![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/30/2de700b80cdba005e233b37a0a6d1ec0.jpg)
昨日のブログ「世界はこう変わる」の中で、
十牛図(じゅうぎゅうず)について触れましたので、
ウイキと、大森曹玄「参禅入門」を参考に解説します。
「十牛図」とは、禅の悟りに至る道筋を
牛を主題とした十枚の絵で表したもの。
中国宋代の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。
牛は悟りの象徴、童子を修行者と見立てます。
1.尋牛(じんぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/7d/1998795fbba4c5c2448bc26b623e4bbe.jpg)
- 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
(大森)近代(西洋)文明が行ってきた人間探求の方向は、足下を掘り下げるのではなく、
他に向って求めていたようである。この「尋牛」は、人間とは何ぞや、われとは何か、
との疑問をもちはじめ、それを突き止めようと発心したところであるが、
まだ「外に向って」尋ね求める傾向は改められていない。
2.見跡(けんせき)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/7d/d957cad8517d645e2e8f1f8fe99e712f.jpg)
- 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3.見牛(けんぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/8d/0b60625c2666151d3e1795e3aa509091.jpg)
- 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
(大森)自己の命の奥深くに人間の根源を追求したところ、ようやくそれらしい
ものが見えだしてきたのが見牛の段階。自我に対しては無我的なもの、
人間中心に対しては神人一如的なもの。それは歴史がそこから流れ出るところの、
時間を越えた時間の「源」である永遠の「いま」であり、社会がそこから生まれる
ところの源としての空間的な「ここ」である。
むかし鏡清禅師が玄沙和尚に「禅はどこから入ったらよいのですか」と尋ねた。
玄沙は「お前にはあの谷川の音が聞こえるかナ」と言った。
「ハイ、よく聞こえます」、「ではそこから入るがよい」。
すべての牛が黒くなる闇夜に心牛の声を聞くことができれば、
それが「源に逢う」ということ。
4.得牛(とくぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/8f/34b5541b126ab8db110ec2d2e9a0bb51.jpg)
- 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、
いまだ自分のものになっていない姿。
(大森)牛を素直で柔和な状態にするには、当面した環境の中に自分が入り込んで
主客一体になるほかはない。それには毎日の一つ一つの行為において、
自らに鞭撻を加え、懈怠の無いようになりきる修行が必要。
成りきること、対象に完全に没入することは、
それを抜け出る、すなわち解脱することである。
大部分の禅修行者は、見跡、見牛の辺りを往来しているので、
得牛には、まず至ってないといってもよい。
お互い大いに自らに鞭撻を加えたいものである。
5.牧牛(ぼくぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/cb/0e6ffaa189583525986f0dab104444eb.jpg)
- 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6.騎牛帰家(きぎゅうきか)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/30/2de700b80cdba005e233b37a0a6d1ec0.jpg)
- 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
(大森)気づいてみれば、私たちはもとから人牛一体であったのである。
まさに「行く先に我が家ありけり蝸牛」で、随在随所が自己本来の居り場所であり、
それが直ちに理想世界であり、仏国土そのものだったのである。
たとえ身を七転八倒の娑婆におたとしても、それが直に本来のあるべき世界に
身をおいていることであるから、目はつねにはるかに高い絶対の世界を志向している。
心牛に騎っているのだから、この境に至れば、もう善悪、迷悟の一切に捉われないから、
仏が呼んでも振り返らず、鬼でも捉えられない。実に一切処に遊戯三昧である。
7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/99/ec4056b6379910927fa508d90648d22c.jpg)
- 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にある
ことに気づく。
(大森)この場合の自己は、従来のような五十年の時間、五尺の空間に制限された
