旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

石山合戦

2017年02月10日 17時42分08秒 | エッセイ
石山合戦

 戦国最大の合戦、ひいては日本史上最大の戦いはなんだろう。関ヶ原の合戦?うんにゃ、戦闘の激しさからすると姉川の戦いも捨てがたいが、ここはやはり石山合戦ではなかろうか。魔王・織田信長対石山本願寺の、途中休戦を挟んで11年に及ぶ死闘だ。しかしこれは奇妙な戦いで、信長が東奔西走一刻も休みなく攻め続けるのに対して、石山方はほとんどが受け身だ。籠城戦には強いが、機動戦は得意ではない。
 この合戦では、天下統一前の反信長勢力のほとんど全てが登場する。信長は第一次信長包囲網、第二次信長包囲網を尽く撃破するが、石山を抜くことは出来ない。大体どのあの当時大名も、本願寺門徒を敵にする怖ろしさを骨の髄まで知っている。徳川家康などは、若い日に門徒と事を構え、家臣の半分を敵に廻して大変な目に遭っている。
 ところが信長はただ一人真っ向から門徒に対立した。彼の天下統一には、避けて通れない勢力だったのだ。この戦いはイデオロギー対決だ。中央集権絶対君主対、宗教共同統治体制、武士対百姓の戦いでもあった。この合戦の一方の主役は、戦国大名ではない。一向宗の名もなき門徒百姓、鉄砲異能集団・雑賀党や海賊衆が活躍して、プロの職業軍人を打ち負かす。そこが面白い。
 直接の獲物は地の利、海上交通の要となる石山の地、後に大坂城が築かれている河口の三角洲だ。合戦の経緯を見ると、信長は何度も窮地に陥っている。石山合戦とそれに付随する門徒討伐戦で多くの縁者、家臣を失い自身も負傷している。そして最後は奇想天外な作戦によって合戦の終止符を打った。

 一向宗(浄土真宗本願寺勢力)は、戦国時代最大の宗教的武装集団であった。この時代に非武装中立はない。そんな事を言っていたら、たちまち餌食になる。戦国時代の日本人は鳥獣を盛んに食っていたから、肉食を禁じた江戸時代の日本人よりも平均身長が数cm高い。筋骨も立派だったと思われる。後に焼き打ちに遭う天台宗比叡山延暦寺の僧兵は、荒くれ法師として名を馳せた。日蓮宗もしばしば一揆を起こし侮りがたい。根来衆は、真言宗の僧兵集団だ。武装する宗教集団は別段珍しくはない。
 地中海では十字軍の時代から宗教騎士団が、キリストの戦士として活躍した。16世紀のローマ法王庁は、小規模ながら海軍を持っていた。オスマン・トルコが後押しする北アフリカのイスラム海賊に対抗したのだ。一向宗は加賀や長島では領主を武力で追い出し、「百姓の持てる国」を作った。しかし一向宗も一枚岩とは言えない。加賀では本山から送りこまれた坊主どもが、威張り散らして税を取り立てたので、一揆内一揆が起きている。また対信長戦において、本願寺門徒の中には中立を守った寺も意外と多い。戦国の門徒百姓は、しっかりと自己主張をする人達だった。
 信長は石山(大坂)の地が欲しかったし、各地の本願寺に矢銭を要求し、従わなければ取り壊した。一向宗と信長が対立するのは必然だったが、石山方の参戦は信長にとっては突然で、仰天したそうだ。それは元亀元年(1570年)9月、三好三人衆を攻めている時だった。阿波・讃岐・淡路からの援軍を集めても三好方は劣勢で1万3千、対する織田軍は3万に加えて雑賀・根来連合軍の2万が参軍した。その中には3千挺の鉄砲が含まれている。
 織田軍が直ぐに攻撃をかけなかったのは、戦場がデルタ地帯で三好方の野田城・福島城が堅城であったためだ。傭兵の雑賀党の一部数千人は、三好方にも雇われていたので、戦闘は激しい銃撃戦から始まった。金さえ積めば傭兵はどちらにも付く。敵味方に分かれた雑賀党が戦場で出くわせば、派手に空砲を撃ち合う。それにしても織田方の雑賀・根来2万は多い。一説では、事前に石山方と打ち合わせ、戦場で寝返る計画だったという。
