伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

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十牛図 (じゅうぎゅうず)

2016-01-25 18:10:33 | 心の時代
昨日のブログ「世界はこう変わる」の中で、
十牛図(じゅうぎゅうず)について触れましたので、
ウイキと、大森曹玄「参禅入門」を参考に解説します。

「十牛図」とは、禅の悟りに至る道筋を
牛を主題とした十枚の絵で表したもの。
中国宋代の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名。
牛は悟りの象徴、童子を修行者と見立てます。


1.尋牛(じんぎゅう)

- 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
(大森)近代(西洋)文明が行ってきた人間探求の方向は、足下を掘り下げるのではなく、
 他に向って求めていたようである。この「尋牛」は、人間とは何ぞや、われとは何か、
 との疑問をもちはじめ、それを突き止めようと発心したところであるが、
 まだ「外に向って」尋ね求める傾向は改められていない。


2.見跡(けんせき)

- 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。


3.見牛(けんぎゅう)

- 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
(大森)自己の命の奥深くに人間の根源を追求したところ、ようやくそれらしい
 ものが見えだしてきたのが見牛の段階。自我に対しては無我的なもの、
 人間中心に対しては神人一如的なもの。それは歴史がそこから流れ出るところの、
 時間を越えた時間の「源」である永遠の「いま」であり、社会がそこから生まれる
 ところの源としての空間的な「ここ」である。

 むかし鏡清禅師が玄沙和尚に「禅はどこから入ったらよいのですか」と尋ねた。
 玄沙は「お前にはあの谷川の音が聞こえるかナ」と言った。
 「ハイ、よく聞こえます」、「ではそこから入るがよい」。

 すべての牛が黒くなる闇夜に心牛の声を聞くことができれば、
 それが「源に逢う」ということ。


4.得牛(とくぎゅう)

- 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、
いまだ自分のものになっていない姿。
(大森)牛を素直で柔和な状態にするには、当面した環境の中に自分が入り込んで
主客一体になるほかはない。それには毎日の一つ一つの行為において、
自らに鞭撻を加え、懈怠の無いようになりきる修行が必要。
成りきること、対象に完全に没入することは、
それを抜け出る、すなわち解脱することである。
大部分の禅修行者は、見跡、見牛の辺りを往来しているので、
得牛には、まず至ってないといってもよい。
お互い大いに自らに鞭撻を加えたいものである。


5.牧牛(ぼくぎゅう)

- 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。


6.騎牛帰家(きぎゅうきか)

- 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
(大森)気づいてみれば、私たちはもとから人牛一体であったのである。
 まさに「行く先に我が家ありけり蝸牛」で、随在随所が自己本来の居り場所であり、
 それが直ちに理想世界であり、仏国土そのものだったのである。
 たとえ身を七転八倒の娑婆におたとしても、それが直に本来のあるべき世界に
 身をおいていることであるから、目はつねにはるかに高い絶対の世界を志向している。
 心牛に騎っているのだから、この境に至れば、もう善悪、迷悟の一切に捉われないから、
 仏が呼んでも振り返らず、鬼でも捉えられない。実に一切処に遊戯三昧である。


7.忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)

- 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にある
 ことに気づく。
(大森)この場合の自己は、従来のような五十年の時間、五尺の空間に制限された
 有限の自己ではない。宇宙に充ち満ちた全一としての自己、天地の主としての自己、
 乾坤只一人の自己である。したがって図には牛がなく、一人の満ち足りた人間
 だけが描かれる。


8.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)

- すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく
本来の自然な姿に気づく。
(大森)あらゆる凡情を脱すれば当然悟りの世界に到達し「聖意」を得るが、
 その聖意にもとどまらず、どこにも尻を据えていない一所不住の自由人の胸中。
 聖意をも取り去って平々凡々に戻る。いかにも偉そうに見える境地では、
 まだ聖意を空んじない証拠で、それは大恥かき。


9.返本還源(へんぽんげんげん)

- 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中に
あることを表す。
(大森)8図「人牛倶忘」の、絶対無「一円相」を更に乗り越え、
 元の差別の現実世界に立ち返った境地。普通宗教は絶対の世界が行き着く目的地であるが、
 そこにとどまっては、あたかも病気を治すために入院させた患者を、
 全快後も病院に引き止めて家に帰さないようなもの。
 元の世界へ戻って外見は凡夫と同じだが内容は雲泥の違い。栄枯盛衰、消滅変化の
 流転の世界にありながら、一切の行動に作為の念なく、微塵の動揺もない。



10.入鄽垂手(にってんすいしゅ)

- まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、
別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
(大森)修行者が悟ったら迷える衆生に福音をわかたなければならない。
 努めて行う形跡は少しもない。きわめて自然に、心の欲する所に従いながら、
 おのずから則にかなう任運自在さがある。衆生済度という固くるしさよりも、
 むしろ遊戯三昧の境涯は、馬鹿なのか利口なのか、凡なのか聖なのか、
 何人も窺い知ることはできない。本人は、人からなんと言われてもいっこう平気。
 戒律に縛られる不自由さもなければ、道徳に捉われる固くるしさもなく、
 機に臨み変に応じ、自由自在にやってのける。このあるがままの世界において、
 任運自在に悠々自適する境地こそ、真に禅心の生活といわなければならない。




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