異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

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<日本人自身の血と涙で書いた日本国憲法>

2014-08-26 00:44:36 | シェアー

 http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=eO1DtOueucU#t=7

 「日本の青空」は、終戦後の憲法作成に尽力した鈴木安蔵という無名の憲法学者を描いた映画です。... 

日本国憲法 誕生の真相 ~ 映画「日本の青空」(30分ダイジェスト)   Truth of日本国憲法 誕生の真相 ~映画「日本の青空」(30分ダイジェスト)

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「横浜日記」(18)その2、3―日本人自身の血と涙で書いた日本国憲法 05・9・29 梅本浩志

http://blogs.yahoo.co.jp/humemoto2005/archive/2005/11/02より一部転載

※読みやすいように、行を一部変更しています。<抵抗権>の言葉のみ挿入しました。文章・内容の改訂はしていません。

<日本人自身の血と涙で書いた日本国憲法>

 ・・・・さていま一つのテーマである、鈴木安蔵の日本憲法作成への多大な寄与について、書き留めておこう。この日の講演で、このことについて紹介したのは、金子勝・立正大学法学部教授である。
 金子教授もまたそのことを十分に話をするには時間不足であったが、そのことを予期されていたようで、予め講演内容を記したかなり詳しいレジュメを用意されていた。『鈴木安蔵先生の学問と行動』と題するそのレジュメに沿って、この日の講演をごく簡単に以下に紹介しておく。若干ではあるが、私自身の取材と分析も盛り込んでおく。
 最初に鈴木安蔵の生い立ちや育ちについて簡単に紹介された。勉強もできたが、野球と剣道にも打ち込むスポーツマンであり、弁論部でも活躍。そして中学3年生の時、上級生の下級生に対する暴力制裁を黙認する学校に対してまず校長に抗議書を突きつけ、「同盟休校」つまりストライキを決行する指導者となり、闘争に勝利し、以後、校内からリンチ制裁がなくなった。
 二高(第二高等学校、現東北大学)に進学した鈴木安蔵は文学書と哲学書を乱読。哲学では新カント主義に熱中。1学年下の栗原佑(後の鈴木夫人・俊子の兄)と親しくなる。栗原は労働運動や社会主義運動についても詳しく、栗原の影響を受けて社会問題に目を向けるようになり、やがて栗原らとともに「第二高等学校社会思想研究会」を組織した。
 20歳のとき、京都大学文学部に入学。直ちに発足して間もない「京都帝国大学社会科学研究会」(京大社研)に入会。
 これを契機にマルクス主義関係の文献を片っ端から読破。そうした勉強の結果、文学部での哲学の勉強だけでは不十分だと考えた鈴木安蔵は経済学部に転部した。親友の栗原佑も京都大学に入っていた。そして転部の翌年、治安維持法違反で逮捕された。京都学連事件あるいは学生社会科学連合会事件と呼ばれる事件で、前年に制定された治安維持法適用第1号事件だった。
 第一審の京都地裁で禁固10カ月の有罪判決を受けて(注・最終的には大阪控訴院で禁固2年の有罪判決、1930年に上告が棄却されて有罪判決が確定し、入獄)大学を自主退学したが、この退学を契機に憲法学・政治学の研究に取り組むことを決意している。同時にこの年、有罪判決を受けた直後の1927年6月16日に栗原俊子と結婚している。
 安蔵は獄中にあって勉強と研究に励んだ。出獄後も獄内で作った「研究プラン」に沿って、研究を進め、吉野作造の指導も受けて『憲法の歴史的研究』を上梓したが、即日、発禁処分となった。この著作はフランス憲法とドイツ憲法の研究成果を盛り込んだ上で、明治憲法制定の歴史を批判的に明らかにしていて、いわば鈴木憲法学の成立を示す画期的な著作であったと金子勝教授は評価している。「社会科学としての憲法学」の成立だった。この研究成果を踏まえて鈴木は、比較憲法史研究と自由民権運動研究へと道を拓いた。
 時既に1930年代、日本に軍部ファシズムが社会を封圧し、大学においても自由民権運動について講義ができない時代だった。そんな時代状況下で鈴木安蔵は自由民権運動を詳しく研究した。1937年には幸運にも衆議院憲政史編纂会委員となり、このポストを巧みに活用したのであろう、高知にまで出かけて植木枝盛等の史料を発掘したりした。この植木枝盛研究は、後に新憲法作成に生かされることになる。
 だがそうした研究成果も一切、発表できなかった。例えば、1937年には『現代憲政の諸問題』を上梓したが出版法違反で摘発されて、罰金刑を科されるなどした。そして戸坂潤、中野重治、宮本百合子たちとともに執筆禁止措置を執られて、その旨を当局から新聞・雑誌社に通達された。こうして衆議院憲政史編纂会委員をわずか半年で辞職している。
 やがて日本は太平洋戦争に突入したが、鈴木安蔵もまた時代状況に呑み込まれ、戦争が欧米帝国主義列強によるアジア諸国の植民地支配からの解放の契機となるかもしれないなどと錯覚し、「大東亜共栄圏」構想に傾斜し、戦争末期には軍報道部の1員になるなど、過ちを犯すのだが、連合国側の「ポツダム宣言」に激しい衝撃を受け、自分の過ちを自己批判して、敗戦後の日本を民主化する必要性を強く認識するに至った。江戸時代の思想家・安藤昌益の研究や明治維新について学識の深いハーバート・ノーマンから強い示唆を受けたと言われる。桑原武夫や羽仁五郎たちと戦前から知己である日本生まれのカナダ人学者ノーマンは敗戦直後に再来日してまず鈴木安蔵に再会しているのである。再来日10日後の9月25日のことである。