 数倍する敵と対峙した三好方からは、何人もの武将が織田方に寝返り、浮足立った三人衆は信長に和平を申し込むが、信長はこれを拒否して攻撃を命じる。三好方総崩れかと思われたその時、本願寺門跡の顕如自ら鎧を着て織田軍の本陣に襲いかかった。石山方の参戦により三人衆軍の士気は一気に盛り上がった。織田軍は堰きとめていた防堤を打ち破ったため、戦場は一面水びたしとなった。また西風が吹いて海水が淀川に逆流したため、敵味方相方の陣屋のことごとくが水没して戦闘は小康状態となった。
 ところが織田軍が石山周辺で足止めされている間に、別の戦線が動いた。顕如と打ち合わせていた浅井・朝倉連合軍が、近江から信長の背後を突くべく進軍してきたのだ。ここを突破されたら京は墜ち信長は挟み打ちに合う。宇佐山城主・森可成は織田信治、青地茂綱らと交通の要所である坂本を先に占拠して街道を封鎖、連合軍の南下を防ぐ。2万の連合軍を1千の兵力で一度は押し返したが、顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵が連合軍に加わると形勢は逆転する。森らはさらに数の増した連合軍相手に奮戦するが力尽き、3名の武将は戦死する。森可成は森長可や蘭丸らの父、織田信治は信長の弟である。
 3万に増加した連合軍は宇佐山城を攻めるが、可成の重臣らは1千の兵力でよく防ぎ、信長に貴重な時を稼いだ。連合軍はついに城攻めを諦めて、叡山に退く。信長は膠着した石山から兵を引きて帰京、浅井・朝倉勢に立ち向かう。この後信長は浅井・朝倉・六角連合軍との戦いにしばらく忙殺される。第一次石山合戦は、石山本願寺の勝利。顕如の戦略の見事さが目立つが、徹底を欠いたところも見える。まあ同盟したとはいえ同床異夢の個別の勢力なのだから、致し方ないのかもしれない。一向宗は別として、武将たちは自分の軍勢は出来るだけ傷つけずに別の味方に活躍してもらい、共倒れになってくれれば一番良い。あと誤算は森可成の奮戦にある。負傷した信治を背負って戦う可成の絵が残っている。これ以後信長は可成の子を大切に扱う。あの時点で浅井・朝倉に先に京に入られていたら、信長の命運は尽きていただろう。
 なお雑賀党は金銭よりも信仰を採り、石山合戦の最後まで信長に敵対し火力で織田軍を苦しめる。しかし雑賀党も後に分裂して一部は信長に味方する。職業軍人の織田軍は、石山の砦に雑賀党の旗、一本足の八咫烏が翻るとゲンナリして戦意が沈んだ。鉄砲・大筒で撃ち竦められ硝煙が垂れ込め、手足が千切れ体に大穴が開く戦闘を覚悟しなければならないからだ。
 叡山を焼き打ちし、長島の一揆討伐では門徒をなで斬り焼き殺す信長も、顕如と交渉する時は意外と丁重だ。顕如は天皇家と親密である。得度の際、元関白の猶子となり、天皇の綸旨により門跡となっている(何のことかよく分からないが)。顕如の妻は三条家の娘で、その姉は武田信玄の正室。三条夫人だ。つまり信玄と顕如は義兄弟なのだ。信長が最も恐れた男は、信玄である。卑屈なほど生前の信玄にはへつらっている。その信玄の義弟に礼を失することは出来ない。本願寺は北条氏とも縁故を結んでいた。
 さて石山合戦の勃発に呼応して伊勢長島で一向宗が蜂起した。一揆勢は凄まじい勢いで、支配者の織田方の城に攻めかかる。近江で朝倉・浅井と対陣していた信長は救援に赴くことが出来ない。数万に及ぶ一揆勢は連戦連勝、信長お気に入りの弟、信興の守る小木江城を攻撃して信興を自害させ城を奪い、桑名城の滝川一益を敗走させた。
