【 西野 → 】
私は二胡を弾いてみて、西洋の擦弦楽器などより、感情移入しやすい楽器だと考えています。
体の中に抱え込むように弾く姿勢もあるのでしょうが、指板の無い分、発音は悪くなりますが、手の感覚がそのまま伝わるような気がするのです。むしろ、その感情表現がしやすいところが、ゆったりと弾いた場合、「癒し」と感じられることも多いのではないかと想像します。
日本人の二胡愛好家が二胡という楽器に求めているのは、この癒しの部分が大きいような気がするんです。ヴァイオリンなどに比べて、弦の長さが長い分、音に幅が出ますし、むしろチェロなどに近い感じもあります。
中国では、二胡に「癒し」というのは求められるものですかね?
【 二胡絹弦 - 弦堂 → 】
中国人は自国の伝統のサウンドを「毒」で表現します。「癒し」に相当する概念は中国にはないので、治癒などと訳した上で、日本文化マニアに解説するサイトなどもあるぐらい彼らにとって難解です。解説もかなり無理があります。そもそも「癒し」という感情が存在する意義を大陸人に理解してもらうのも簡単ではないと思います。大陸では音楽にどれぐらい毒気が満ちているかで評価します。妖艶の方がわかりやすいかもしれませんが、もっと多くのものを含んでいますので、毒というより他ありません。
【西野→】それは強烈ですね。毒という表現は日本の二胡愛好家が聞いたら、引く人が多いのではないでしょうか・
【 二胡絹弦 - 弦堂 → 】
そうですね、大陸人が癒しを理解できないのと同じぐらい、毒という字で表現するのは日本人には難しいと思います。生徒さんとか一般向けには言えないと思いますね。そこで毒そのものを翻訳しようと試みたのですが、置き換える語がないんです。無理に訳すと、癒しが治癒になってしまうぐらい不自然です。概念がないから適切な言葉もないのです。しかし先生方には事実をそのまま提示すべきということから、薄められた情報はそぐわないという事情でうちの方でははっきり「毒」と書くようにしています。
癒しとは、その前提として疲れているとか、何かネガティブな感情が先行している上で、時間とか何か余裕もないと「癒し」にそれなりの重みがありません。ですから、特定の条件が揃っていないと癒しなるものは成立しません。
「癒し」は豊かな中産階級独特の感情だと思います。これを中国に求めるのは難しそうです。
ですから、日本では中国と別の捉え方で、「癒しの楽器」と見做しても、それはそれで良いのではないかと思います。
しかしそれをそのまま中国音楽にあてはめて見るとよくわからないとなりそうです。
その辺りの齟齬を滑らかに繋ぐのも老師の技量なのかもしれません
毒も、毒の字から入るからエグいのであって、音楽から入ると問題はないと思いますね
しかし日本で例えば「毒に満ちた二胡」などという変なキャッチフレーズよりも「癒し」の方が受け入れられやすいのは間違いありません。毒は勘違いされます。それで癒しがキラーワードとして飛び交い、やがて二胡とは癒しであるという島独特の概念が完成していったのではないかと思います。
例えば琉球音楽に対して、癒しという角度から捉えるのは間違っているとは思いませんが、同じように大陸音楽に対して見るのはどうなのでしょうか。ごく一部しか見ていない印象があります。大陸音楽は麻薬のような惑溺性が主な特徴であると感じられます。
テレサテンはわかりやすい例かもしれません。あれは癒しではなさそうですが、毒はあります。大陸でもかなりの人気があって不道徳、党の道徳基準にそぐわないという理由で禁止されていたので、当時の大陸の支配者と比較して「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサテン)が支配する」と揶揄されていた程でした。
日本独特の感覚として癒しを求めていくのは結構ですが、大陸を理解しようと思った場合、毒という概念抜きには何もわからないように思います。
しかし生徒さんには、こういう難しい話をするのではなく、徐々に大陸の魅力に触れていただけるように指導したいですね。まずは感覚でわからないと、理論的に言われてもはっきりわかりませんからね。
西野さんは、癒しという概念を念頭に置いて二胡を制作されることはございますか?
おそらくですが、日本人中国人共に、求めているのは日本的な音だと思います。だけど、これをはっきり言ってしまうとなぜか敬遠されそうな気がします。
嘘でも「癒しの二胡」と言ってしまった方がセールスは良いでしょうね。
そして、板胡に近づけた方が人気が出そうですが、そこでも「板胡からインスピレーションを受けました」的なことを発言してしまうと敬遠されそうです。
求めている人たち自身が何を求めているのか分かっていれば、間違っても「癒し」という言葉は出てこないと思いますね。大陸音楽で一見、癒しに聞こえるものは、あれは陶酔感だと思います。見る人の文化的背景によって見え方が違うのだと思います。
社会が大きく変化して、生活の概念が変わっていく過渡期にあって、求められる音も変わりそうです。ですから、最初は癒しから入るのがわかり易ければそれで良いような気はします。
私は二胡を弾いてみて、西洋の擦弦楽器などより、感情移入しやすい楽器だと考えています。
体の中に抱え込むように弾く姿勢もあるのでしょうが、指板の無い分、発音は悪くなりますが、手の感覚がそのまま伝わるような気がするのです。むしろ、その感情表現がしやすいところが、ゆったりと弾いた場合、「癒し」と感じられることも多いのではないかと想像します。
日本人の二胡愛好家が二胡という楽器に求めているのは、この癒しの部分が大きいような気がするんです。ヴァイオリンなどに比べて、弦の長さが長い分、音に幅が出ますし、むしろチェロなどに近い感じもあります。
中国では、二胡に「癒し」というのは求められるものですかね?