 鈴木安蔵が新憲法への関わりを強く持つに至った契機は、敗戦から2カ月後の1945年10月29日に創立準備会が開かれた「日本文化人連盟」の席上であったようだ。当時の時代状況から、「新しい日本をどうするか」、「天皇制ファシズムをどう批判するのか」という話題が議論の中心となったことは自然なことだった。
 この席で、当時NHK会長だった高野岩三郎(大原社会問題研究所所長でもあった)が鈴木に「新しい憲法を作らなければならないから、準備しようではないか。君は憲法をやっているから、ぜひやってほしい」と呼びかけた。この会合の直前の10月4日に、近衛文麿が連合国最高司令官・マッカーサーから改憲の示唆を受けていたのである。こうして1945年11月5日に「憲法研究会」が正式に発足した。メンバーは6名。高野岩三郎、杉森孝次郎(評論家)、森戸辰男(東京帝国大学教授)、室伏高信(評論家)、岩淵辰雄(評論家)、鈴木安蔵である。会長に高野が就任した。幹事役は鈴木が担当した。鈴木は41歳で最年少だった。
 会合はほぼ1週間おきに開かれ、11月21日までに3回の会合が持たれた。常任メンバーのほかに6人の学識者が非常任メンバーとして会合に参加している。この3回の会合での討論を経て、「要綱」をまとめることとなり、鈴木安蔵がその任に当たった。第1次案ともいうべき『新憲法制定の根本要綱』がそれである。イギリス型の立憲君主制と国民主権を中心とする案だった。
 ところが11月28日に開かれた第4回会合で、会長の高野岩三郎が「共和制憲法草案」(正式には『日本共和国憲法私案要綱』)を提示して、議論が白熱化した。それまでの3回の討論でも共和制の意見が強かったのだが、10年も経てば国民の意識も成長して自然と共和制を要望する声が強まるだろうとの楽観論が強くて、なにもいま無理をしなくても、ということで鈴木要綱(第1次案)としてまとめられたのだが、将来歴史的反動もありうると考えられるとして、「この際、思いきって共和制にしたほうがよいのではないか」との意見が強まり、大統領を元首とする共和制と主権在民を中軸とする高野草案が提示されたのである。この高野案を基とする第2次案が「憲法改正要綱」としてまとめられ、高野、森戸、室伏、岩淵、鈴木の5名連記で各方面に発送された。
 そしてその5日後の12月5日に第5回会合がひらかれた。その会合に大内兵衛(東京帝国大学教授)が出席し、共和制はまだその時機ではない、との意見が出された。この時の討論を踏まえて鈴木は「憲法改正要綱」第3次案のとりまとめと執筆に全力を挙げた。その中に鈴木は「政府(が)憲法に背き、国民の自由権利を毀損するときは、国民之を変更するを得(る)」との基本的人権としての抵抗権を挿入していたことは注目すべきである。
 抵抗権はフランス革命の際に人権宣言に盛り込まれた画期的な人権思想であり(注1)、現在の米国憲法(注2)やチトー時代のユーゴスラヴィア憲法(注3)にも影響を与えているものである。比較憲法史の分野を切り拓き、フランス憲法をよく研究していた鈴木安蔵ならではの功績である。天皇制存続を認める以上、そして歴史的反動を予見する以上、抵抗権を新憲法に盛り込むことは、矛盾することが多い統治体制の確立・強化と人権擁護とのバランスを図るという観点からも非常に重要だったのだが、結局は室伏の異議でこの抵抗権は最終段階で盛り込まれないこととなった。この「憲法研究会」は、全員一致を原則としていたからである。


