異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

安倍さんの政治哲学:「国民は馬鹿である」

2014-08-26 21:12:13 | シェアー

https://twitter.com/kitahamamikiya/status/503676258786361344/photo/1

■古賀茂明氏

  安倍さんの政治哲学:「国民は馬鹿である」

  1.ものすごく怒っていても、時間が経てば忘れる

 2.他にテーマを与えれば、気がそれる

 3.嘘でも繰り返し断定口調で叫べば信じてしまう

 


「ヘイトスピーチ、起源は関東大震災」 朝鮮人虐殺描いた本が異例のヒットに

2014-08-26 19:40:54 | シェアー

やはり今、レイシズムが盛んになっている状況を連想して読んでいる人が多いのではないでしょうか。「放置するとここまで行くのか」と思って読んだのではないか

投稿日: 2014年08月26日 07時30分 JST 更新: 2014年08月26日 07時34分 JST
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SEPTEMBERINTOKYO
烏山神社のシイの木と加藤直樹さん | Taichiro Yoshino
 
 
 東京・杉並。京王線千歳烏山駅から歩いて10分ほどの住宅街の一角に、烏山神社がある。その境内に、見上げるほどの高さのシイの木が、葉を茂らせてそびえ立っている。

現在確認できるシイの木の本数は4本。境内にも周辺にも、由来を示す記述はない。しかし、編集者の加藤直樹さん(47)によると、ここからさらに徒歩10分ほどの場所にある旧甲州街道の橋で起きた、91年前の惨劇にまつわる植樹だという。

1923年9月2日、関東大震災の被災者が列をなして郊外へ避難の道を歩いていた。暴動の噂を聞いて自警団が組織され、竹やり、鳶口、刀などを持って警戒していた。ところがその夜、反対方向から、駅の復旧作業に向かうトラックがやってきて、震災で崩れた橋のたもとで脱輪する。

「車内に米俵、土工(土木工事)用具などとともに内地人(日本人)1名に伴われた鮮人(ママ)17名がひそんでいた。(中略)朝鮮人と見るや、警戒団の約20名ばかりは自動車を取り巻き二、三、押し問答をしたが、そのうち誰ともなく雪崩(なだ)れるように手にする凶器を振りかざして打ってかかり、逃走した2名を除く15名の鮮人に重軽傷を負わせ、ひるむと見るや手足を縛して路傍の空き地へ投げ出してかえりみるものもなかった。」

(東京日日新聞1923年10月21日付「烏山の惨行」より。加藤直樹著「九月、東京の路上で」から引用)

 
このときに13人が殺されたことを偲んで烏山神社に13本のシイの木が植えられた、と書く本もある。しかし、実際の犠牲者は1人だった。一体、シイの木は誰を偲んだのか。

この事件では、のちに12人が起訴された。1987年に地域で発行された冊子に、以下のような古老からの聞き取りがあるという。

このとき、千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり、関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を祈念として植樹した。

 
 加藤さんは「犠牲者への同情もありますが、むしろ加害者への同情を込めた植樹だったというわけです。背景を知ると、当時の雰囲気が、そのまま封じ込められているように思えます」と話す。

亀戸、四ツ木、寄居、船橋…。加藤さんが関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を掘り起こし、当時起きたことを地域ごとに再現した『九月、東京の路上で』(ころから刊)は、初版2000部を10年かけて売るつもりだった版元の予想を裏切り、発売から約半年ですでに3刷、1万部に達した。

なぜ今、90年前の惨事に改めて関心が集まるのだろうか。加藤さんに聞いた。

■「殺した側と殺された側の子孫が同じ空間に住む街」

septemberintokyo

――なぜ売れたのだと思いますか。

やはり今、レイシズムが盛んになっている状況を連想して読んでいる人が多いのではないでしょうか。「放置するとここまで行くのか」と思って読んだのではないか。Twitterで感想を書いてくれた人の「これは90年前のことではなく今のことだ」という言葉が印象に残りました。

そして、東京という身近な都市で起きたという驚きでしょう。関東大震災時の朝鮮人虐殺は学校でも学んでいるはずだけど記憶に残っていないし、地域でも聞いたことのある人はいるはずなのに、耳にしたことは少ない。それが千歳烏山や亀戸など、知っている地名が出てきて、起きたことが具体的に描かれています。

