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8/6広島原爆の日:家族のその後、私も ・・・そして福島の未来は 2017.8.6

2017-08-06 19:26:51 | 原爆 核問題 

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立山 穂高さんFBより:今朝、友人から届いたメッセージです。

2017.8.6

■立山さん、おはようございます。

原爆記念日は祖父と曽祖父の命日です。安倍さんの式典出席は嫌ですが、祈りの日にいたします。母の実家は爆心地から近かったのです。

...

祖母、母と母の弟は15キロのところに疎開していました。

しかし、原爆投下後、同時に台風がそのエリアを襲い、大雨であたりは浸水、川が氾濫するほどでした。

原爆の混乱でこのことは報道されることがなく、実際の被害も定かだはありません。

広島は中心地が壊滅状態となり、救援活動がなされませんでした。

叔父は水に流されましたが、幸いなことに助かりました。

その時、大量の放射性物質を含んだ水が辺りを汚染したと言われています。

公表されていませんが、叔父と子ども時代を過ごした同じ小学校の仲間は原爆の後から今までに、ほとんど50歳までにガンと白血病で亡くなってしまいました。

母もその一人です。写真では100人以上いた子供達が、もう数人しか生きていません。

国はこんなことは原爆の被害にカウントしていません。

15キロ離れてもアウトなのです。

だから、福島の未来は見えています。

あと30年の間にかなりの数の子供達が亡くなるでしょう。

それまでに、いろいろな病気が蔓延して、放射能の被害者の死亡数を薄めるでしょう。

叔父は幸いなことに丈夫です。

個体差があることは言われています。

祖母の兄は原爆の翌日に自宅を確認するためにほぼ爆心地である自宅に行きました。

そしてガレキと墨のようになってもまだ生きていた祖父を見つけたそうです。

入市で被ばくした大叔父は体調不良に悩まされましたが、ガンにはならず90歳まで生きました。

娘の縁談に影響するからと被爆者手帳をとりませんでした。

しかし、その日に市内にいた人が被爆者手帳をとるのに証人が3人必要という馬鹿らしいルールがあり、取れないで困っている人のために、会ったことを証言して手帳を取る助けを死ぬまでしていました。

3人なんて、会った人はほとんど亡くなってしまってます。

時間が経てば経つほどさらに死にますから、証言できる人が減ります。

すぐに取らないで、子どもの縁談が終わってから取った人は多いです。

その時に大丈夫と思っても、年取って具合悪くなり取得を決める人も多かった。

市内の病院は、私が小さい頃は人がたくさん薬をもらいに行っていました。

後遺症に悩む人が多く、大叔父も飲んでいたのを覚えています。

年取ってもういいだろうと取得を決める人も多かったのです。

私が5〜6歳の頃でも、「あの人はピカじゃけえ」と差別されるのを会話の中に聞きました。

大叔父も、市内にいたことを公にはしていませんでした。

お願いするために知らない人が何度ももうちにくるのを見ました。

叔父は市内にいたことを証言するサインをしていました。

そして、大叔父が何を見たのか、大叔父の口からは、お願いしても何も聞けませんでした。

もう覚えていない、どうじゃったかなあ、と言うだけでした。

大叔父の死後に、大叔父を知る人経由で市内から帰ってきたときの様子を聞きました。

祖父も曽祖父も既に家と一緒に炭になって遺体はわからなかったと。

妹に、お前の旦那は焼け焦げても息はあったが助ける方法はなかった、とは言えなかったのでしょう。

祖母は絵に描いたような世間知らずのお嬢様育ちでしたので。

そこからは想像を絶する祖母の残りの人生の始まりでしたが。

まさかその33年後、娘が壮絶な闘病生活の末に広島の病院で末期がんで死ぬことになるとは思わなかったでしょう。

その後、母は染色体に傷があったことがわかっています。

そして私もその遺伝子を継いでおり、26の時に発病し、遺伝子治療の役に立つのではないかと大学病院でモルモットをしております(笑)

原爆症ではなく、そのガンに絞った研究ですが、未だに予防のためには先に悪くなるであろう臓器を切除するしか方法がないのが現状です。

切ったあとが大変なのですが(^_^;)

長文失礼いたしました。

 

 

 


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