鈴木安蔵がまとめ、執筆した「憲法改正要綱」第3次案はほぼ全員の了承を得て、公表することとなり、最終作業の後に鈴木が浄書することとなった。その最終作業で、天皇制はイギリス型立憲君主制は払拭するほうがよいとの意見が大勢を占め、結局、現憲法の象徴天皇制に近い形を取ることとなった。また基本的人権として「国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す」の1項が盛り込まれることとなった。
 鈴木安蔵が浄書した『憲法草案要綱=憲法研究会案』はこうして敗戦の年の12月26日に確定された。高野、森戸、室伏、杉森、岩淵、鈴木のほかに途中から参加した馬場恒吾(ジャーナリスト)の7名が署名した。憲法研究会は直ちにできたての「憲法草案要綱」を3通作成し、幣原内閣、連合国軍総司令部(GHQ)に届けるとともに、記者に公表した。首相官邸には杉森、室伏、鈴木の3氏が代表して訪れ、幣原喜重郎首相に面会を求めたが、不在だと言うことで、必ず首相に手渡すようにと強く申し添えて、秘書官に手交した。その足で3名は官邸記者室に立ち寄って記者発表した。
 GHQの検閲の関係から新聞が報道したのは中1日おいた28日だったが、各紙に掲載されたその「憲法草案要綱」は、今日、「幻の憲法草案」として法律関係者に語り伝えられているものである。しかし時を隔てた今日、ごく一部の専門家以外、その全文がどのようなものであったのか、知るものは少ない。「幻の」と言われる所以である。
 GHQには英語が堪能な杉森が行って、提出した。当時、幣原内閣をはじめとする日本の国家権力指導部は、一応、「憲法問題調査委員会」を設置して、GHQ側の新憲法制定の意向に沿う形をとってはいたが、明治憲法改憲にも新憲法制定にも、非常に消極的で、サボタージュしていたとさえ言ってよく、GHQは業を煮やし、連合国側でポツダム宣言の趣旨に沿う新憲法を一方的に起草せざるをえないとまで考えるようになっていたという。もしそうだったら、新憲法は占領軍側の一方的なものになっていたことは確実であり、それこそ押し付けられた翻訳憲法となっていたであろう。ちょうどそんなときに、鈴木安蔵たちのまとめた「憲法草案要綱」がGHQに届けられたのである。
 GHQがこれに飛びついたのは極めて自然なことだった。GHQが起草しつつあった日本国憲法草案に鈴木たちの「憲法草案要綱」が多大な影響を与えた。それは「マッカーサー草案」の基礎となった。金子教授は次のように指摘している。
 「『憲法草案要綱」は、「ポツダム宣言」の趣旨に合致する憲法草案を作成する意思も能力も持たなかった天皇の日本国政府とその「憲法問題調査委員会」に業を煮やしたGHQが起草し、日本国憲法の基礎となった「憲法草案」──『マッカーサー草案』(1946年2月12日確定)に最も大きな影響を与えた。GHQ側は、『憲法草案要綱』を英訳し、それをつぶさに検討して、参考にした」(『日本国憲法と鈴木安蔵先生』)
 「幻の憲法草案」として、法律専門家の一部では知られているこの事実の持つ意味は大きい。私を含めて鈴木安蔵たちの現日本国憲法への貢献と影響については、多くの日本人はほとんど具体的に知っていないのだが、そのことをいいことにして、自民党をはじめとする改憲主義者たちは、現日本国憲法がGHQが強要したマッカーサー憲法を翻訳したものであり、押し付けられたものである以上、日本人自身の手で、日本国家、日本民族にふさわしい「自主憲法」に書き換えるべきだとすることを理由とし、改憲立論の根拠としているからである。