 朝倉・浅井と和睦を結び、信長は5万の兵を率いて伊勢に攻め入る。一揆勢は山中に移動し撤退する。その退路の途中、道が狭い個所に織田の大軍を誘い込み、参戦していた雑賀衆が鉄砲で撃ちすくめ、一揆衆が弓を射かけた。信長本隊と佐久間隊はすばやく兵を退けたが、殿の柴田勝家が負傷、勝家に代わった氏家卜全とその家臣数名が討死した。正規軍はゲリラ戦に弱い。
 1573(天正元年)浅井長政、朝倉義景を滅亡させ、第一次信長包囲網を切り崩した信長は、間髪を入れずに第二次長島進攻に取り掛かった。この男に休息はない。前回の反省から水路を抑えるために船の調達を目論むが不調に終わる。そのため今回は長島への直接攻撃を見送り、一揆勢や国人衆のこもる城をいくつか陥落させまた降伏させると直ぐに帰陣を始めた。退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せし、またも弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきた。その中には伊賀・甲賀の兵もいた。織田軍は殿の林通政が討ち取られるが、本隊は振り切って退却した。
 翌年信長は船を手配し、三度目の長島攻めの為の大動員令を発し、万全の構えで陸と海から長島への侵攻を始めた。一部の抑えを残して主要な将のほとんどが参陣し、7~8万という過去に例のない大軍が長島を目指した。本願寺の手足を一本づつ折る。枝葉を落として本体を枯らす作戦だ。信長は兵力の小出しをせず、一気呵成に敵を叩く。陸から三部隊が腰を据えて兵を進め、海上からは九鬼嘉隆の安宅船を先頭にした大船団が到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。大軍にじっくりと攻められては、根が百姓の門徒勢には手の打ちようがない。城に籠り降伏を申し出るが、信長は許さない。城を囲んで兵糧攻めを行う。水陸からの完全な包囲に遭い、城中では多くの者が餓死し始めた。

 石山本願寺は、一時信長と和睦をしていたが、信長が朝倉氏浅井氏を滅ぼした天正元年(1573)4月、越前の一向一揆に呼応して再度挙兵した。この年の始めには、武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康と織田の援軍を散々に打ち破っている。信長の第三次長島攻めは7~9月だ。信玄が来れば戦況は一変する。石山本願寺は越前・長島・石山の3拠点で信長と戦い、信玄の上洛を待つが何故か武田軍は進軍を止めた。石山方の弱点は機動力が無いことで、3拠点はそれぞれが個別に戦うしかない。
 兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは9月末、降伏を申し出て船で退去しようとした。織田軍は鉄砲で一斉射撃し、顕忍や下問頼旦等門徒1,000人余が射殺、あるいは斬り殺された。怒った一揆衆800余は、裸になって抜刀し織田軍の防御の隙間に切り込んだ。捨て身の切り込みは凄まじく、信長の庶兄である信広、弟の秀成、信成、信次、信直、佐治信方といった織田一族が斬り殺された。信長が石山合戦の最初の3年で失った親族が生き残っていたら、歴史は違う展開を見せたかもしれない。妥協を許さない、余りに非情なやり口がもたらした犠牲で、自業自得といえる。
 第三次長島殲滅戦では、この800人の内の生き残りだけが脱出した。信長は最後に残った2城を幾重にも柵で囲み、火を放ち中にいた2万の男女を焼き殺した。信長が最も恐れた武田信玄はすでに5月に病死していた。武田軍は兵を引く。