【 二胡絹弦 - 弦堂 → 】
中国人は自国の伝統のサウンドを「毒」で表現します。「癒し」に相当する概念は中国にはないので、治癒などと訳した上で、日本文化マニアに解説するサイトなどもあるぐらい彼らにとって難解です。解説もかなり無理があります。そもそも「癒し」という感情が存在する意義を大陸人に理解してもらうのも簡単ではないと思います。大陸では音楽にどれぐらい毒気が満ちているかで評価します。妖艶の方がわかりやすいかもしれませんが、もっと多くのものを含んでいますので、毒というより他ありません。
【西野→】それは強烈ですね。毒という表現は日本の二胡愛好家が聞いたら、引く人が多いのではないでしょうか・
【 二胡絹弦 - 弦堂 → 】
そうですね、大陸人が癒しを理解できないのと同じぐらい、毒という字で表現するのは日本人には難しいと思います。生徒さんとか一般向けには言えないと思いますね。そこで毒そのものを翻訳しようと試みたのですが、置き換える語がないんです。無理に訳すと、癒しが治癒になってしまうぐらい不自然です。概念がないから適切な言葉もないのです。しかし先生方には事実をそのまま提示すべきということから、薄められた情報はそぐわないという事情でうちの方でははっきり「毒」と書くようにしています。
癒しとは、その前提として疲れているとか、何かネガティブな感情が先行している上で、時間とか何か余裕もないと「癒し」にそれなりの重みがありません。ですから、特定の条件が揃っていないと癒しなるものは成立しません。
「癒し」は豊かな中産階級独特の感情だと思います。これを中国に求めるのは難しそうです。
ですから、日本では中国と別の捉え方で、「癒しの楽器」と見做しても、それはそれで良いのではないかと思います。
しかしそれをそのまま中国音楽にあてはめて見るとよくわからないとなりそうです。
その辺りの齟齬を滑らかに繋ぐのも老師の技量なのかもしれません
毒も、毒の字から入るからエグいのであって、音楽から入ると問題はないと思いますね
しかし日本で例えば「毒に満ちた二胡」などという変なキャッチフレーズよりも「癒し」の方が受け入れられやすいのは間違いありません。毒は勘違いされます。それで癒しがキラーワードとして飛び交い、やがて二胡とは癒しであるという島独特の概念が完成していったのではないかと思います。
例えば琉球音楽に対して、癒しという角度から捉えるのは間違っているとは思いませんが、同じように大陸音楽に対して見るのはどうなのでしょうか。ごく一部しか見ていない印象があります。大陸音楽は麻薬のような惑溺性が主な特徴であると感じられます。
テレサテンはわかりやすい例かもしれません。あれは癒しではなさそうですが、毒はあります。大陸でもかなりの人気があって不道徳、党の道徳基準にそぐわないという理由で禁止されていたので、当時の大陸の支配者と比較して「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサテン)が支配する」と揶揄されていた程でした。
日本独特の感覚として癒しを求めていくのは結構ですが、大陸を理解しようと思った場合、毒という概念抜きには何もわからないように思います。
しかし生徒さんには、こういう難しい話をするのではなく、徐々に大陸の魅力に触れていただけるように指導したいですね。まずは感覚でわからないと、理論的に言われてもはっきりわかりませんからね。
西野さんは、癒しという概念を念頭に置いて二胡を制作されることはございますか?
おそらくですが、日本人中国人共に、求めているのは日本的な音だと思います。だけど、これをはっきり言ってしまうとなぜか敬遠されそうな気がします。
嘘でも「癒しの二胡」と言ってしまった方がセールスは良いでしょうね。
そして、板胡に近づけた方が人気が出そうですが、そこでも「板胡からインスピレーションを受けました」的なことを発言してしまうと敬遠されそうです。
求めている人たち自身が何を求めているのか分かっていれば、間違っても「癒し」という言葉は出てこないと思いますね。大陸音楽で一見、癒しに聞こえるものは、あれは陶酔感だと思います。見る人の文化的背景によって見え方が違うのだと思います。
社会が大きく変化して、生活の概念が変わっていく過渡期にあって、求められる音も変わりそうです。ですから、最初は癒しから入るのがわかり易ければそれで良いような気はします。