よく「この手の本にしては売れた」と言われるけど、つまり、日本の負の歴史を扱った本なのに読まれたということ。朝鮮対日本、正義対悪といった観念先行の本でなかったことも一因でしょう。コントロールできない状況に追い込まれた朝鮮人、中国人、そして日本人の群像が描かれる。糾弾調では読んでいて辟易するけど、この本は読み終えたとき、我々の社会の物語と受け止めることができる。日本人も外国人も共に暮らす東京に住みたい、それを理想とする人たちの気持ちにフィットしたのだと思います。

――なぜこの物語を書こうと思ったのでしょうか。

2000年4月、石原慎太郎・東京都知事(当時)の「三国人発言」(石原氏が陸上自衛隊の行事で「不法入国した多くの『三国人』、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」「すごく大きな災害が起きたときには大きな大きな騒擾事件すら想定される」と述べた発言)に驚いたんです。地震が起きたとき、外国人が暴動を起こすという発想自体が危険だと思った。「起こすかもしれない」という流言が悲劇を招いた事例は世界各国にあるし、さらに行政がそれを広げたことが事態を悪化させた例も数知れない。

そう思って2003年、東京都が毎年開いている関東大震災の慰霊法要に出てみました。当時、すでに80年前のことだから参加者もそんなにいないだろうと思って行ったら、慰霊堂の中はぎっしり。不思議に思いながら、たまたま隣のおばあさんに「どなたが亡くなられたんですか」と声をかけたら「兄です」と言われた。実は1945年の東京大空襲の慰霊も合わせて行なわれていたんです。

それもなんだかなあ、と思っていると、外から朝鮮民族の音楽が聞こえて来るんです。午後から開かれる朝鮮人虐殺の追悼式のリハーサルだと、運営の人が教えてくれました。そのとき初めて、ルワンダやユーゴと、目の前の景色が重なったんです。東京というのは、殺した側と殺された側の子孫が同じ空間に住んでいる街なんだということ。そのとき、関東大震災の「生きた状況」を描きたいと思いました。

そうは言っても時間がなくて取りかかれなかったのですが、2013年、新大久保でヘイトスピーチをするデモ隊が社会問題化しました。デモ隊はその前年から大久保通りでデモをして、終わった後「お散歩」と称して奥の道に入って、韓国商店への暴言や営業妨害を繰り返していた。生まれ育った街だから、怒りがわいて、抗議行動に参加しました。

ちなみに、ヘイトスピーチのデモに抗議する人々の中でも、デモ隊に併走してののしるのが「しばき隊」で、プラカードをもって抗議の意思を示すのが「プラカ隊」。私たちは「知らせ隊」として、歩道を歩いている人や商店の人たちに「これから差別デモが通ります」というビラをまいたり「民族差別に抗議中」というプラカードを掲げたりしていました。

2013年6月末以降、批判が高まって新大久保では差別デモが行なえなくなりました。ほかの地域では依然として続いていましたが、僕と何人かの友人は、「問題を掘り下げることをやろう」という話になり「関東大震災を改めて伝えるブログ」を始めることにしました。目の前のヘイトスピーチには歴史的起源がある。関東大震災からちょうど90年後の年に「朝鮮人を殺せ」と言っている人たちが街頭に出ているのに、その起源である関東大震災と結びつけて考える人がいないのは不思議だと思ったんです。

買い集めていた関連書籍から引用したり、2013年8月ごろから、地元の図書館、大学の図書館、国会図書館に通い、官僚や作家、労働者、様々な人の当時の声を集めました。8月31日夜のプロローグ、9月1日昼前のシーンから始まり、2日、3日と虐殺の起きた時刻や場所での出来事を、同じ時刻にアップしていく。虐殺そのものはだいたい9月6、7日に終わるんですが、拾いきれなかったエピソードをアップし、10月6、7日ごろまで続いた。ブログは今も残っています

■まるっきり遠い話でもない。2005年のアメリカでも起きた


2013年6月30日、東京・新大久保周辺であったデモ

――やはり、大久保という土地で生まれ育ったことが大きく影響しているように見えますね。

1970年代に幼少期を過ごしましたけど、当時も相対的には他よりも在日コリアンが多い地域でした。学年に3、4人は朝鮮・韓国名の子がいる。日本名で通っている子はもっと多かったはずです。在日だけではなく、大久保通り沿いの商店主の子、歌舞伎町のホステスの子、国鉄アパートに住む子、公務員住宅に住む警察署長一家、大きな家から6畳1間に6人住む家族まで、階層も多様だった。そういう街に在特会がやってきて「朝鮮人は出て行け」と言ったわけだけど、なんで彼らに線引きを指示される筋合いがあるのかと思った。色んな人が住んでいるのが東京の良さではないのか、と。

