戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

焼き場といわれた火葬場が上欠町に悠久の丘として移転・・・と聞いて

2010-03-09 09:53:21 | Weblog
1月の極寒の頃、田原街道に出る所に“えにしだ”がいくつか花開いている、と書いた。それが今は満開で、こぼれるように咲いている。
"えにしだ"とか“えにしだ”の花芯が赤い“口紅えにしだ”を始めて見たのは昭和20年の春の事だった。私は小学校5年生、いつもおなかを空かし、ぼろの衣服を着て頭にはしらみを飼っている汚い女の子だった。私だけでなく、多くの友達も同じような境遇だった。日本全国が毎日のように空襲で爆撃され、宇都宮も例外でなく、いつ爆弾が落ちるか分からない日だった。父が探して来た疎開先の大曽は、地主のじいさんが花を作っている所で、花よりだんごの時代であっても残った草花はあちこちに咲いていた。その中でひときわ目立ったのが覆いかぶさるように咲く“雪柳”と“えにしだ”だった。その年の7月12日に宇都宮大空襲があり、8月3日に満10歳となった私は旬日を経て15日に敗戦を迎えた。
原眼科と南側にある我家は爆撃を免れ、疎開先の大曽の横穴防空壕はその真上に焼夷弾が落ちた。堅い岩盤でなければ一家全滅であったろうが、幸いにして建てかけで出来上がっていない家の屋根が少し燃えただけだった。両親と祖母がバケツリレーで消し止めたが、もっと大きい焼夷爆弾であれば家は燃え尽くし、私達の命も無かったかもしれない。その後、何十年も経ってその地は開発され、八幡台という高級住宅街に変身している。その西にあった焼き場、宇都宮斎場も上欠(かみかけ)町に“悠久の丘”としてもう稼動していると聞いた。この辺は焼き場で知られていて、その後競輪場が出来た事で知られている。どんなにフクダヤの通りと云っても焼き場と競輪場のほうが通じる。
私が東京の学校に行っていた昭和28年の秋、駅まで送迎の無料バスが出ると聞いてそれを利用しようという事になり、母と歩いて競輪場まで来た。今から57年前の事で焼いた秋刀魚が食べたくて帰省した時だった。バスが来て乗ったけれど、母と別れるのが悲しくてお互いに滂沱の涙を流し、困った事を思い出す。焼き場の傍での別れである事が一層悲しさを増したのも事実である。無料の送迎バスに乗ったのはそれがただの1度である。若くて綺麗だった母を思い出すひとこまである。