【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

父と克也の大阪万博物語最終章「天皇陛下の前では克也に」岡田卓也チェーンストア元協会長のきょねんの旭日大綬章の叙勲で、皇居「松の間」で天皇陛下の近くで議員バッジをせず付き添った経緯を問われ

2024年05月07日 20時26分32秒 | 岡田克也、旅の途中
[写真]岡田卓也・イオン創業者(左から2人目)の3人の子のうち、一人だけ斜に構える岡田克也さん(右端)、新進党時代の1996年ごろ、岡田卓也著「私の履歴書 小売業の繁栄は平和の象徴」(日本経済新聞社)から引用。

 岡田克也さんは、およそ1年前(2023年5月9日)に、実父・岡田卓也日本チェーンストア協会元会長(「イオン」創業者)が旭日大綬章を、皇居「松の間」で天皇(徳仁)陛下から首にかけてもらった際に、付き添った経緯を問われ、「父からちょっと力を貸して欲しいということですから私が付き添った」と明かしました。その意図は「分かりません」と答えました。

 卓也さんは、車いすで参内。陛下の前では立ち上がって進みました。克也さんは議員バッジなしに、卓也さんの左後ろで付き添っていました。

 卓也さんが、「打倒ダイエー」をめざして三重から大阪万博開会式をまじかに控えた、大阪に進出したさい、克也さんは大阪教育大学付属高校に入学し、父と2人で暮らし、母が一週分の作り置きをするマンション生活をしました。祖父・父・兄と同じ「早稲田大学商学部」進学をすすめられましたが、「漠然とした公への憧れ」から東大法学部をめざして勉強に打ち込み、合格しました。太陽の塔が見えるマンションに住みながらも、大阪万博には行きませんでした。

 その後、早稲田大学商学部卒の竹下登首相からのスカウトで衆議院議員に。違う派閥とはいえ、いまだに影響力がある森喜朗元首相も早稲田大学商学部ですから、父の勧め通りに進学して、竹下さんや森さんに媚びを売るコミュ力があれば、副総理を超えた出世ができたかもしれません。

 一方、卓也さんが代表取締役をつとめた「ジャスコ」は、大阪万博開会式のときに「1期生の新入社員960名」を採用していますから、なみの衆議院議員や市長さんよりもよっぽど「公益」に資しているようにも感じます。

 岡田克也さんはきょう2024年5月7日の立憲民主党幹事長の立場での定例記者会見で、民間企業経営者でも所得税納税などで「日本の公のために尽くしたから叙勲を受けた」と問われ、「(旭日大綬章が)他にも同じ日になった方はいらっしゃいます。年齢的に言うと、20歳(実際にはおおむね25歳)ぐらい離れているのかな。やはり流通業界で初めての受章だったということで、それだけまだ地位が低いというわけなのかなと思う」と強がりました。

 ところで、ダイエーの創業者で「革命児」故・中内功さんと比べて、卓也さんはわずか3学年下でしかありません。中内さんの次男は、最後の最後まで「中内株」が残っていたプロ野球「福岡ダイエーホークス」で、オーナー代行として踏みとどまりました。2002年秋には元エースの若田部投手が「野球人生の最後は、地元関東で」と語り横浜ベイスターズに移りました。その後、2003年11月3日、球史に残る珍事が起こります。四番打者・小久保選手と中内オーナー代行が2人並んだ構図で記者会見。その場で人的、金銭とも無償で読売巨人に移籍すると発表。オーナー代行が涙を流すという謎の出来事がありました。これは、オーナー代行が母校・青山学院野球部に肩入れして、小久保、井口選手らを獲得。が、「九州ホークスにすべきだ」とする社内の異論が「不動のキャッチャー佐世保の城島、切り込み隊長1番打者は北九州の柴原」と、九州各地の地域名で売り出し、客も選手も増やしました。新人、沖縄県の新垣投手も争奪戦で獲得しました。「九州路線」が勝った福岡ホークスからも締め出しを食らったことへの涙だったようです。3番打者の青山出身の井口選手は、日本一となり、サンディエゴ・パドレスに飛びました。帰国して関東のロッテで監督までつとめ、NHKの解説者におさまりました。ひょうひょうとした井口さんが一番世渡りがうまかった印象です。中内さんの次男の近況はインターネットでは2011年でとまっています。

 岡田さんの前で「イオン」の単語を出すのはご法度であることを有名ですが、98歳の父から、今でも「命令」されていることは興味深いです。



 以上です。



















いや、それは個人的なことなのでが、ただ他にも同じ日になった方はいらっしゃいます。年齢的に言うと、20歳ぐらいになるという。他の産業界やはり流通業界で初めての受賞だったというそれだけまだ注意が低いということがあるかなと


ですよ


もう。




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