 天正3年(1575)信長は、武田勝頼を長篠の戦いで破り、余力をかって越前を制圧した。石山本願寺は長島・越前と2つの拠点を失い、再度信長に和を乞い膝を屈した。次の信長包囲網の構築は、足利義昭の手に移った。信長に追放された名ばかりの征夷大将軍・義昭は、中国の毛利氏、宇喜多氏、北陸の上杉謙信を包囲網に参加させる。もちろん顕如の元にも同盟を申し入れる。石山は要の位置にある。
 こうした義昭の動きは畿内の勢力に動揺を与え、丹波の波多野、但馬の山名が信長に叛旗を翻した。顕如は、毛利輝元に庇護されていた義昭と与してみたび挙兵した。信長は明智光秀らに命じて、石山本願寺を三方から包囲したが、海上からの補給路を断つことは出来ない。織田軍が木津砦を攻めると、本願寺軍は1万を超える門徒衆が石山から出てきて、木津の織田軍を蹴散らし天王寺砦まで攻め入った。この時包囲軍の織田方主将、塙直政が討死した。群がる門徒に取り囲まれて砦に立て籠もった光秀は、信長に救援を要請する。

 石山の門徒衆はプロの軍人ではないので個々の戦闘能力は劣り、装備も自前で整えた粗末なものだ。しかし死を恐れず、手柄・功名を求めない。裏切りは決してなく、粗食に耐え、空き地があれば田畑を作る。彼らのむしろ旗には、「欣求浄土、厭離穢土」(この世は闇だ、さっさとオサラバ極楽往生)「進む者は極楽往生、退く者は無間地獄」身をふたも無い。槍を揃えて前に進むしかない。武士にとっては、首を取ってもたいした手柄にならず、前へ前へと押し出してくる真に無気味な相手であった。
 光秀の危機を知った信長はすぐさま諸国に陣触れを発するが、突然のことで兵の集結が遅い。信長はしびれを切らし3,000を連れて天王寺に急行、包囲している15,000の門徒衆に攻め入った。不意をつかれた門徒衆が立ち直るまでに光秀を救出する。しかし戦場にいた雑賀衆は色めきたった。旗印から信長だと知り、ここぞと銃弾を集中する。信長の馬廻り衆は楯となって銃弾を浴び、次々に落馬する。駆け去るかと思った瞬間、バシッついに信長に当った。放った雑賀のスナイパーには手応えがあったに違いない。太ももを射ぬかれた信長は、苦痛に顔をしかめるが落馬はまぬがれ戦場を走り去る。
 結局信長の果断な行動が勝り、本願寺軍は石山に撤退する。信長は塙直政の後任に佐久間信盛を任命して、本願寺を完全に包囲する。このままでは兵糧が尽きる。経済的に包囲された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。毛利はこの年織田軍に寝返った備中の三村氏を滅し、備前と美作でも宇喜多直家と同盟して浦上・三浦を追いだして勢力圏を大きく東に拡大した。これによって毛利は陸路で播磨まで侵攻する事が可能になり、瀬戸内海の制海権を確保していた。
 石山が陥落すれば、織田の圧力は直接毛利に向けられる。石山が在る限り、織田軍は押さえを残す必要があるので、全力を出す事が出来ない。利害が一致した毛利は要請に応じ村上水軍、小早川水軍、毛利水軍の船700艘が兵糧・弾薬を満載して大坂の海上を埋め尽くした。毛利水軍には雑賀の船団が合力し、織田の九鬼水軍300艘に木津川河口で襲いかかった。
 織田の水軍は全てが戦闘船、毛利水軍の数は多いがその多くは輸送船なので、戦力に大きな差はない。ところが海戦の結果は一方的だった。素早く進退して焙烙火矢を投げ込む毛利・雑賀連合軍に翻弄された織田水軍は、何も出来ずに全滅した。真鍋七五三兵衛、沼野伝内・伊賀、宮崎鎌大夫・鹿目介、尼崎の小畑氏、花隈の野口氏、指揮官はことごとく討死している。総大将の九鬼嘉隆だけが逃げかえっているが、或いは実際に戦闘には参加していなかったのか。
