戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

育成牧場の近くにあった野外の天然スケートリンク  22/03/01

2010-03-01 16:22:51 | Weblog
昨夜はフィギュアのエキジビションをやっていた。オリンピックもこれで本当の終盤だ。今日3月1日月曜日,銀行に行きながら聞くラジオは浅田真央の掲げる日の丸の旗の放送だった。
私が高校生の頃、スキーもスケートもまるで高嶺の花だった。
鶴田に育成牧場というのがあるが、その林の陰にある田んぼに水を張って凍らせ、スケート靴を持っている人が来て滑っていた。
スケート靴といっても軍隊の靴のようなもので、それでもエッジがついていた。なんでこんな靴がうちにあったのかは知らない。
私はそれを持って自転車で鹿沼街道を走り、友達とキャッキャッと戯れながら滑った。滑るのではなく、立っては転び、立ち上がっては又、転倒する、それだけで満足した。そう、箸が転んでもおかしい、という年頃だった。中学生の時は大曽の田んぼが使われた。競輪場通りと田原街道の交差点から西、八幡山の端っこにむしろの陰になって水が張られていた。幾らかのお金を払ったのだろう、農家が幾らなんでも物好きに、子供たちの為に自分の田んぼにスケート場を作るわけはないから・・・・その頃と比べると隔世の感がある。
満州や朝鮮(今は北朝鮮と韓国に分断されているが)からの引揚者もいたから、出来る人も大勢いたかもしれないが、私は知らない。
あの頃から60年が過ぎた。現在、物は満ち溢れ捨てる場所にも困っている。心はあの時期のほうが満足していたと思う。
何故だろうか???