 事実は逆なのである。確かに形式的には、新憲法制定を急ぐGHQが、憲法制定作業をサボタージュしていた当時の日本政府に、英文で書かれた新憲法草案を示して、制定を急がせたものであるが、実際は鈴木安蔵たちが研究し、検討を重ねて書き上げた「憲法草案要綱」の日本語文章を、GHQが英語に翻訳して、マッカーサー草案に大幅に取り入れたものだったのである。鈴木たちの草案要綱には欠落していた戦争放棄条項(現憲法の第9条)に、戦前のケロッグ・ブリアン不戦条約等の戦争否定の精神を取り込んだ非戦の思想を条文化した第9条を取り入れるなどして、より体系化し、充実させて、現在の日本国憲法の形を取ったのである。
 このように「マッカーサー草案」と呼ばれはしたが、その実体は、日本人の手で作られたテキストがまず存在していたのである。それは歴史的な各種人権宣言や各国の憲法の長所、さらに19世紀の2度にわたる世界戦争から人類が学んだ教訓を基とする不戦条約などとともに、日本現代史からの教訓として、自由民権運動(特に植木枝盛の『東洋大日本国国憲案』)と治安維持法等による人権弾圧との熾烈を極めた知識人、市民、労働者たちの抵抗闘争を念頭に入れて新憲法に盛り込んだものであり、生々しい弾圧・抑圧を実体験していない外国占領軍ではとても目配りして書き込みしえない内容を盛り込んだものだった。言い換えれば、新憲法は特に明治維新以降の民衆の自由を求めて闘った血と涙の現代史から生まれ出たものなのであった。いやそればかりでなく、江戸時代の安藤昌益の思想や明治維新さらには自由民権運動の成果の盛り込みさえ見られた、日本人民衆の魂からほとばしり出たものとさえ言うことができるのではなかろうか。
 もし改憲論者たちが言うように外国占領軍から一方的に押し付けられたものであり、日本人が受け入れがたいものであったなら、過去半世紀間の永きにわたり憲法が無傷であるなどとはあり得ないことである。自由を奪われ、人権を抑圧され、天皇のために捕虜になることを禁じられたばかりか天皇のために死ぬことを強制された日本人だったからこそ、日本人自らの手で新憲法の草案を作り、今日に至るまで守り続けてきたのである。
 だがいま、60歳以前の日本人たちは全員、戦後生まれとなり、戦争も人権抑圧も飢餓や貧困も憲法制定のいきさつも、なにもかも知らない世代が大半となった。それをいいことに、現日本国憲法はアメリカ占領軍から一方的に押し付けられた翻訳憲法であるとか、日米安保条約がある以上、「自衛軍」という名の軍隊を持てるように憲法を改定すべきだとする大声が主流となっているかのように、マスコミも政治家たちも口にしている。そんなとき、事実はどうであったのか、どうなのか、ということをまず正確に知るべきことは当然である。
 鈴木安蔵の功績について金子勝は次のように書き留めている、「憲法研究会の『憲法草案要綱』は、鈴木先生がいなければ生まれなかったと考えられる」、「かくして、鈴木先生は日本国憲法の間接的起草者と言うことができる」(『日本国憲法と鈴木安蔵先生』)。1904年生まれの鈴木安蔵は今年3月で生誕101年を迎えている。20世紀を生き抜き、日本国憲法という人類史的な遺産を残した人物だった。  