 焙烙火矢は焙烙または陶器に火薬を入れ、導火線に点火して敵方に投げ込む手榴弾。手で直接もしくは縄を付けて振りまわして遠心力を使って投擲する。焼夷弾とも言える。戦国時代の軍船は木製で舷側が低く、船体の上に大きく防壁を備えた構造であった。その隙間や上から焙烙火矢を投げ込むのは極めて有効だった。とはいえ素早く接近して投げ込み、捕そくされる前に離れる巧みな操船術が物をいう。村上・小早川といった毛利水軍はこの戦法が得意で、古くは厳島の戦いで使用している。雑賀は火薬のスペシャリストで海賊だ。陸戦でも焙烙火矢を用いる。
 他の戦国大名との合戦で敗戦の少ない織田軍が、石山合戦に限って何度も手ひどい負けを喫している。織田水軍を蹴散らした毛利の兵糧船団はゆうゆうと木津川を遡り、石山本願寺に大量の米俵を運び込み山と積んだ。石山方の意気は上がり、織田の包囲陣は沈んだ。
 煮え湯を飲まされた信長は考える。まず水軍の九鬼嘉隆に命じる。燃えない船を作れ。九鬼は莫大な建造費を貰い、信長の指示で燃えないように鉄の装甲板で船体・甲板を覆った大船の建造を始める。
 そして雑賀を討つ。石山を落とすには雑賀の火力を断つことだ。石山合戦と通じて、信長は雑賀衆にいつも手ひどい損害を与えられてきた。長島一揆討伐、捨て身の切り込みを除いて、部下の戦死のほとんどが雑賀衆の狙撃による。また顕如は雑賀に頼り切っている。危なくなると雑賀に文を送り、助けてたもれと援軍を依頼する。
 翌年、信長は調略によって紀伊の雑賀三搦衆と根来寺の杉の坊を内応させることに成功する。根来衆は根来寺を中心とした新義真言宗の僧徒で、長髪を後ろに束ね僧服を着て火縄を首からぶら下げた僧兵集団だ。元々鉄砲を種子島から畿内に持ち帰ったのは、根来寺の津田算長らだ。真言宗徒の根来衆には、浄土真宗の石山本願寺に合力する理由も義理もない。しかし根来も雑賀も地域は近く、人的な交流は盛んだ。遠い親戚くらいに考えるとよい。稼業も同じ、傭兵、海運、海賊である。趣味は銭儲けだ。
 雑賀衆は5つの地域に分かれていた。「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」である。信長は根来衆・杉坊と中郷・南郷・宮郷の雑賀衆を味方につけた。何て奴らだ。地獄に落ちるぞ。そう思うのは、江戸時代の勤め人武士の根性が染みついた現代人の考えだ。信長の大軍が雑賀に向けられる。援軍はないから勝ち目はない。雑賀川を越えて奥まった雑賀荘と十ヶ郷なら地の利で防ぐ方策も考えられるが、通り道の我々は田畑と家屋を捨てなければならない。本願寺が地獄と言うなら、根来寺に宗旨替えじゃ。
 もともと仲間うちで喧嘩が絶えない連中だ。とことん自由人の彼らは思う。裏切りが何じゃい。戦略の内だろよ。明日死んでも悔いが無いように、今日を思い切り楽しむ。勝手に死んだ馬鹿殿の仇を討つ赤穂浪士など、気持ち悪いと思うだろうよ。大坂の陣以前と以後では、武士道は全く違うものだ。どんなに理不尽でも上の命令に服す、など卑怯者のクズのやることだ。俺の生き方は俺が決める。雑賀には元々領主がいないのだ。
信長は天正5年(1577)自身が率いる大軍をもって紀伊に侵攻し、雑賀荘の土橋守重と十ヶ郷の鈴木孫一(雑賀孫一)を激しく攻める。しかし地形を利用した雑賀衆の抵抗は凄まじく、織田軍は甚大な被害を出す。戦場は膠着状態になり、これ以上は大軍を一局面に留めておけない信長は、降伏を申し出た孫一、土橋らに誓紙を出させ服属を誓わせた。ところが織田軍が兵を引くと孫一はたちまち叛旗を翻して、信長に加担した宮郷や根来衆の守る太田城を攻める。誓紙なんぞ、欲しけりゃ取りに来い。何枚でも書いてやる。かなり激しく殺し合ったが、まあそこは身内である。最終的には和睦を結び、雑賀衆は再び石山方についた。