大人になってからも天安門事件で中国に帰れなくなった友人、ソウルの韓国人の友人、在日コリアンの友人、そういう人たちと付き合いがあったので、殺した人、殺された人たちの物語が遠くに感じられないんですね。

――しかし阪神大震災でも東日本大震災でも、被災者の秩序だった行動は注目を集めました。関東大震災の混乱が再び起こるとは思えないのですが。

文字どおり再現することはありえないでしょう。現代の人は「いつか東京に大地震が起きるだろう」と、大体知っていますが、当時は周期的に地震が起きるという知識もなく、備えもなかった。当時のように東京の通信がまったく途絶することもないでしょう。それに当時は3世帯に1本の割合で日本刀が家庭に普通にあったと言われているし、拳銃も合法でした。日露戦争、シベリア出兵と戦争が続いていて、外地で人殺しをしたことのある男たちも多かったわけですから。

しかし一方で、まるっきり遠い話だとも思いません。2005年のアメリカですら、ハリケーン「カトリーナ」の被災地で自警団が形成され、数十人とも言われる人が殺された。日本でも、「外国人が犯罪をする」という流言は阪神淡路大震災でも東日本大震災でも流れた。災害時に、こうした「刃」を行政が抑えずにあおれば、差別の暴力として何らかの形で人を傷つけたり、不利益を与えたりします。マイノリティーをターゲットにした流言は流れがちなので、その手のデマを信じないという知恵を社会の側が持っているべきだし、行政も普段から災害時のマイノリティー保護についてコミュニケーションを取って考えるべきです。そのためにも91年前の記憶は忘れずに共有しないといけない。

関東大震災当時は、「朝鮮人ならやりかねない」とみんな思った。朝鮮人以外の集団についても「暴動を起こしている」という流言がありました。社会主義者も殺された。そうしたイメージのもとは、新聞などを通じて9月1日までに作られていた。そういう意味でも、関東大震災の経験は今の私たちにとって一つの反面教師です。

レイシズムが拡大すると、何かあったときに、「あいつらならやりかねん」といった流言が出てくる可能性が高まる。書店の店頭に積まれている嫌韓・嫌中本や、ネットにあふれる「クズ民族死ね」みたいな言説が、気づかないうちにふつうの人の心の中に積み重なっていくと、たとえば万が一、中国との間で軍事衝突が起きたとき、「中国人が原発を狙っている」といった流言が広まるかもしれない。あるいは流言でなくても、レイシズムのために歪んだ認識によって、政治判断を誤る可能性がある。いや、もう既に判断を誤っているかもしれない。

■「人間として見ることを手放さない」


2013年6月30日、東京・新大久保周辺であったデモ

――殺し殺される中で、助けた人、どうしようもなかった人、殺す側に回った人、いろいろ出てきます。91年前の惨事が、現代の世に教訓として生きるとすれば何でしょう。

当時の朝鮮人は、2014年の在日コリアンとは違います。日本に来て2、3年で日本語がほとんどしゃべれない人たち。7割以上が単身の出稼ぎ労働者で、所帯持ちも少なかった。日本人社会からは「何かよく分からない外国人」と思われていたでしょう。人間的な付き合いができている人は少なかっただろうし、「新聞によるとすぐ悪さをするらしい」というイメージが流れていた。そこに「朝鮮人暴動」流言が伝わると本当らしく思えてしまうわけです。そうして、水を飲もうとして井戸を覗き込んでいる朝鮮人を見て、「井戸に毒を入れようとしている」と思い込んで殺してしまう。

そうした中でも、丸山集落(現在の千葉県船橋市丸山)のように、日頃から朝鮮人と付き合いがあったから、地元の住民が「何も悪いことはしないのに殺すことはねえ」と率先して自警団から朝鮮人を守った人々もいる。人間として見えたか、見えなかったかの違いだったのではないでしょうか。

よく見えないものは記号化されやすい。そこにヒントがある気がします。ネットで「韓国人は~~だ」と的外れなことが書かれていても、実社会で付き合いがあれば「バカじゃないの」と思うけど、実際に付き合いのない人は信じてしまう。そこに乗じて歪んだ認識をすり込もうとする人がいる。そういう流れにどう抵抗するか。