<抵抗権について>

戦後史を振り返るとき、自民党政府は特に戦争放棄を規定した憲法第9条をなし崩しに形骸化し、日本を世界有数の軍事大国にまで変貌させ、日米安保条約を憲法の上位に置いて米国との軍事協力関係を強化し続けてきたが、それに対して日本の裁判所はほとんど判断を示さないか、合憲の判断を下している。このことを考えるとき、新憲法に民衆の抵抗権を盛り込まなかったことは、大変な失敗であったかもしれない。
 もし非武装であれ、抵抗権を憲法に明記しておけば、例えば沖縄の反基地闘争や60年安保闘争は言うにおよばず、成田三里塚農民の土地強制収用に対する抵抗闘争、国労労働者弾圧等に対する抵抗闘争に見られる反不当労働行為闘争運動、日本各地で展開された反原発運動、デモ規制公安条例抵抗闘争、その他従軍慰安婦や強制連行問題等の裁判闘争、少数派労働運動の人権擁護闘争、裁判所や労働委員会の堕落に対する異議申立の運動等々に一定の影響を与えたかもしれない。そうした抵抗の運動や闘争は、秀れて合憲的であり、法理論的には免責となり、無罪の根拠となるからである。日本国憲法が今日見られるように危機にある最大の原因の一つは、抵抗権を憲法に盛り込んでいなかったことに求められるのではなかろうか。

 (注1)フランス革命の際の人権宣言の中で「抵抗権」が盛り込まれた顕著な例は1793年の人権宣言である。その第33条には「圧制に対する抵抗は、それ以外の人権の帰結である」と明記し、第35条には「政府が人民の権利を侵害するときは、叛乱は、人民および人民の各部分のため権利の最も神聖なものでかつ義務の最も不可欠なものである」(山本圭一訳)と明確に規定している。パリ・コミューンに至る19世紀の幾つかの革命、第2次大戦中のナチス・ドイツ占領軍やヴィシー傀儡政権に対する武装レジスタンスは、明らかにこの抵抗権思想に基づくものと言ってよいだろう。
 (注2)アメリカ合衆国憲法修正10ヵ条(1791年)の修正第2条には「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民の武器を保護しまた武装する権利は、これを侵してはならない」(斎藤真訳)と武装抵抗権を明記している。
 (注3)チトー時代のユーゴスラヴィア憲法の第237条には「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の独立、主権、領土保全及び社会体制を擁護し防衛することは、ユーゴスラヴィアの民族と少数民族、勤労者と公民の、神聖で奪うことのできない権利であり義務である」とし、第238条では「何人といえども、ユーゴスラヴィアの公民が、国家を攻撃する敵に対して戦うことを妨げる権利を有しない。かかる行為は違憲であり、反逆罪で処断される」と定め、さらに第239条でこれらの目的を担保するためには、国家権力のみならずあらゆる社会政治コミュニティに参加している「全国民のレジスタンスを組織し、指令することは、その権利と義務である」(桜井安之助訳)と規定して「全人民の武力レジスタンス」を保障している。1999年のユーゴ動乱の際、NATO軍が、セルビア・モンテネグロ領土(旧ユーゴ)に地上侵攻しなかったのは、いやできなかったのは、この憲法上の武装抵抗権についてNATO諸国が熟知しているところが大きいと考えられる。

写真: <日本人自身の血と涙で書いた日本国憲法>    http://blogs.yahoo.co.jp/humemoto2005/archive/2005/11/02  12月5日に第5回会合がひらかれた。その会合に大内兵衛(東京帝国大学教授)が出席し、共和制はまだその時機ではない、との意見が出された。この時の討論を踏まえて鈴木は「憲法改正要綱」第3次案のとりまとめと執筆に全力を挙げた。その中に鈴木は「政府(が)憲法に背き、国民の自由権利を毀損するときは、国民之を変更するを得(る)」との基本的人権としての抵抗権を挿入していたことは注目すべきである。   抵抗権はフランス革命の際に人権宣言に盛り込まれた画期的な人権思想であり(注1)、現在の米国憲法(注2)やチトー時代のユーゴスラヴィア憲法(注3)にも影響を与えているものである。比較憲法史の分野を切り拓き、フランス憲法をよく研究していた鈴木安蔵ならではの功績である。天皇制存続を認める以上、そして歴史的反動を予見する以上、抵抗権を新憲法に盛り込むことは、矛盾することが多い統治体制の確立・強化と人権擁護とのバランスを図るという観点からも非常に重要だったのだが、結局は室伏の異議でこの抵抗権は最終段階で盛り込まれないこととなった。この「憲法研究会」は、全員一致を原則としていたからである。