九鬼の黒船が完成した。大筒・大鉄砲を備えた縦22m、横12mの鉄甲船は6隻、滝川一益に命じて造らせた大安宅船と併せて7隻の船団は、伊勢大湊を出港して大坂に向かった。1519~1522年、世界一周を果たしたマゼランのビクトリア号が復元された。全長25.9m、最大幅6.72m、排水量170トン。ところが実際のビクトリア号の排水量は85トンだった。信長の鉄甲船は、当時世界一の大きさだったかもしれない。だが横に膨らみ過ぎ、遠洋航海には全く適さない。
雑賀衆はこれを迎えうち、淡輪海上で取り囲み鉄砲と火矢で攻撃するが、鉄甲に当って何の効果もない。鈍重な船団から大砲を撃ちかけられて何艘も撃沈され、散々な損失を被る。完敗であった。船団は堺に着岸し、翌日から石山本願寺への海路を封鎖する。数ヵ月後、毛利水軍600余艘が再び木津川河口に現れた。毛利軍は焙烙火矢で攻撃をかけるが、鉄甲船は燃えない。鉄甲船から大砲が撃ちだされ、毛利の戦船、兵糧船が一隻一隻と沈められて行く。
この第二次木津川河口の海戦で、石山の命運は尽きた。毛利の大船団が再び大坂湾に姿を現わすことは無かった。ここからは気が進まないが、石山合戦の終息に触れ、その後の主役それぞれの命運を簡単に記しておく。

紀州討伐と第二次木津川口海戦の間に、包囲の要衝である天王寺砦を守っていた松永久秀が、突如砦を焼いて撤退し謀反を起こした。この男ほど謀反が似合う武将も他にはない。主家三好氏の暗殺・乗っ取り、将軍・足利義輝の殺害、奈良大仏殿の焼き打ち、戦国を駆け抜けたスーパーヒールである。久秀の謀反は三度目だが、信長は素早く手を打ち2ヶ月で久秀の居城、大和信貴山城を陥落させ謀反を鎮圧した。久秀は茶器の名器「平蜘蛛」と共に爆死した。全く石山合戦は色々なことが起きる。その場にいたら、明日どうころぶか皆目見当が付かない。
翌天正6年(1578)信長包囲網の希望の星、上杉謙信が病死した。その直後、甥の上杉景勝と上杉景虎による跡目争い、御館の乱が発生し北陸からの援軍は期待出来なくなった。ところが10月に椿事が発生。荒木村重が謀反を起こし、摂津伊丹の有岡城に籠城したため、石山本願寺包囲網の一角に穴が開いた。信長は何度も部下に背かれる。最期はご存知の通りだ。信長には、人の気持ちは分からない。重臣、佐久間信盛を排斥した時のことを思えば、誰だって背きたくなる。気が休まらない。あの19ヶ条の折檻状には、えらく昔のことまでがネチネチと書かれている。その場で言えよ。言えないあんたでもあるまいに。頭の回転が速すぎて言葉が追い付かず、陰に籠るタイプなのか。もし信長に軍師がいたなら、あんな文は発表させないだろうが、部下の進言すら聞かない男だ。
荒木の離反は信長には結構痛かった。畿内に兵を留める必要から、秀吉が攻めていた別所長治の守る三木城への、毛利による補給が可能になった。しかし翌天正7年(1579)になると、信長に敵対してきた丹波の波多野氏、赤井氏の居城が相次いで落ち、孤立した荒木村重は部下も妻子も捨てて逃亡する。10月に入ると、備前の有力国衆であった宇喜多直家が毛利の下を離れて織田方についた。これは痛い。三木城は完全に補給路を断たれた。こうして最後の信長包囲網は瓦解した。
石山方は弾薬・食糧の欠乏を恐れた。もう一年以上補給がない。信長も潮時と見たのか、朝廷を通じて講和の話しあいが進められた。講和の申し出は、荒木の離反を受け最初は信長から出された。本能寺は毛利の賛同が必要と、事実上拒否している。しかし第二次木津川口海戦の勝利により今度は信長が交渉の打ち切りを宣言、戦況の変化によって交渉は目まぐるしく変化した。
