穴埋めネタは昔の力士から、元大関若島津の二所ノ関親方を取り上げます。秋場所の正面審判長席に座っていましたが、物言いの際に戻ってくるタイミングで写真が撮れました。若島津は鹿児島県の離島、種子島の出身です。緑の締め込みと浅黒く日焼けした肌は今でも思い出せます。
その風貌から、「南海の黒豹」という異名を取っていました。相撲振りも速攻相撲で、得意の左四つの下手まわしを引いてからのスピードで大関に上がってきました。体重は120kg前後と軽量で、大食漢の多い力士の中では、食が細く苦労したエピソードもあります。太れない体質を「割り箸」と評されたこともあります。
若島津は、一つちょっと不名誉な記録を残しています。それは、年6場所制になってからの大関の全勝優勝は過去8人いますが、一人を除いて全員横綱に昇進しているとNHKで紹介されていました。その「一人を除いて」というのが若島津です。全勝優勝までして、横綱になれなかったのかと、当時優勝2回で何度も横綱を射程に入れた全盛期を覚えているので懐かしく振り返ります。
強い大関だった若島津ですが、彼が横綱になれなかった理由はいくつかあります。一つは、当時の大横綱、千代の富士に対する圧倒的な対戦成績の悪さです。軽量でスピードが武器という意味では同タイプの千代の富士は、若島津が横綱を狙うなら越えなければいけない壁でしたが、結果として跳ね返されてしまいました。
また、無理に太ろうとした結果、患ってしまった糖尿病も、全盛期が短かった原因でした。皆勤して3勝12敗という、大関としてはやってはいけない不成績も経験し、何度もカド番をぎりぎりのところでしのいでいたイメージもあります。今振り返ると、最高位が大関の力士は、どうしても晩年のカド番の連続がイメージに残ってしまいがちなので、優勝を何度かして、横綱も狙っていた若島津は、名大関だったのではと思っています。
今や、現役時代のライバルの隆の里、北天佑、千代の富士がこの世を去りました。私が相撲に熱狂した少年時代を振り返られる数少ない存在になった若島津には、親方としての活躍を期待したいと思います。
その風貌から、「南海の黒豹」という異名を取っていました。相撲振りも速攻相撲で、得意の左四つの下手まわしを引いてからのスピードで大関に上がってきました。体重は120kg前後と軽量で、大食漢の多い力士の中では、食が細く苦労したエピソードもあります。太れない体質を「割り箸」と評されたこともあります。
若島津は、一つちょっと不名誉な記録を残しています。それは、年6場所制になってからの大関の全勝優勝は過去8人いますが、一人を除いて全員横綱に昇進しているとNHKで紹介されていました。その「一人を除いて」というのが若島津です。全勝優勝までして、横綱になれなかったのかと、当時優勝2回で何度も横綱を射程に入れた全盛期を覚えているので懐かしく振り返ります。
強い大関だった若島津ですが、彼が横綱になれなかった理由はいくつかあります。一つは、当時の大横綱、千代の富士に対する圧倒的な対戦成績の悪さです。軽量でスピードが武器という意味では同タイプの千代の富士は、若島津が横綱を狙うなら越えなければいけない壁でしたが、結果として跳ね返されてしまいました。
また、無理に太ろうとした結果、患ってしまった糖尿病も、全盛期が短かった原因でした。皆勤して3勝12敗という、大関としてはやってはいけない不成績も経験し、何度もカド番をぎりぎりのところでしのいでいたイメージもあります。今振り返ると、最高位が大関の力士は、どうしても晩年のカド番の連続がイメージに残ってしまいがちなので、優勝を何度かして、横綱も狙っていた若島津は、名大関だったのではと思っています。
今や、現役時代のライバルの隆の里、北天佑、千代の富士がこの世を去りました。私が相撲に熱狂した少年時代を振り返られる数少ない存在になった若島津には、親方としての活躍を期待したいと思います。