関東大震災がヒントになるとすれば、相手を人間として見ることを手放さないことだと思うんですね。いろんな事実の断片を都合良くつなぎ合わせて他民族を敵視する材料を作るのは、昔からレイシズムの常套手段だった。それによって、「殺してもいい虫けら」「自分たちを殺しに来る悪魔」のように、他民族を「間」として描き出す。確かに、文化的な背景が異なる人々の振る舞いに接したとき、すぐには理解できないことがありますが、そこに人間として理由があるはずだと思っていれば、理解できることもあるはずです。

【ヘイトスピーチ】2013年6月30日、在特会


「自主憲法制定」を悲願とする自民党は、はっきり言えばいいのだ、民主主義は嫌だ、と

2014-08-26 02:49:27 | シェアー

想田 和弘さんのフェイスブックより転載

 

「憲法」には二つの意味がある。一つは紙に書かれた法としての憲法。もうひとつはその国の実質的な政治体制、という意味。ルソーが「戦争とは相手国の憲法を書き換えること」と定義したのは後者の意味だが、第二次世界大戦に勝った米国が日本に対して行ったのは、紙と実質の両方だったのだなあ。

日本の戦争指導者がこだわった「国体の護持」は、後者の意味での「憲法護持」。つまり天皇中心の政治体制だ。それが敗戦で「民主主義」に上書きされた。すると「自主憲法制定」と叫ぶ人の憲法とは、一体何なのだろうか。少なくともそれは「民主主義」ではあるまい。書き換える対象なんだから。

そう考えると「自主憲法制定」を悲願とする自民党の改憲案が民主主義を終了させる内容であることは、必然的なのかもしれない。ならば自民ははっきり言えばいいのだ、民主主義は嫌だ、我々は別の政治体制(=国体?)を望むのだ、と。しかしそうは絶対に言わない。言えば支持を失って転落するから。

...

現在の政治体制が民主主義である以上、自民党も民主主義を望むフリをしなければ政治体制の上書きも不可能だ(革命を除く)。つまり自民党は民主的な手続きで民主主義を終了させるというアクロバットを行おうとしている。そしてそれには有権者という「協力者」が必要なのである。


日本国憲法の制定過程(その2) 原案を書いたGHQの人々とは?

2014-08-26 02:12:33 | シェアー

http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140507/p1 より転載

2014-05-07

日本国憲法の制定過程(その2) 案を書いたGHQの人々とは?Add Starcangael

 

Ⅱ 日本国憲法の制定プロセス

 「米国から押し付けられた」と宣伝されている日本国憲法。誰が作ったものであろうと、よいものはよいわけで、押し付けられたからといって改正しなければならない理由にはならない 。三輪明宏「外国人人間です。アメリカ人人間日本人人間中国人ユダヤ人朝鮮人も、全部人間です。だったら、何国人が作ったものであろうと、人間が作った法律で、すばらしければ、それでよいではありませんか。人間として、地球人としてよいものであれば、よいのです。日本人のどこかのバカな人がよってたかって作るより、はるかによいものです」『憲法を変えて戦争へ行こう…という世の中にしないための18人の発言』(岩波ブックレット

 だが、事実として、少なくとも日本国憲法の根幹は、日本人の「発案」によるものと相当一致している。「GHQ押し付け憲法論」を主張する論者は、自説に不都合憲法研究会のことと、幣原喜重郎首相マッカーサーのやり取りについて一般読者の目から覆い隠すか、過小評価することに務めている 。

日本国憲法の三大原理は<基本的人権尊重国民主権戦争放棄である。そして、もうひとつの特徴は象徴天皇の定めである


1 日本国憲法制定の過程概観

 

(1)日本国憲法を書いたGHQ政局の人々

 改憲派はしばしば、日本国憲法はわずか九日間でGHQ素人たちがつくったお粗末な憲法にすぎないというのが常なのだが、果たしてれは事実なのか。

 民政局コートニー・ホイットニー准将運営委員会コロンビアナショナルロースクール夜間部法学博士。本職は弁護士

政局次長チャールズ・L・ケーディス大佐運営委員会司法権に関する小委員会兼任コーネル大卒ハーバードロースクール卒。弁護士連邦公共事業局服法律顧問など歴任。ニューディーラー

政局法規課長マイロ・E・ラウエル中佐運営委員会司法権に関する小委員会兼務スタンフォード大、ハーバードロースクール卒。弁護士政府機関法律顧問高野岩三郎ら「憲法研究会」のメンバーなど、在野の憲法草案を取り入れる橋渡しをした。