最終的に合意したのは天正8年(1580)3月7日、条件は顕如ら門徒の大坂退城で、期限は7月20日だった。なお信長は代替地を与える約束をしたが、そんなものは言う方も聞く方も信じてはいない。4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子の教如に渡し、雑賀にある鷺森御坊に退去した。ところが雑賀や淡路の門徒は、石山に届けられる兵糧で妻子を養っていた。この地を離れるとたちまち窮乏してしまう。教如は信長に引き続き抵抗するべく、石山の占拠を続けた。しかし石山を取り巻く情勢は更に悪化する。教如は近衛前久の説得を受け、石山を引き渡して雑賀に退去し、8月2日ついに石山は信長のものになった。
信長は退去する石山勢を追撃する積りだったが、森成利(蘭丸)の母、妙向尼の必死の説得により断念した。講和違反という名分もあったが、思い出して欲しい。信長は妙向尼の旦那に恩がある。引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けて完全に消滅した。この火災の原因は分からないが、ここは瓦礫の丘になるのが相応しい。加賀の一向一揆はさらに抵抗を続け、信長の重臣、柴田勝家と交戦し続けた。ついに鎮圧されたのは天正10年(1582)であった。これで「百姓の持ちたる国」は無くなった。
石山本願寺は包囲されて十年、食糧の搬入が断たれてからも1年半に渡って無補給で籠城した。これ程長い籠城戦は、日本史上に例がない。今ある大坂城は徳川が建てたもので、その下には豊臣秀頼が最期を迎えた旧大坂城が眠っている。更にその下にあったのが、石山本願寺だ。最初に門徒がこの地に足を踏み入れると、そのまま礎石に使える大きな石が土中からゴロゴロ出てきたという。
本願寺は石山合戦の前から寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀・柵を巡らし「寺内町」としての防備を固めた。戦国の世で他力本願の一向宗は栄え、富の蓄積が拡大した。イエズス会の報告では、「日本の富の大部分は、この坊主の所有である。毎年、はなはだ盛んな祭りを行い----」とある。「寺内町」は十町に分かれていた。石山本願寺の防衛兵として戦闘し、また日常の警備のために武具・食糧持参で諸国から上番する「番衆」は、その繁栄を見て驚いた。石山の周辺にはいくつかの刀剣生産地があり、寺内町で武具を購入することも出来た。
石山本願寺自体が小高い丘の上で、多くの河川・堀・空堀・櫓を配置した難攻不落の要塞であったが、その廻りには51城の支城を配していた。あと2年頑張っていたら信長は本能寺で死んだが、信長の後を継ぐ武家社会のリーダーが石山本願寺の存続を許したはずはない。権力の頂点は一つだ。
雑賀衆は雑賀の鷺森に顕如を迎え入れた。両者はどこまでも縁が深い。石山を失って雑賀は分裂する。信長と手を組んだ鈴木孫一が反対派の土橋守重を暗殺して主導権を握るが、本能寺の変で信長が横死、孫一は逃亡し土橋派が主導権を奪い返す。雑賀は以後も今度は羽柴秀吉に反発し続ける。小牧・長久手の戦いでは家康と組んで、根来衆と共に秀吉の背後を脅かした。しかしその後は雑賀・根来とも秀吉による徹底的な征伐を受け、武装集団としては壊滅し歴史からその姿を消す。生き残った者の多くは帰農したが、卓越した鉄砲・火薬の技術から各地の武将に個人で仕えた者もいる。