有限の自己ではない。宇宙に充ち満ちた全一としての自己、天地の主としての自己、
乾坤只一人の自己である。したがって図には牛がなく、一人の満ち足りた人間
だけが描かれる。
8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/60/78fbf0b763aae7ef9804bc07bf9c09bf.jpg)
- すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく
本来の自然な姿に気づく。
(大森)あらゆる凡情を脱すれば当然悟りの世界に到達し「聖意」を得るが、
その聖意にもとどまらず、どこにも尻を据えていない一所不住の自由人の胸中。
聖意をも取り去って平々凡々に戻る。いかにも偉そうに見える境地では、
まだ聖意を空んじない証拠で、それは大恥かき。
9.返本還源(へんぽんげんげん)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/1e/3edf3c6a76332f6c135dd1f64935fce9.jpg)
- 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中に
あることを表す。
(大森)8図「人牛倶忘」の、絶対無「一円相」を更に乗り越え、
元の差別の現実世界に立ち返った境地。普通宗教は絶対の世界が行き着く目的地であるが、
そこにとどまっては、あたかも病気を治すために入院させた患者を、
全快後も病院に引き止めて家に帰さないようなもの。
元の世界へ戻って外見は凡夫と同じだが内容は雲泥の違い。栄枯盛衰、消滅変化の
流転の世界にありながら、一切の行動に作為の念なく、微塵の動揺もない。
10.入鄽垂手(にってんすいしゅ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/08/94778ffd5a88fa242f5b0d55d3a79a9e.jpg)
- まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、
別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
(大森)修行者が悟ったら迷える衆生に福音をわかたなければならない。
努めて行う形跡は少しもない。きわめて自然に、心の欲する所に従いながら、
おのずから則にかなう任運自在さがある。衆生済度という固くるしさよりも、
むしろ遊戯三昧の境涯は、馬鹿なのか利口なのか、凡なのか聖なのか、
何人も窺い知ることはできない。本人は、人からなんと言われてもいっこう平気。
戒律に縛られる不自由さもなければ、道徳に捉われる固くるしさもなく、
機に臨み変に応じ、自由自在にやってのける。このあるがままの世界において、
任運自在に悠々自適する境地こそ、真に禅心の生活といわなければならない。
十牛図(じゅうぎゅうず)について触れましたので、
ウイキと、大森曹玄「参禅入門」を参考に解説します。
「十牛図」とは、禅の悟りに至る道筋を
牛を主題とした十枚の絵で表したもの。
中国宋代の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。
牛は悟りの象徴、童子を修行者と見立てます。
1.尋牛(じんぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/7d/1998795fbba4c5c2448bc26b623e4bbe.jpg)
- 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
(大森)近代(西洋)文明が行ってきた人間探求の方向は、足下を掘り下げるのではなく、
他に向って求めていたようである。この「尋牛」は、人間とは何ぞや、われとは何か、
との疑問をもちはじめ、それを突き止めようと発心したところであるが、
まだ「外に向って」尋ね求める傾向は改められていない。
2.見跡(けんせき)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/7d/d957cad8517d645e2e8f1f8fe99e712f.jpg)
- 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3.見牛(けんぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/8d/0b60625c2666151d3e1795e3aa509091.jpg)
- 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
(大森)自己の命の奥深くに人間の根源を追求したところ、ようやくそれらしい
ものが見えだしてきたのが見牛の段階。自我に対しては無我的なもの、
人間中心に対しては神人一如的なもの。それは歴史がそこから流れ出るところの、
時間を越えた時間の「源」である永遠の「いま」であり、社会がそこから生まれる
ところの源としての空間的な「ここ」である。
むかし鏡清禅師が玄沙和尚に「禅はどこから入ったらよいのですか」と尋ねた。
玄沙は「お前にはあの谷川の音が聞こえるかナ」と言った。
「ハイ、よく聞こえます」、「ではそこから入るがよい」。
すべての牛が黒くなる闇夜に心牛の声を聞くことができれば、
それが「源に逢う」ということ。
