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日本でも稀少 中途半端な「長さ1828m」伊丹空港A滑走路の謎 ‼️成る程ね・・・・

2020-04-22 00:10:00 | 飛行機の話題(乗り物ニュース)
日本でも稀少 中途半端な「長さ1828m」伊丹空港A滑走路の謎 運営会社に聞いてみた

2020.04.15 乗りものニュース編集部 から


日本の空港の滑走路は多数が500m刻みで、それ以外でもおおむね100m刻みや10m刻みで作られていますが、
伊丹空港のA滑走路は1828mとなっています。なぜこのようなことになったのか、運営会社に聞きました。

概ね500m刻み、50m、10m刻みもある日本の空港滑走路

 航空会社が就航している日本の空港の滑走路は、多くが500m刻みで作られています。
たとえば日本最長の成田空港のA滑走路、
ならびに関西空港のB滑走路は長さ4000m、
羽田空港のA滑走路は長さ3000mです。

 このほか少数派ですが、100m刻みや10m刻みで作られている滑走路もあります。
前者は長さ1200mの仙台空港A滑走路、
福岡空港は滑走路1本で長さ2800mとこれに該当、
後者は長さ3360mの羽田空港C滑走路、長さ2740mの県営名古屋飛行場などが見られます。

実はこのいずれでもない、
1m刻みで造られた、言ってしまえば中途半端な長さの滑走路を備える空港が、

日本国内には少なくとも2か所、存在します。

長さ1314mの新潟空港A滑走路と

長さ1828mの伊丹空港A滑走路です。

ただ、新潟空港の場合、非常に使用頻度が少なく、小型のプロペラ機が使用する程度です。
一方、伊丹空港のA滑走路は2020年4月現在も一線にあり、
リージョナルジェットと呼ばれる100席以下のジェット旅客機や、
ターボプロップ機がピーク時には分刻みで離着陸していて、
場合によっては、ボーイング767型や777型などが離着陸する、
長さ3000mのB滑走路との同時使用なども見ることができます。

なぜこのような長さの滑走路ができ、現在も運用されているのでしょうか。
伊丹空港を運営する関西エアポートに聞きました





1828m」の滑走路なぜできた? 長さを変えられないワケ
 
関西エアポートによると、伊丹空港のA滑走路が現在の長さとなったのは、
戦後「伊丹航空基地」の名で占領軍の接収下に置かれていた同空港が全面返還された
1958(昭和33)年3月のことだそうです。当時の運輸省(現在の国土交通省)は「大阪空港」と改称し、
長さ1828mのA滑走路を運用開始しました。

同社の広報部は、長さが決まった経緯を次のように話します。

A滑走路がこの長さとなったのは、
大阪空港として再出発した当時の改修工事が関係しているといわれています。
工事の際に使用されていた長さの単位は、日本で一般的な『メートル法』ではなく、
アメリカなどが用いている『ヤード法でした。
1828mはヤード法に換算すると2000ヤードとなり、この長さが採用され、
現在に至っているとされています」(関西エアポート 広報部)

また多くの空港では、航空機の大型化やその需要の拡大とともに、
滑走路長も延伸されていくことが一般的であったなか、伊丹空港ではそれが難しかったそうです。
その理由としては、1970(昭和45)に供用開始となった長さ3000mのB滑走路ができたことと、
空港周辺の用地取得が難しいことなどが挙げられるといいます。

【了】

A滑走路から離陸する
天草エアライン ATR 42 (JA01AM)









flight radar24
A滑走路へ着陸するABEX ボンバルディア


B滑走路着陸シーン



B滑走路へ着陸のJAL. ボーイング787-8


歴史

大阪国際空港は、1939年(昭和14年)1月17日に、大阪第二飛行場として、
兵庫県川辺郡神津村(現・伊丹市の一部)に開港した。
大阪飛行場(木津川飛行場)の移転先として建設されたが、
日中戦争が勃発した直後であったため、実質的には軍民共用飛行場となり、軍用機の発着も行われた。

太平洋戦争(第二次世界大戦)中は軍用飛行場の伊丹飛行場(通称:摂津飛行場)となり、
大阪府中河内郡大正村の大正飛行場(現在の八尾空港)や兵庫県加古郡尾上村の加古川飛行場とともに、
近畿圏における主要飛行場として陸軍が使用した。
大戦後期の本土空襲時には、三式戦闘機「飛燕」を装備する飛行第56戦隊などが伊丹飛行場に駐屯し、
大正駐屯の飛行第246戦隊(二式単座戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」装備)などの
飛行戦隊とともに京阪神大都市圏の防空に活躍した。

敗戦後は占領軍に接収され、伊丹の名称を継承して、伊丹エアベースと名付けられた。
現在広く用いられている大阪国際空港の通称である伊丹空港は、この時に定着したと言われている。
1951年に日本航空が乗り入れ開始。接収解除後、1958年3月18日に大阪空港として再開港した。

1960年代以降の高度経済成長期には、大阪市近郊の市街地が拡大し、
大阪国際空港の周辺もベットタウン化の波が押し寄せた。
同じころ、離着陸回数の増加や航空機の大型化・ジェット化が進み、
1964年6月1日より日本航空がジェット機の乗り入れが開始した。
ボーイング707やダグラス DC-8、コンベア880などの大型ジェット機が相次いで就航した。
これに対応して、1969年2月1日には現・旅客ターミナルビルが、
1970年2月5日には3,000 mのB滑走路(14R/32L)が、それぞれ供用開始され、
現在の大阪国際空港がほぼ完成した。
なお、当時完成したばかりの空港ターミナルビルは、第11回BCS賞を受賞した。

またこの時期に、1962年のワイズマン報告書の関西新空港建設の提唱や、
増え続ける航空需要に対してこれ以上の拡張が困難な大阪国際空港の現状を考慮して、
新空港建設が検討されはじめ、現在の関西国際空港の計画へとつながっていく。


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