1999年のサッカー旅、最後はローマのスタディオ·オリンピコに行きました。このスタジアムはセリエAのローマとラツィオが共同で使用しています。たまたま、変則日程で、このローマ対インテルの試合だけ月曜日の開催だったので、見ることができました。
このスタジアムは、1960年のローマ五輪のメインスタジアムとして作られたもので、イメージとしては取り壊された東京の旧国立競技場のようでした。1990年のイタリアW杯では各地に最先端のスタジアムができましたが、このスタディオ·オリンピコは屋根こそ架けられていたものの、基本的な造りは1960年のままだったように感じました。
そう感じた理由は、バックスタンドの階段の長さでした。サン・シーロのようなバリアフリーの発想はなく、バックスタンド中段の私の席まで、延々と長い階段を上らされました。当時はまだ、スタジアムに来る人は健脚という発想だったのですね。そういうところも、旧国立競技場と似ていました。
試合はローマ対インテルで、ローマのセルジオ、デルベッキオ、トッテイの3トップと、インテルの2トップ、ロナウドとサモラーノにトップ下のバッジオという豪華攻撃陣の対決でした。試合は本当に点の取り合いになりました。当時、インテルのバッジオは最後の全盛期で、カウンターからトップ下のバッジオに収めてラストパスを出してもらう、インテルの狙いが上手く行っていました。
バッジオは2アシストと結果を残すのですが、当時の試合が乱戦になった理由はインテルGKパリュウカの負傷交代でした。3-1でリードしていたインテルが、まさかの連続失点で追い付かれたので、インテルベンチはGKをサブGKのフレイに変えました。それでも、乱戦模様は続き4-4まで行きましたが、最後にインテルに1点入って5-4で決着することになりました。
家に戻れば当時の記録を書いたノートがありますが、今は記憶だけで書いているので、誰がゴールを決めたなどは忘れました。ただ、バッジオの格好良さは今でも鮮明です。これが最後のチャンスでしたね。
このスタジアムは、1960年のローマ五輪のメインスタジアムとして作られたもので、イメージとしては取り壊された東京の旧国立競技場のようでした。1990年のイタリアW杯では各地に最先端のスタジアムができましたが、このスタディオ·オリンピコは屋根こそ架けられていたものの、基本的な造りは1960年のままだったように感じました。
そう感じた理由は、バックスタンドの階段の長さでした。サン・シーロのようなバリアフリーの発想はなく、バックスタンド中段の私の席まで、延々と長い階段を上らされました。当時はまだ、スタジアムに来る人は健脚という発想だったのですね。そういうところも、旧国立競技場と似ていました。
試合はローマ対インテルで、ローマのセルジオ、デルベッキオ、トッテイの3トップと、インテルの2トップ、ロナウドとサモラーノにトップ下のバッジオという豪華攻撃陣の対決でした。試合は本当に点の取り合いになりました。当時、インテルのバッジオは最後の全盛期で、カウンターからトップ下のバッジオに収めてラストパスを出してもらう、インテルの狙いが上手く行っていました。
バッジオは2アシストと結果を残すのですが、当時の試合が乱戦になった理由はインテルGKパリュウカの負傷交代でした。3-1でリードしていたインテルが、まさかの連続失点で追い付かれたので、インテルベンチはGKをサブGKのフレイに変えました。それでも、乱戦模様は続き4-4まで行きましたが、最後にインテルに1点入って5-4で決着することになりました。
家に戻れば当時の記録を書いたノートがありますが、今は記憶だけで書いているので、誰がゴールを決めたなどは忘れました。ただ、バッジオの格好良さは今でも鮮明です。これが最後のチャンスでしたね。
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