を開店して2ヶ月後に亡くなりましたが、生き
ていたら大変なことになっていました。
下右:父の書斎です。奥の窓ガラスが外に飛び出してしまいました。


すべて高橋さんから送られてきた携帯電話カメラの画像です

町の全壊戸数は今わかりませんが、規模の違いこそあれ住宅を失った方々の哀しみは、
想像できても経験した人でないと、とうてい実感できません。それが情けないです。

参考:4/1更新の役場ホームページから
○住宅等の建物被害(3/23 15:30現在)

 ・住宅全壊  60件
 ・住宅半壊 226件
 ・一部損壊 2,135件
 ・作業場全半壊 241件

○人的被害
 ・重傷者  1名
 ・軽傷者  6名

○水道断水は現在98%まで回復

主に農産物の風評被害が大きいようです






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