4.得牛(とくぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/8f/34b5541b126ab8db110ec2d2e9a0bb51.jpg)
- 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、
いまだ自分のものになっていない姿。
(大森)牛を素直で柔和な状態にするには、当面した環境の中に自分が入り込んで
主客一体になるほかはない。それには毎日の一つ一つの行為において、
自らに鞭撻を加え、懈怠の無いようになりきる修行が必要。
成りきること、対象に完全に没入することは、
それを抜け出る、すなわち解脱することである。
大部分の禅修行者は、見跡、見牛の辺りを往来しているので、
得牛には、まず至ってないといってもよい。
お互い大いに自らに鞭撻を加えたいものである。
5.牧牛(ぼくぎゅう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/cb/0e6ffaa189583525986f0dab104444eb.jpg)
- 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6.騎牛帰家(きぎゅうきか)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/30/2de700b80cdba005e233b37a0a6d1ec0.jpg)
- 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
(大森)気づいてみれば、私たちはもとから人牛一体であったのである。
まさに「行く先に我が家ありけり蝸牛」で、随在随所が自己本来の居り場所であり、
それが直ちに理想世界であり、仏国土そのものだったのである。
たとえ身を七転八倒の娑婆におたとしても、それが直に本来のあるべき世界に
身をおいていることであるから、目はつねにはるかに高い絶対の世界を志向している。
心牛に騎っているのだから、この境に至れば、もう善悪、迷悟の一切に捉われないから、
仏が呼んでも振り返らず、鬼でも捉えられない。実に一切処に遊戯三昧である。
7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/99/ec4056b6379910927fa508d90648d22c.jpg)
- 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にある
ことに気づく。
(大森)この場合の自己は、従来のような五十年の時間、五尺の空間に制限された
有限の自己ではない。宇宙に充ち満ちた全一としての自己、天地の主としての自己、
乾坤只一人の自己である。したがって図には牛がなく、一人の満ち足りた人間
だけが描かれる。
8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/60/78fbf0b763aae7ef9804bc07bf9c09bf.jpg)
- すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく
本来の自然な姿に気づく。
(大森)あらゆる凡情を脱すれば当然悟りの世界に到達し「聖意」を得るが、
その聖意にもとどまらず、どこにも尻を据えていない一所不住の自由人の胸中。
聖意をも取り去って平々凡々に戻る。いかにも偉そうに見える境地では、
まだ聖意を空んじない証拠で、それは大恥かき。
9.返本還源(へんぽんげんげん)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/1e/3edf3c6a76332f6c135dd1f64935fce9.jpg)
- 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中に
あることを表す。
(大森)8図「人牛倶忘」の、絶対無「一円相」を更に乗り越え、
元の差別の現実世界に立ち返った境地。普通宗教は絶対の世界が行き着く目的地であるが、
そこにとどまっては、あたかも病気を治すために入院させた患者を、
全快後も病院に引き止めて家に帰さないようなもの。
元の世界へ戻って外見は凡夫と同じだが内容は雲泥の違い。栄枯盛衰、消滅変化の
流転の世界にありながら、一切の行動に作為の念なく、微塵の動揺もない。
10.入鄽垂手(にってんすいしゅ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/08/94778ffd5a88fa242f5b0d55d3a79a9e.jpg)
- まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、
別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
(大森)修行者が悟ったら迷える衆生に福音をわかたなければならない。
努めて行う形跡は少しもない。きわめて自然に、心の欲する所に従いながら、
おのずから則にかなう任運自在さがある。衆生済度という固くるしさよりも、
むしろ遊戯三昧の境涯は、馬鹿なのか利口なのか、凡なのか聖なのか、
何人も窺い知ることはできない。本人は、人からなんと言われてもいっこう平気。
戒律に縛られる不自由さもなければ、道徳に捉われる固くるしさもなく、
機に臨み変に応じ、自由自在にやってのける。このあるがままの世界において、
任運自在に悠々自適する境地こそ、真に禅心の生活といわなければならない。