アルフレッド・R・ハッシー中佐ハーバード大学政治学学士バージニア大学ロースクール法学博士弁護士日本国憲法前文の草稿を記述した。文章家

フランク・E・ヘイズ陸軍中佐立法権に関する小委員会。本職は弁護士国会に関する部分を記述

サイラス・H・ピーク博士行政権に関する小委員会担当コロンビア大学修士号博士号取得。コロンビア大学助教授

ミルトン・J・エスマ陸軍中尉行政権に関する小委員会担当コーネル大学卒、プリンストン大学政治学行政学博士号合衆国人事院行政分析担当官。

ピーター・K・ロウスト陸軍中佐人権にかんする小委員会担当オランダライデン大学医学部卒。シカゴ大学社会学人類学博士号

ハリーエマソンワイルズ人権にかんする小委員会ハーバード大学経済学卒。ペンシルベニア大学博士号テンプル大学人文学博士号

ベアテ・シロタ嬢。人権にかんする小委員会特に女性人権の項目を担当日本生活実体験があり、六ヶ国語を駆使して諸国憲法人権条項を調査・起案した。

その他、多士済々であって、到底、改憲論者たちがいうような「素人集団」ではない。

 以上に見るごとく、日本国憲法原案であるGHQ憲法マッカーサー憲法)は、開戦直後から知日派米国知識人たちが準備してきたものをもととして、練り上げ準備されてきた米国占領政策を背景としているものであって、現憲法をおとしめる人々がいうように、短時日で素人たちが作り上げた粗末なものではない。

 

 もし「素人」ということでいうならば、幣原内閣憲法担当であり、帝国憲法改正を表面的・部分的ものでよしとして、GHQにつっぱねられた松本烝治国務大臣は、商法専門家ではあっても、憲法については素人であった。


日本国憲法の制定過程(その1)

2014-08-26 01:36:30 | シェアー

http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20140506/p3より転載

日本国憲法の制定過程(その1)Add Starmyrtus77myrtus77cangaelcangaelcangael

       2013年5月8日 脱稿

<目次>

Ⅰ 「押し付け」憲法論について

 1 「押し付け」憲法論の根拠と目的

 2 「押し付け」憲法論への簡潔な反論

Ⅱ 日本国憲法の制定プロセス

 1 日本国憲法の制定過程概観

(1)日本国憲法関連 略年表

(2)日本国憲法を書いたGHQ民政局の人々

 2 米国による日本の非軍国化研究

    国務省極東班と戦後計画委員会(PWC)

 3「基本的人権尊重」「国民主権」は明治の自由民権運動の復活である

(1) 憲法研究会憲法草案要綱

(2) 思想的源泉・・・植木枝盛

(3)「象徴」天皇

4 9条の起源

(1)その発案者は

(2)幣原喜重郎深謀遠慮

むすび

 


Ⅰ 押し付け憲法論について

1 押し付け憲法論の根拠と目的

(1)ポツダム宣言は新憲法制定は求めていない

 産経新聞は「そもそもポツダム宣言は、『新憲法制定』については何ら規定せず、「GHQ はポツダム宣言に反し、当初から占領政策の大きな柱として新憲法の制定を決定した」(産経新聞1997年2 月3 日参照)という。

(2)ハーグ陸戦条約 違反である

日本国憲法は、形式上、日本の国会の審議による明治憲法の改正という手続きをとってはいるものの、アメリカ占領軍が6 日6 晩で起草し、これを日本側に押しつけたものである。占領下におけるこのような憲法の改正はハーグ陸戦条約に規定された国際法の違反である」(藤岡信勝『汚辱の近現代史』)

(3)英文原案が日本政府に交付されたから

「原案が英文で日本政府に交付されたという否定しえない事実、さらにたとえ日本の意思で受諾されたとはいえ、手足を縛られたに等しいポツダム宣言受諾に引き続く占領下においてこの憲法が制定されたということは、明らかなのであるから、この面に関する限り、それを押しつけられ、強制されたものであるとすることも十分正当であるというべきである。特に、日本側の受諾の相当大きな原因が、天皇制維持のためであったことも争えない事実である。

ただ、それならば、それは全部が全部押しつけられ、強制されたといい切ることができるかといえば、当時の広範な国際環境ないし日本国内における世論なども十分分析、評価する必要もあり、さらに制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれたうえで、制定された憲法であるということも否定することはできないであろう。」これが憲法調査会の憲法制定に関する結論部分であります。(西修、衆議院憲法調査会、2000 年2 月24 日)