糸編、つまり繊維・服飾とその流通の分野に進んだ者もいたようだ。東京馬喰町には服飾問屋が軒を連ねるが、店の看板に「根来」や「雑賀」の二文字を見かける。それを見ると、俺はニカっとする。そして横須賀にはサイカヤデパートがある。
鈴木(雑賀)孫一のにせ首は何度か京に晒されたが、実際にはしぶとく生き残った。独眼竜正宗の騎馬隊に、走りながらの馬上射撃術を伝授したという。顕如退去後に教如が講和に反して石山を占拠したため、本願寺は顕如と教如の2派に分かれた。信長の死後、朝廷の仲介により和解するが、顕如は教如を廃嫡する。時の権力者秀吉、次いで家康はこの分裂をむしろ助長し慶長7年(1602)本願寺は東西に分かれた。教如が東本願寺、顕如(准如)が西本願寺だ。家康の時代になると、特に東本願寺は丁重に扱われた。
石山合戦、加賀一揆鎮圧の後は各地の宗教一揆は激減した。熱から醒めたか本願寺は単なる宗教集団となり、門徒百姓からは荒らぶる魂が抜けてしまった。江戸期の百姓一揆は経済困窮、圧制への抗議で宗教色はない。本能寺の変後、顕如は秀吉と和解し、豊臣政権の管理下大坂次いで京都に住み、教団の再興に努める。秀吉は本願寺を警戒しつつも、彼らの街おこしや運営のノウハウを自分のものにしたかった。九州平定に顕如を同行させるなど、お伽衆のような扱いをしてみせカリスマ性を剥いだ。
しかし全国各地の真宗寺院の記録には、誇らしげな武勇談、忠節談が多く残っている。門徒たちが石山合戦と一向一揆を「正義の戦い」として誇りにしていることが分かる。その石山合戦をもって、日本の宗教戦争は終わった。そう思っていたら、最後に凄いのが残っていた。天草・島原の乱(1637-8年)である。原城に籠城したキリシタンは総勢37,000人(内戦闘員14,000、女子供13,000)。天草四郎のもと70日間籠城して幕府軍と戦い、少なからぬ損害を与えた後、一人残らず戦死あるいは殺された。この戦で鎖国が始まり、圧政への監視と、過酷過ぎるキリシタンの取り締まりが緩和された。幕府が百年王国への道を開いた。
戦国時代の終焉は大坂夏の陣ではなく、島原の乱だと言える。この先の日本人は没個性化し、スケールの小さい勤勉体質の横並びとなる。肉食を禁じたから背も縮む。次に破天荒な個性派が出てくるのは、二百数十年後の幕末維新だ。男が輝く時ははるか先、長い退屈な眠りに入ろう。江戸の世は、おカミさん連中に任せておけばよい。

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2 コメント

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Unknown (鷲谷 壮介)
2020-08-29 01:27:19
初めまして、鷲谷と申します!

石山合戦についての記事を書かせていただいたのですが、その際に胡蝶の夢さんの記事を参考にさせていただきました。

石山合戦全般に渡ってかなり詳しく書かれていて、大変参考なりました!

「名もなき門徒百姓」が「プロの職業軍人を打ち負かす」という表現、いいですね!

それと、誠に勝手ながら自ブログにて胡蝶の夢さんの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!
http://washiya.sapolog.com/e485013.html
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Unknown (Unknown)
2020-10-03 17:07:50
光栄です。リンク歓迎。
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