(4)自主憲法制定のために

明治憲法は天皇が下された欽定憲法であり、今の憲法は、占領中、占領軍の有力な指導、影響でできた占領憲法だ。我々は初めて、国民憲法をみんなでつくろう、そうゆうような意図で国家の形と心をはっきり固めて、この国家構造をしっかりした上で、戦略的に米英で軽視されない、中国やロシアにも軽視されない、顔のある国家に作っていかなければならぬ、そういう段階に入ったと私は見ています」(中曽根康弘衆議院憲法調査会、2000 年5 月11 日)

「占領中にできた、そのことはハーグ条約に違反しているということもありますが、それよりも、やはりこれは私たち日本人の精神に大きな影響を結果として及ぼしているんじゃないか、このように思います。・・・そういう意味で、今度こそ根本的に私たちは私たちの手で新しい憲法を作っていくということが、私は極めて重要なんだろうと思います。」(安倍晋三自民党幹事長衆議院憲法調査会、2000 年5月11 日)


2 押し付け憲法への簡潔な反論

(1) ポツダム宣言12か条の第十項、第十二項

「十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ 」

「十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ 」

 ポツダム宣言には上記のように記されており、わが国がこれを公的に受諾した以上、「民主主義実現」「言論、宗教思想の自由基本的人権の尊重」「平和的傾向と責任ある政府」を具体的に実現するために、憲法改正が求められた。必ずしも不当・新憲法無効とは思われない。

(2) 憲法改正要求はハーグ陸戦条約に違反するとされる件に関して

「第43条:国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。 」

 GHQは、憲法を抜本的に改正しなければ日本が再び軍国主義に陥りうると考え、それが「絶対的な支障」であると判断した。不当・新憲法無効とは思われない。

(3)政府に渡された英文のGHQ草案の内実は、相当に日本製である

 後に「Ⅲ」で詳しく見るように、この英文原文は、GHQ法規課長ラウエルが中心となって記されたが、それは憲法研究会の「憲法草案要綱」(起草者、鈴木安蔵)の影響を相当受けている。すなわち、そこには明治期の自由民権運動思想家植木枝盛の「儀礼的天皇制国民主権基本的人権」が含まれている。明治期、憲法制定をめぐって国権論と民権論の論争があったら、結局、民権論者は弾圧されて、国権論に立つ大日本帝国憲法でわが国は軍国主義に向かって進むことになった。しかし、太平洋戦争における敗戦を経て、民権論が鈴木安蔵による憲法史研究によって息を吹き返したと理解することができる。

 また、GHQ草案には幣原喜重郎首相がマッカーサーに提案した、戦争放棄・軍備放棄条項を加えられている。幣原喜重郎1928年のパリ不戦条約戦争放棄を盛り込んだ人物だった。これについて詳細は後に述べる。

 そういう意味では、日本国憲法における、<象徴天皇制>と三大原理である<国民主権基本的人権の尊重戦争放棄>は、米国から押し付けられたというよりも、敗戦を機に日本の中にあったものが息を吹き返して表にでてきたものというのが正確である。

(4)「自主憲法制定」というスローガンは、愛国的に見えて実は売国的である

  後に「Ⅱ」で見るが、CIAの工作員であった岸信介以来、「自主憲法」「自主軍隊」は、実のところ、米国の戦争に日本が兵士を提供するためのカモフラージュされたスローガンである。

 1952年公職追放を解かれた岸信介は「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を三大スローガンとして、日本再建連盟を設立して会長となった。ところが、この安倍晋三がこよなく尊敬する祖父岸信介は、すでに周知のことであるが、CIAのエージェントであり、米国から莫大な政治活動資金を得て活動していた。

http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20110306/p1

岸信介とCIA http://www.yamamotomasaki.com/archives/384

 1949年10月1日中華人民共和国が成立し、1950年6月25日朝鮮戦争が始まると、米国は日本を共産主義に対する防波堤とすべきだと考えるようになった。そして、日本国憲法9条戦争放棄条項が邪魔になってきた。9条ゆえに、日本の兵士を朝鮮戦争に動員することができないからである。D.マッカーサーは、米国議会でなぜ日本に戦争放棄条項のある憲法を定めさせたのかと追及を受けている。朝鮮戦争1953年7月まで続いた。

 こうしてみると、CIAのスパイである岸が、なぜ「自主憲法制定」「自主軍備確立」を訴えたか、その理由は、あきらかであろう。日本に米国の戦争の下請けをさせる上で、日本国憲法9条戦争放棄条項が邪魔だったからにほかならない。今日の「集団的自衛権行使」と「自主憲法制定」と「国防軍」のセットも同じ意味である。